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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『アサーション入門』

2021-04-14 22:26:08 | 読書。
読書。
『アサーション入門』 平木典子
を読んだ。

副題は「自分も相手も大切にする自己表現法」です。そういったコミュニケーションの取り方を解説する入門書なのでした。

本書では、「アサーション」「アサーティブ」という聞き慣れない言葉が随所にでてきます。著者による翻訳では「自他尊重の自己表現」となっていました。この、心理学ヒントに行われるコミュニケーションのやり方を実践すれば、日常のやり取りに変化と充実感が得られるでしょう、とあります。さらに、人のこころの奥深さを知り、自分らしい生き方の道を拓くもするのだ、と。

まず、自己表現の三つのパターンを解説する章から始まります。三つとは、「非主張的自己表現」「攻撃的自己表現」「アサーティブな自己表現」。

「非主張的自己表現」は、自分の意見や気持ちを言わない・言い損なう・言っても伝わりにくいタイプです。そこには根本に、どうせ伝わらないのだ、という諦めのある人も多い。また、相手から理解されにくく、相手を優先して自分を後回しにするので、結果として相手の言いなりになってしまうこともある、と。そして、自分の意見を言わないために、理解されなかったり、無視されたり、同意したものだと誤解されたりしやすい。このタイプの人は反論しないため、周囲から「いい人」と思われるけれども、「都合のいい人」ともみなされがち。「攻撃的自己表現」の人との組み合わせで、メンタルヘルス被害に遭うことにもなりかねないのだそう。このタイプは、相手を立ててトラブルや葛藤を起こさないように配慮しているところがありますが、自分をないがしろにしているために、そのうち自分でも何が言いたいのかわからなくなるし、自分で決められなくなったり言い方がわからなくなったりするようです。
それらが積み重なって、結果、自分にも他人にも無責任になるし、理解されないという弧絶感や恨みを抱えてしまうこともある。欲求不満が急に爆発して、いわゆる「キレる」状態になるのはこの「非主張的自己表現」タイプが追い詰められた時なのです。つまりは、自分を大切にしない自己表現法なのでした。そこには、社会的・文化的背景から影響を受けてそうなってしまう例が多いみたいです。

「攻撃的自己表現」はイメージしやすそうに思えるのですが、パワハラやモラハラなどをやるタイプです。自分の言い分や気持ちを押し通そうとします。「言い放しにする」「押し付ける」「言い負かす」「命令する」「操作する」「大声で怒鳴る」などがこのタイプにあたります。また、ハキハキと表情豊かに自分の意見を述べているように見えるとき、丁寧でやさしい言葉や態度でおだてたり甘えたりしているときでも、自分の思い通りに操作しようとしていたなら、「攻撃的自己表現」にあたるそうです。いつなんどきでも自分は正しく、だからこそ自分に従わねばならない、という空気で相手とコミュニケーションするのがこのタイプですから、嫌われますし孤立もします。どんな人がこうなりやすいかといえば、権力や権威をもつ立場の人、知識や経験が豊富な人、役割や年齢が上の人、「地位や年齢差、権威などによって人権は左右されるものではない」と理解していない人、常に自分が優先されるべきだと考える人、自分の思い通りに人を動かしたい人などだそう。この中でも、自分の思い通りに人を動かしたい人なんていうのは、その根本に強大な不安がある場合もあります。自分で考えてやらないと不安なので、人を支配してでも自分の思い通りにして、それで不安がやわらぐタイプです。こういったタイプの人たちは、他人を大切にしない自己表現法なのでした。

そして「アサーティブな自己表現法」はこれらの中間にあり、自分の考えや気持ちを伝えそのフィードバック、つまり相手の反応をきちんと受け止めようとする姿勢のことを言います。「話す」も「聴く」もしっかりするタイプです。自分と意見があわなくても関心を寄せ、理屈や論理で理解するだけではなく、気持ちが通じるような支え合いもする。いわば、建設的なありかたなのでした。そして当然ですが、このタイプこそが、本書で理想としている。アサーティブになるにはまず、自分の気持ちを確かめる習慣をつけることから始まります。そして言語化してみる。これが第一歩となります。

ただまあ、筋が一本通っているようでいて、これはほころんでいるんじゃないのかなぁ、という論旨も見受けられるのです。たとえば、アサーティブなありかたには、自分たちはみなそれぞれ自分らしくあってよい、というのがあります。個性や自分らしさを大切にすることで、それは利己的なことではない、と。他の人もその人らしくあってよいのだ、とします。でも、他の人が「非主張的自己表現」「攻撃的自己表現」だった場合、それをどうにかたしなめてアサーティブな方向へ誘いたいと思うのが人情というものではないでしょうか。本書の終盤でも、こういう質問があると著者が紹介しているのものがあります。「相手もアサーションを知っていればいいけれど、自分だけがアサーションをわかっていても、うまくやり取りができないのではないか」と。たしかに、本書ででてくる様々な例は、登場人物たちがみなシンプルな性質で、難癖もつけないしゴネもしないしわがままも言わないし相手を陥れようともしません。でも、現実世界のコミュニケーションでは、ストレスが溜まったせいもあって、そういった悪いことを考え、態度に表わす人もいますよね。

著者のこの質問への返しは、これは「アサーションへの誤解」というものでした。アサーションは他者を変える方法ではない、と。アサーションは、まずそれを知っている自分が変わってみようとすることに意味があり、自分にとって心地よいコミュニケーションを試みることで、相手との関係がどうなるか、そこから初めてみようとするものだ、と言っています。まず、自分がアサーティブになって自分が気持ち良くなる体験をしましょう、そして、自分の想いを率直に伝えるとどんなことが起こるかフォローを続けましょう、そのようなことを続ける中で自分の望みを伝えながら相手にも配慮していくやり取りが生まれるでしょう、と続きました。このあたりって、自分本位・利己的と個人主義・自己満足のあいだのような気がしてくるのですが、どう思うでしょうか? 他者を好い方向へ変えるのではないのだけど配慮はするのだ、という姿勢ってやっぱりちょっと気持ちよく理解できないところが僕にはあります。

だからといってちょっと雑な感じでアサーションをしてしまうと、その理論が崩れそうです。僕なんかはこういうとき、アサーションという優れていて素晴らしい立場・姿勢であってもそこに安住せず、その両端を揺らぎながら在ることが実は一番ほんとうなのではないかと思うほうです。それは不完全ではあっても、ほんとうに近いような気がするのです。

閑話休題。
とはいえ、いろいろな角度からの思索の上に成り立つ方法なので、ヒントが盛りだくさんです。たとえば「人は過ちや間違いをし、それに責任を取ってよい」という姿勢。「攻撃的自己表現」の人だったら、ミスに対して「許さない!」というメッセージを込めた強い言葉で相手を責め立てます。しかし、そういった環境に育った子供だったならば、萎縮し緊張するようになり、のびのび行動したり、失敗の恐れのある「試行錯誤」という行動をとらなくなってしまう。完全主義にとらわれ、チャレンジをしなくなるのです。大人になっても、職場などのルールに縛られ、周囲に萎縮し、まじめに頑張るものの自発性や創造性は発揮できなくなる。依存的で非主張的な人間になるおそれがあるということでした。あるいは、攻撃的になってミスなどを責め立てる側の人間へと再生産されてしまう。認知科学の方法論では、トライアンドエラーで習熟するのがセオリーです。また、「問題解決」そのものを専門に考える分野でも、失敗を恐れないことは第一条件のように述べられています。このことを鑑みても、アサーティブな立場でいることは、習熟にも問題解決にも有利でいられることを意味します。

というところですが、先に挙げた三つの自己表現タイプは、ひとりの人間のなかに全部あるといえるものです。そのパーセンテージの一番高いところから「攻撃的自己表現」の傾向が高いのが自分である、だとか、アサーティブであるだとか判断できもします。また、さまざまな場面によって自己表現のタイプは変わるので、「じゃあ、どんな場面でもアサーティブな自分が出やすくするぞ!」という目標をかかげて自分を律したり試行錯誤したりするのも、本書の論旨から考えると生きやすさに繋がることなのだと思います。

まあ、最初はむずかしく考えず触れていいような態度・姿勢なのがアサーションだと僕は思いました。本書はほんとうに入門編という体裁でしたから、興味のある方はぜひ。巻末には、本書を足がかりに、アサーションを深めたいひとに勧める読書案内もありました。

最後にもうひとつだけ。
人それぞれのものの見方や考え方は、経験や人間関係などそれぞれの生きてきたプロセスによってできあがったもの。だから、AさんとBさんの考え方が真逆だったからといって、必ずしもどちらかが「間違い」にはならない。「間違い」ではなく「違い」。……アサーションってこういうことを考える分野でもありました。


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