Fish On The Boat

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『ニッポンの音楽』

2020-09-16 23:11:07 | 読書。
読書。
『ニッポンの音楽』 佐々木敦
を読んだ。

はっぴいえんど、YMO、渋谷系・小室系、中田ヤスタカ....と連なる40年以上の物語。
最初のはっぴいえんどの章では、
これまで何度もかすってきたことのある有名な
「日本語ロック論争」のところでまたいろいろと考えることになりました。

ロックという西洋音楽ベースの音楽形式には、
当然のように歌詞に英語が乗っている。
単語や文章そのもののリズム感や音、
文章の末尾にくる音が日本語と違って一定ではないところが英語の特徴といえる。
つまり、英語は日本語よりも不規則な音を発するもので、
それが音楽的(西洋音楽的)だといってもいいかもしれないし、
実際にそう言うひとはいます。

僕は20歳過ぎくらいのときに(DTMで作曲していた頃です)、
自分が日本語をネイティブとして育っていなかったら、
はじめて日本語をきいたときの響きはどう聴こえるのだろう?
ということをすごく知りたかった時期があります。
それで、ある夜中ですが、独り暮らしの部屋の小さなテレビをつけっぱなしにしたまま、
疲れて床にごろ寝した時、テレビから聴こえてくる日本語がその意味から切り離されて、
音としてだけ耳に入ってきたように知覚できたことがありました。
それは願望によって無理やりそう感じたような、
ある種の妄想的な出来事だったのかもしれませんが、
そのときの感想は、日本語の音って思っていたよりずっとやさしく、繊細で美しい、
というものでした。

ただ、それが音楽的なのかどうか。
日本語が西洋的なポップスやロックのメロディや曲調に乗っかっておかしくはない。
だけど、緻密で繊細なタッチで音程が上がり下がりする美点があるなかでのひとつの欠点は
パンチが効いていないというところだと思います。
と、まあ、ここは音としての部分であって、
歌詞として聴いて意味に沁み入ったり、
音符とあいまって単語が印象的に響いたり、
そういうネイティブならではの効果って歌にはあるので、
だからこそ、ずっと廃れずに日本語の歌が生まれ続けているんだろう、と
結果からもわかるといってよいのではないでしょうか。
(日本語ロック論争についていまさら意見を書くと、蛇足感がとてもあります……)

本書では、日本語の「ロック」として、
はっぴいえんどが嚆矢であったことから始まっていきます。
(当時のミュージックマガジンでははっぴいえんどは断トツの評価を得ていたそうですが、
メジャーな世界ではどれほどのものだったのかはよくわかりません)
キーワードは「内」と「外」です。
邦楽と洋楽といってもいいです。
本書でメインに取り上げられた、
はっぴいえんどやYMOのメンバー、
そして小室哲哉、渋谷系の面々、中田ヤスタカ。
彼らに一様なのは、とくに外のものに通じた弩級の音楽マニアであったということです。
著者はこれを、リスナー型ミュージシャンと名付けていて、
いわゆる歌手のように歌がうまくないけれど味わいはある、
などの特徴を書いている。

そういったマニアやフリークたちに切り拓かれてきたのが
日本の軽音楽世界なのでした。
経済の発展やテクノロジーの進歩によって、
「内」と「外」の格差や時空間差がなくなった現在、
この先はどうなるのか。
そこもやはり、リスナー型ミュージシャンが
世界を作っていくのかなあという気が僕にはしました。


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