私は初老男である。
瀬戸内寂聴という人が「殺したがるばかもの」なる発言に謝罪していた。
当たり前の話だが、これが「近所のおばさん」が言っていたのでは大した問題にならない。
というより、町中・国中で誹謗・中傷で満ち溢れている。
それはそれで大変な問題だと思うのだが・・・・。
しかし、ある程度の社会的地位にある人はその「発言」に責任が発生する。
まあ、寂聴氏という人を、どうゆう人捉えているかによってその意味はだいぶ違ってくるのだろうけれど。
そうした意味では高齢でもあるし、言いたいことの意味が分からなくもないので・・・・まあ、失言だったなぁって感じ。
そして、先ほど見つけた記事が
「武蔵野大学の男性教授が『残業100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない』などとインターネット上に投稿していた」
というもの。
61歳の男性だという。
まず、疑問。
この人は「100時間の残業」をやったことがあるのか?
23歳の時に「電通」という会社で・・・・。
単純な計算だが、
休日出勤をしないとした場合。(まあ、そんなことはありえないけど)
月に20日勤務で100時間の残業は、1日5時間平均になる。
通常の会社の大抵の退社時間は5:30くらいだろうから、つまり10:30までの勤務である。
さらに、この100時間という数字はあいまいで、多分もっと多かったと推測できる。
そして、家に持ち帰っての仕事もあったと考えるべきだろう。
亡くなった彼女の記したものには「もう4時だよ・・・」らしき記述があったと聞く。
それは「PM」のことではないだろう。
組織というものは、どうした物であろうと「閉鎖的」にできている。
その「閉鎖性」は、やはり経営者の意識によって決定している。(のだろう・・・)
現実の経済活動の中で、他社と同じことをやっていて生き残れない。
それはわからなくはない。
しかし、やはりこの「100時間」という数字の意味を考えるべきではないだろうか。
さらに言えば、人間の意識とし気力の充実しているのなら、この数字を半分くらいに感じることもできるかもしれない。
だが上司から「20時間の残業代が無駄だった」なる発言があったらしきことも聞く。
彼女を・・・・追い詰めるように、追い詰めるようにことが進んでいっている。
そうしたことがあった中で、学生を社会に送る出す側の「大学教授」が、61歳の人間が・・・・。
こうした発言をする。
たしかに「100時間の残業」に耐えて「出世」する人間もいるだろう。
しかし「それを基準」にしては、いけないのだ。
「組織が閉鎖的」になるように、人間の「精神も閉鎖的」になり「逃げる」ことができなくなる。
人間には「最終的な逃げ道」を、残しておかなければならない。
そして、それは絶対あるし「死ぬ」のであれば「逃げた」方が良い。
「死んではいけない」のだ。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「イザというときは逃げる」ことができますように。
May
「電通」には、組合があって「36協定」も結んでいたという。それで、こうしたことが起こるのに驚きを隠せない。