読書。
『コンビニ人間』 村田沙耶香
を読んだ。
第155回芥川賞受賞作。
海外でも好評だという作品です。
今回の感想は内容バレになります。
そうじゃないと書けない、というか、
そうしてでも書きたい! という気持ちで臨んでいます。
ご注意ください。
主人公の恵子が子どもの頃に、
よかれと思って言ったりやったりすることが周囲から顰蹙を買い、
それがどうしてかわからない、という部分、そこと、
恵子のいつでも怒らない性分(フラットな感情で物事を眺めていられる性分)は
つながっている、と思った。
まず以下を踏まえてみる。
人間は自分にとっての善しか行わない。
それが悪とされるのは、
周囲への悪影響が指摘されたり行為者の視界にはいったりして気付かされたときだ。
1人の善、家族の善、学年のクラスの善、国の善、地球の善。
それぞれの規模があって、その外部からすると悪になったりします。
本作品の恵子が顰蹙を買った行為は、ストレートで、ある種合理的な善だった。
公園にきれいな小鳥の死骸があれば焼きとりにして食べようよ、もっと取ってくる、
と言って周囲をぞっとさせ、
男子のケンカの場面で、先生を呼んで止めなきゃと周囲で言っていれば、
掃除箱に歩いていき、取りだしたスコップで頭を殴って止める。
それはあまりに目が曇っていないから行われた「善」なのだと僕は思う。
人は、自分にとっての善、自分の信じる善だけを行うからです。
でも、その行為からわかるのは、
恵子は狭い範囲でしか善を捉えていないということ。少数の善。
それは怒りで目が曇らない性質だからか、あるいは、
怒りという感情がわかないくらいどっしりして鈍い、
または無自覚に神経を閉ざしているからだと思いました。
……と、考えながら書いているうちにぶれてきた気配ですが、
きっと恵子は誰より宇宙と繋がってる感じがする。
教科書通りに考える人、
宗教での教えの通り厳格に生きる人、それに恵子は近いのかもしれない。
彼女はすごく前向きだから、前を向けるのならばと、
そのかわりに生じる痛みや苦みを計算に入れないのだろう。
そして、はっと気づいて自分を封じて大人になった。
そして、さきほど書いた、恵子のいつでも怒らない性分。
僕にとって「怒らない」という姿勢は、
現実世界ではガンジーだとかの聖者のイメージのなかにあって、
たとえば怒らなくても神経がすっと遠くまで、
そして狭くて深いところまで届いている人という感じがするのだけれど、
同じ「怒らない」でも『コンビニ人間』の恵子のほうだと、
さっきも書いたように、
鈍いか、無意識に自分を閉ざしているか、
前向きすぎてポジティブな面しか見ていないがために「怒らない」というように感じます。
で、その「怒らない」が彼女の場合、善に関する歪みの遠因としてあるように見えちゃう。
ちなみに、歪んでいないまっすぐな善っていえばどんなものかというと、
宇宙全体を成り立たせているロゴス(秩序)に沿っているかどうかっていうことじゃないかと
仮にではあるけれど考えています。
ロゴスとシンクロしている善はまっすぐな善である、と。
宇宙全体に通じる法則を言語化というか記号化というかしたのが数学でしょうけれども、
宇宙誕生時から宇宙を支配しているその法則が秩序をもたらしている。
そこが究極であり基本でもある善なのではないか。
でもって、人間の善の場合は、
無知であればある程(何を無知とするかでまた定義しなきゃだけど)利己的なんじゃないかな。
ロゴスに近づいていくため、
いろいろ知ろうとし、わかろうとする姿勢がいちばん大事なのかもしれない。
善の行為があり、それがどのくらいの規模で善なのかはそれこそそれぞれですが、
その行為を善とするか悪とするかのときの悪よりもずっと悪なのが、
知ろうとしないし、わかろうとしないことかもしれないなと思えてくるところです。
というところまで飛んで行きましたが、
そもそもは『コンビニ人間』の恵子さんからはじまりました。
恵子というキャラクターを理解する(割り切ろうとする)のは難解な行為なんですよね……。
ちなみに、人は善しか行わないうんぬんの持論ですが、
前に短編を書きながら考えていて見つけたものです。
しかし、『利己的な遺伝子』という著名な本(読んだことない)の
そのタイトルからヒントを得ているような感じがします。
閑話休題。
作品の中核について、話を戻し、進めていきます。
ますます、内容バレになっていきますのでご注意。
「コンビニ人間」というこの言葉は、
中盤で白羽くんと恵子さんの会話のなかで一度そこに意味が付与されます。
そして終盤に再度、また違った文脈での意味づけがなされている。
たぶん作品としては、
終盤の意味づけは、読者の目につくようにという意味でこしらえてあるのではないか。
ではその終盤の文脈で語られた「コンビニ人間」とはなんぞやといえば、
コンビニバイト(その仕事とか職場)、
そこには気持ちよく寄りかかっていられる種類の他律性がありますから、
その他律性に依存する人間のことだと僕は解釈しました。
また、こっちの人間(社会の異物)、あっちの人間(普通の人)との
分かち方が作品内にでてきますが、
社会に組み込まれたら他律的に要請される生き方でこそやっと生きていられる歯車のタイプと、
社会に組み込まれても自律的に仕事をしたり生活をしたりできる歯車のタイプのことを、
分けて言っているのでしょう。
でも、後者の自律性にしても、
作品中で言われているとおり縄文時代以来脈々と受け継がれているままの
「普通」とされる生き方のひな形のなかでのみの自律性であって、
そこからはみ出ることは許されない。
はみ出た異物は排除される。
恵子のような社会的不適合者は自分を封じて他律性に身を委ねるほかない。
白羽は、はみ出た異物であっても自分を封じず、
周囲から排除の攻撃を受けている最中の人物。
白羽のタイプは生き延びていく難易度が極めて高い。
そしてこの小説の場合では、誰かに寄生して生きていくほかないということになっていた。
そういうずるさや図太さがある異物ならばそうするということ。
どちらも社会の異物的性質の恵子と白羽は、
そのあたり、「左右」というか「東西」というか、
そういう感覚の対になっている二人だと思いました。
でもまあ僕も、
もうずっと込みいった個人的事情を抱えているにせよ、
事情なんて鑑みられることもないというか、
理解もしてもらえないような中で非正規の仕事をしますから、
この作品で異物とされる人の範疇として読みもしたので、
もはやどっしりと「受け入れてやるよ」と思って読む描写もあったし、
えぐい場面であっても、どこかで経験済みなものもありました。
ただ、こういうことをここまで対象化してきちんと書いて、
なおおもしろい小説にもなっている、
そういうものを書きあげた作者には、ようやったなあという気持ちでいます。
よい作品だと思いました。
最後に独りごつならば、
こういう作品が高く評価されるのなら、
僕の書いたものだって、ちょっとは誰かれが見向きしてもい…(以下略、フェードアウト)
『コンビニ人間』 村田沙耶香
を読んだ。
第155回芥川賞受賞作。
海外でも好評だという作品です。
今回の感想は内容バレになります。
そうじゃないと書けない、というか、
そうしてでも書きたい! という気持ちで臨んでいます。
ご注意ください。
主人公の恵子が子どもの頃に、
よかれと思って言ったりやったりすることが周囲から顰蹙を買い、
それがどうしてかわからない、という部分、そこと、
恵子のいつでも怒らない性分(フラットな感情で物事を眺めていられる性分)は
つながっている、と思った。
まず以下を踏まえてみる。
人間は自分にとっての善しか行わない。
それが悪とされるのは、
周囲への悪影響が指摘されたり行為者の視界にはいったりして気付かされたときだ。
1人の善、家族の善、学年のクラスの善、国の善、地球の善。
それぞれの規模があって、その外部からすると悪になったりします。
本作品の恵子が顰蹙を買った行為は、ストレートで、ある種合理的な善だった。
公園にきれいな小鳥の死骸があれば焼きとりにして食べようよ、もっと取ってくる、
と言って周囲をぞっとさせ、
男子のケンカの場面で、先生を呼んで止めなきゃと周囲で言っていれば、
掃除箱に歩いていき、取りだしたスコップで頭を殴って止める。
それはあまりに目が曇っていないから行われた「善」なのだと僕は思う。
人は、自分にとっての善、自分の信じる善だけを行うからです。
でも、その行為からわかるのは、
恵子は狭い範囲でしか善を捉えていないということ。少数の善。
それは怒りで目が曇らない性質だからか、あるいは、
怒りという感情がわかないくらいどっしりして鈍い、
または無自覚に神経を閉ざしているからだと思いました。
……と、考えながら書いているうちにぶれてきた気配ですが、
きっと恵子は誰より宇宙と繋がってる感じがする。
教科書通りに考える人、
宗教での教えの通り厳格に生きる人、それに恵子は近いのかもしれない。
彼女はすごく前向きだから、前を向けるのならばと、
そのかわりに生じる痛みや苦みを計算に入れないのだろう。
そして、はっと気づいて自分を封じて大人になった。
そして、さきほど書いた、恵子のいつでも怒らない性分。
僕にとって「怒らない」という姿勢は、
現実世界ではガンジーだとかの聖者のイメージのなかにあって、
たとえば怒らなくても神経がすっと遠くまで、
そして狭くて深いところまで届いている人という感じがするのだけれど、
同じ「怒らない」でも『コンビニ人間』の恵子のほうだと、
さっきも書いたように、
鈍いか、無意識に自分を閉ざしているか、
前向きすぎてポジティブな面しか見ていないがために「怒らない」というように感じます。
で、その「怒らない」が彼女の場合、善に関する歪みの遠因としてあるように見えちゃう。
ちなみに、歪んでいないまっすぐな善っていえばどんなものかというと、
宇宙全体を成り立たせているロゴス(秩序)に沿っているかどうかっていうことじゃないかと
仮にではあるけれど考えています。
ロゴスとシンクロしている善はまっすぐな善である、と。
宇宙全体に通じる法則を言語化というか記号化というかしたのが数学でしょうけれども、
宇宙誕生時から宇宙を支配しているその法則が秩序をもたらしている。
そこが究極であり基本でもある善なのではないか。
でもって、人間の善の場合は、
無知であればある程(何を無知とするかでまた定義しなきゃだけど)利己的なんじゃないかな。
ロゴスに近づいていくため、
いろいろ知ろうとし、わかろうとする姿勢がいちばん大事なのかもしれない。
善の行為があり、それがどのくらいの規模で善なのかはそれこそそれぞれですが、
その行為を善とするか悪とするかのときの悪よりもずっと悪なのが、
知ろうとしないし、わかろうとしないことかもしれないなと思えてくるところです。
というところまで飛んで行きましたが、
そもそもは『コンビニ人間』の恵子さんからはじまりました。
恵子というキャラクターを理解する(割り切ろうとする)のは難解な行為なんですよね……。
ちなみに、人は善しか行わないうんぬんの持論ですが、
前に短編を書きながら考えていて見つけたものです。
しかし、『利己的な遺伝子』という著名な本(読んだことない)の
そのタイトルからヒントを得ているような感じがします。
閑話休題。
作品の中核について、話を戻し、進めていきます。
ますます、内容バレになっていきますのでご注意。
「コンビニ人間」というこの言葉は、
中盤で白羽くんと恵子さんの会話のなかで一度そこに意味が付与されます。
そして終盤に再度、また違った文脈での意味づけがなされている。
たぶん作品としては、
終盤の意味づけは、読者の目につくようにという意味でこしらえてあるのではないか。
ではその終盤の文脈で語られた「コンビニ人間」とはなんぞやといえば、
コンビニバイト(その仕事とか職場)、
そこには気持ちよく寄りかかっていられる種類の他律性がありますから、
その他律性に依存する人間のことだと僕は解釈しました。
また、こっちの人間(社会の異物)、あっちの人間(普通の人)との
分かち方が作品内にでてきますが、
社会に組み込まれたら他律的に要請される生き方でこそやっと生きていられる歯車のタイプと、
社会に組み込まれても自律的に仕事をしたり生活をしたりできる歯車のタイプのことを、
分けて言っているのでしょう。
でも、後者の自律性にしても、
作品中で言われているとおり縄文時代以来脈々と受け継がれているままの
「普通」とされる生き方のひな形のなかでのみの自律性であって、
そこからはみ出ることは許されない。
はみ出た異物は排除される。
恵子のような社会的不適合者は自分を封じて他律性に身を委ねるほかない。
白羽は、はみ出た異物であっても自分を封じず、
周囲から排除の攻撃を受けている最中の人物。
白羽のタイプは生き延びていく難易度が極めて高い。
そしてこの小説の場合では、誰かに寄生して生きていくほかないということになっていた。
そういうずるさや図太さがある異物ならばそうするということ。
どちらも社会の異物的性質の恵子と白羽は、
そのあたり、「左右」というか「東西」というか、
そういう感覚の対になっている二人だと思いました。
でもまあ僕も、
もうずっと込みいった個人的事情を抱えているにせよ、
事情なんて鑑みられることもないというか、
理解もしてもらえないような中で非正規の仕事をしますから、
この作品で異物とされる人の範疇として読みもしたので、
もはやどっしりと「受け入れてやるよ」と思って読む描写もあったし、
えぐい場面であっても、どこかで経験済みなものもありました。
ただ、こういうことをここまで対象化してきちんと書いて、
なおおもしろい小説にもなっている、
そういうものを書きあげた作者には、ようやったなあという気持ちでいます。
よい作品だと思いました。
最後に独りごつならば、
こういう作品が高く評価されるのなら、
僕の書いたものだって、ちょっとは誰かれが見向きしてもい…(以下略、フェードアウト)