前回の読書記事で予告したとおり、
イギリスの精神分析医による著作『人生に聴診器をあてる』より、
「何よりも妄想とは、私には誰も関心を持ってくれないという意識の副産物なのだ。
(中略)そんな妄想が、世界中に見放されているという絶望から、
彼女を守ってくれたのである。」
という見識を今回は深掘りしてみます。
(個人的に2019年の2月にして、2019年最大の発見だと思っています)
上記の見識を別の言い方で表現してみれば、
妄想(とくに被害妄想)は、
自分に対する周囲の無関心の意識から生まれる。
無関心にさらされていることにより弧絶感は命を脅かすほどだから、
自己防衛反応として妄想が生じる。
そうやって、自らを守っている。
わたしは誰にも忘れ去られている、という思いを封じ込めるため、
本能が被害妄想を発動させる、
となるでしょう。
『人生に聴診器をあてる』のここの部分によれば、
被害妄想がなぜ生じるかいろいろな仮説があるそうだと書いてあります。
著者は、その多くの仮説に通底する部分を彼なりに読み解き、
無関心さが被害妄想を生じさせている、と記したように書いてあったと思います。
ではまず、日常における「無関心」ってなんだろう、どういうことだろう、
というところを見ていきます。
たとえば、ぱっと思い浮かぶ「無関心」から連想される場所である都会は、
人間関係が希薄でしょうし(特に隣近所の付き合いなんてない)、
「無関心」さが強いと言えるでしょう。
地方の比較的ベタベタした人間関係を嫌い、
それで都会に出てきたんです、という理由を語る人はたくさんいると思います。
つまり、都会人はプライバシーを重んじる傾向が強い。
そんなプライバシー重視の価値観は、
「無関心」に近接しているものです。
そして、時代に先行していた都会の人々の「無関心」さは、
現代になると広まっていきました。
現代人の、たとえば子どもたちのコミュニケーションの取り方を
30~40年くらい前と比べてみれば、
個人と個人がぶつかり合うケンカは少なくなったと言われます。
もっと昔と比べたなら、
さらに顕著に減少していることが分かるんじゃないでしょうか。
ケンカはお互いを肉体的にも精神的にも傷つけあいますが、
コミュニケーションの範囲に入る行為です。
それが、現代に近づくにつれて、
無視する、ハブるなどの(ツイッターならブロックもそうでしょうね)
コミュニケーションの範囲外の行為が増えていきます。
嫌いな人やモノなどには興味をもたないし、無視する。
無視とは、対象を無いものとして位置付けるということです。
それは関心を持たないという事であり、すなわち「無関心」ですよね。
そういった、精神的にも体力的にもコストをかけない
ディスコミュニケーションの増加が、
他者への「無関心」を促進してきました。
だから、個々人の妄想は強くなる傾向になってきたのかもしれません。
その証左として、都会では精神を病むひとが増え、
遅れて、現代人全般にも精神の調子をくずす人が増えてきた。
精神分析やセラピーを受ける人も、
何十年か前に比べて増えてきただろうし、
珍しくもなくなりました。
というように、
ここまで筋道立てて考えてみて、
「無関心」が妄想を生み、また、それゆえに精神を不調にもする、
という作用はまったく的外れではないように考えられないでしょうか。
だからといって、
現代人は、対策もなく、
「無関心」による被害妄想に呑みこまれ続けようとはしていないと考えています。
それが「無関心」による作用なのだと意識していなくても、
無意識的な行動や、
時代の流れとして、
抵抗したり、乗り越えようとしたりしているように見えます。
例をあげると、
けっこう嫌われたりする行為ではありますが、愚痴をこぼすという行為。
愚痴をこぼすことは自己開示であり、
自分に関心をもってもらいたい気持ちの表れと解釈することができます。
また、自らを理解してもらいたいという気持ちがありますよね。
「無関心」は最上級にきついですが、たぶんに無理解もその次くらいにきついです。
時代の流れとしては、
議論から対話へというもの。
議論をするより、対話をして共感を得ていこう、という意識が強くなっているように、
僕なんかには見えているのですが、いかがでしょうか。
いや、議論がなくなっていってると言いたいわけではないのですが、
対話によってできるだけ共感していきたい欲求が
だんだん強くなっているようにも思えるのです。
そしてそれは、自分への「無関心」のつらさを
少しでも癒そうとする表れかもしれない。
対話は、「あなたに関心をもって、話を聞こうと思っていますよ」
という意思表示をお互いに暗に示しながらするものです。
具体的な問題解決もあるかもしれないけれど、
関心がもたれているという意識で救われるというのもあるのではないか。
また、くだらないという考えの人もいますが、
承認欲求というものも、「無関心」による弧絶感を
ふせぐためのものかもしれない、とも考えられるところです。
承認欲求のために、有害なことをする人もいます。
人に無視されるのがつらいから、
嫌がることをしてでも自分を忘れさせないようにする心理が働く人はいるのでしょう。
日常レベルで考えると、小さなところだと誰にも心当たりがありそうです。
それだけ、自分は忘れ去られた存在だと認知することは耐えがたいことなのです。
ちょっと話はそれますが、
一昨年リリースされた、坂本龍一さんのアルバムのタイトルが『async』でした。
asyncとは非同期を意味します。
坂本さんは、作品へのインタビューのなかで、
自然の音やリズムは非同期で満ちていて、
決して規則的に繰り返すものではない、というような認識を表わしていました。
で、作品を聴いてみると、僕にはある種、都会的に聴こえましたし、
オープニング曲の「andara」などは、孤独の悲しみから生まれたようにも感じました。
僕の解釈としては、非同期つまり同期しないというのは、
自分のペースを守るという価値観がそこにあるということです。
「自分は自分」であり、
それはプライバシーを重くみる現代人に繋がらないかなと思えるのです。
ここで話が元に戻るのがわかると思いますが、
非同期を無関心と重ねる見方も可能なんです。
ですから、
asyncは非同期の可能性を拓いたというより頂点を迎え限界を示した、
と、ぱっと考えた感じですけど、僕なりにはそうなります。
または、思想というより美学としての非同期を提示したのかな、とも。
もうひとつ、オプションみたいな考えを付け加えておきます。
『人生に聴診器をあてる』に書いてありましたが、
セックスやマスターベーションは抗鬱剤であり、
性的な妄想は精神安定剤、というのがそれです。
経験上、首肯できるものなんですが、
なかでも性的な妄想っていうのは、
これはひとつの、「無関心」によって生じる妄想が、
被害妄想へいかずにうまく見つけた出口なのではないかと思えます。
しかし、ここにも限度があるようなのは、
性的なトラブルや犯罪がよく取りざたされるニュースを目にするところにあります。
精神安定をはかるための性的妄想だけじゃ、
癒されなくなってしまったのかもしれないです。
さきほど書いた、妄想の出口という観点からもう少し考えてみると、
神様、という妄想で救われることがあるだろう、ということです。
信仰心があって、神様を信じていれば、妄想の出口として、
神様のほうへとその妄想は向かう。
そういう道筋が頭の中にできあがっていたならば、
「無関心」による耐えがたい苦痛を回避するのに、
被害妄想へいかずに、神様が自分を見ていてくれている、
という妄想へ向かっていくのではないでしょうか。
もっとイメージを膨らませて考えてみれば、
いったん、被害妄想を生じさせてしまっても、
神様を信じていたならば、
それすら昇華できてしまうかもしれない可能性も見えてきます。
これが、宗教が人を救ってきたメカニズムの大きな一つかもしれない。
そして、スピリチュアルが流行るのも、
妄想の出口として機能しているとしたら……?
そんなことも「無関心」を考えるうちにその範疇にはいってきます。
現代人はバカになった、
とそうネット上なんかで言われているところにでくわすことがありますが、
実はそれって真実ではなくて、
「無関心」によって妄想過剰状態になっているからなのかもしれない。
妄想によって事実誤認が多くなるでしょうし、
リテラシーがないなんて言われるその原因に、
妄想にひっぱられて、
それこそ妄想めいた自分勝手な解釈をするというのがあるならば、
そこには「無関心」が原因として疑われます。
では、僕たちは、「無関心」から脱却して、
過分な妄想とオサラバすることができるのでしょうか。
ツイッターで、無視をする自由はあるんだ、という考えにも出合いました。
それは、表現の自由を守るのである、と。
なるほどなあと思いましたが、「無関心」を肯定しすぎると、
受け手のリテラシーが上がってきませんから、
突出した素晴らしい表現があってもわからない、だとか、
それこそ「無関心」などの現代的な病巣の周辺のものにしか気付けない、だとか
そうならないかなあ、と杞憂かもしれないですが、考えてしまうのです。
また、自由には責任もともないます。
無視する自由には、人を病ませる可能性がある。
そういうことを、しっかり受け止めた上での自由であってほしい。
そうなれば、無視やスルーがお手軽なものとしては
認識されなくなるのではないか。
また、犬や猫などのペットは、
なつくと飼い主に対して
「あなたのことを忘れるなんてありえませんよ」というくらい、
関心をもってくれ、
それによって絆で結ばれます。
それは、弧絶感・孤独を軽減して、それゆえに妄想を生じにくくする。
そういう作用があると思います。
と、かなり長くなりました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
この「考えの切れ端」が少しでも役立ちますように。
最後に、昔からのお気に入りの引用で締めようと思います。
「話の内容というのはさして大切なものではないんです。
大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」
(『草の竪琴』カポーティ 新潮文庫)
場合によっては、沈黙すらそうである。
イギリスの精神分析医による著作『人生に聴診器をあてる』より、
「何よりも妄想とは、私には誰も関心を持ってくれないという意識の副産物なのだ。
(中略)そんな妄想が、世界中に見放されているという絶望から、
彼女を守ってくれたのである。」
という見識を今回は深掘りしてみます。
(個人的に2019年の2月にして、2019年最大の発見だと思っています)
上記の見識を別の言い方で表現してみれば、
妄想(とくに被害妄想)は、
自分に対する周囲の無関心の意識から生まれる。
無関心にさらされていることにより弧絶感は命を脅かすほどだから、
自己防衛反応として妄想が生じる。
そうやって、自らを守っている。
わたしは誰にも忘れ去られている、という思いを封じ込めるため、
本能が被害妄想を発動させる、
となるでしょう。
『人生に聴診器をあてる』のここの部分によれば、
被害妄想がなぜ生じるかいろいろな仮説があるそうだと書いてあります。
著者は、その多くの仮説に通底する部分を彼なりに読み解き、
無関心さが被害妄想を生じさせている、と記したように書いてあったと思います。
ではまず、日常における「無関心」ってなんだろう、どういうことだろう、
というところを見ていきます。
たとえば、ぱっと思い浮かぶ「無関心」から連想される場所である都会は、
人間関係が希薄でしょうし(特に隣近所の付き合いなんてない)、
「無関心」さが強いと言えるでしょう。
地方の比較的ベタベタした人間関係を嫌い、
それで都会に出てきたんです、という理由を語る人はたくさんいると思います。
つまり、都会人はプライバシーを重んじる傾向が強い。
そんなプライバシー重視の価値観は、
「無関心」に近接しているものです。
そして、時代に先行していた都会の人々の「無関心」さは、
現代になると広まっていきました。
現代人の、たとえば子どもたちのコミュニケーションの取り方を
30~40年くらい前と比べてみれば、
個人と個人がぶつかり合うケンカは少なくなったと言われます。
もっと昔と比べたなら、
さらに顕著に減少していることが分かるんじゃないでしょうか。
ケンカはお互いを肉体的にも精神的にも傷つけあいますが、
コミュニケーションの範囲に入る行為です。
それが、現代に近づくにつれて、
無視する、ハブるなどの(ツイッターならブロックもそうでしょうね)
コミュニケーションの範囲外の行為が増えていきます。
嫌いな人やモノなどには興味をもたないし、無視する。
無視とは、対象を無いものとして位置付けるということです。
それは関心を持たないという事であり、すなわち「無関心」ですよね。
そういった、精神的にも体力的にもコストをかけない
ディスコミュニケーションの増加が、
他者への「無関心」を促進してきました。
だから、個々人の妄想は強くなる傾向になってきたのかもしれません。
その証左として、都会では精神を病むひとが増え、
遅れて、現代人全般にも精神の調子をくずす人が増えてきた。
精神分析やセラピーを受ける人も、
何十年か前に比べて増えてきただろうし、
珍しくもなくなりました。
というように、
ここまで筋道立てて考えてみて、
「無関心」が妄想を生み、また、それゆえに精神を不調にもする、
という作用はまったく的外れではないように考えられないでしょうか。
だからといって、
現代人は、対策もなく、
「無関心」による被害妄想に呑みこまれ続けようとはしていないと考えています。
それが「無関心」による作用なのだと意識していなくても、
無意識的な行動や、
時代の流れとして、
抵抗したり、乗り越えようとしたりしているように見えます。
例をあげると、
けっこう嫌われたりする行為ではありますが、愚痴をこぼすという行為。
愚痴をこぼすことは自己開示であり、
自分に関心をもってもらいたい気持ちの表れと解釈することができます。
また、自らを理解してもらいたいという気持ちがありますよね。
「無関心」は最上級にきついですが、たぶんに無理解もその次くらいにきついです。
時代の流れとしては、
議論から対話へというもの。
議論をするより、対話をして共感を得ていこう、という意識が強くなっているように、
僕なんかには見えているのですが、いかがでしょうか。
いや、議論がなくなっていってると言いたいわけではないのですが、
対話によってできるだけ共感していきたい欲求が
だんだん強くなっているようにも思えるのです。
そしてそれは、自分への「無関心」のつらさを
少しでも癒そうとする表れかもしれない。
対話は、「あなたに関心をもって、話を聞こうと思っていますよ」
という意思表示をお互いに暗に示しながらするものです。
具体的な問題解決もあるかもしれないけれど、
関心がもたれているという意識で救われるというのもあるのではないか。
また、くだらないという考えの人もいますが、
承認欲求というものも、「無関心」による弧絶感を
ふせぐためのものかもしれない、とも考えられるところです。
承認欲求のために、有害なことをする人もいます。
人に無視されるのがつらいから、
嫌がることをしてでも自分を忘れさせないようにする心理が働く人はいるのでしょう。
日常レベルで考えると、小さなところだと誰にも心当たりがありそうです。
それだけ、自分は忘れ去られた存在だと認知することは耐えがたいことなのです。
ちょっと話はそれますが、
一昨年リリースされた、坂本龍一さんのアルバムのタイトルが『async』でした。
asyncとは非同期を意味します。
坂本さんは、作品へのインタビューのなかで、
自然の音やリズムは非同期で満ちていて、
決して規則的に繰り返すものではない、というような認識を表わしていました。
で、作品を聴いてみると、僕にはある種、都会的に聴こえましたし、
オープニング曲の「andara」などは、孤独の悲しみから生まれたようにも感じました。
僕の解釈としては、非同期つまり同期しないというのは、
自分のペースを守るという価値観がそこにあるということです。
「自分は自分」であり、
それはプライバシーを重くみる現代人に繋がらないかなと思えるのです。
ここで話が元に戻るのがわかると思いますが、
非同期を無関心と重ねる見方も可能なんです。
ですから、
asyncは非同期の可能性を拓いたというより頂点を迎え限界を示した、
と、ぱっと考えた感じですけど、僕なりにはそうなります。
または、思想というより美学としての非同期を提示したのかな、とも。
もうひとつ、オプションみたいな考えを付け加えておきます。
『人生に聴診器をあてる』に書いてありましたが、
セックスやマスターベーションは抗鬱剤であり、
性的な妄想は精神安定剤、というのがそれです。
経験上、首肯できるものなんですが、
なかでも性的な妄想っていうのは、
これはひとつの、「無関心」によって生じる妄想が、
被害妄想へいかずにうまく見つけた出口なのではないかと思えます。
しかし、ここにも限度があるようなのは、
性的なトラブルや犯罪がよく取りざたされるニュースを目にするところにあります。
精神安定をはかるための性的妄想だけじゃ、
癒されなくなってしまったのかもしれないです。
さきほど書いた、妄想の出口という観点からもう少し考えてみると、
神様、という妄想で救われることがあるだろう、ということです。
信仰心があって、神様を信じていれば、妄想の出口として、
神様のほうへとその妄想は向かう。
そういう道筋が頭の中にできあがっていたならば、
「無関心」による耐えがたい苦痛を回避するのに、
被害妄想へいかずに、神様が自分を見ていてくれている、
という妄想へ向かっていくのではないでしょうか。
もっとイメージを膨らませて考えてみれば、
いったん、被害妄想を生じさせてしまっても、
神様を信じていたならば、
それすら昇華できてしまうかもしれない可能性も見えてきます。
これが、宗教が人を救ってきたメカニズムの大きな一つかもしれない。
そして、スピリチュアルが流行るのも、
妄想の出口として機能しているとしたら……?
そんなことも「無関心」を考えるうちにその範疇にはいってきます。
現代人はバカになった、
とそうネット上なんかで言われているところにでくわすことがありますが、
実はそれって真実ではなくて、
「無関心」によって妄想過剰状態になっているからなのかもしれない。
妄想によって事実誤認が多くなるでしょうし、
リテラシーがないなんて言われるその原因に、
妄想にひっぱられて、
それこそ妄想めいた自分勝手な解釈をするというのがあるならば、
そこには「無関心」が原因として疑われます。
では、僕たちは、「無関心」から脱却して、
過分な妄想とオサラバすることができるのでしょうか。
ツイッターで、無視をする自由はあるんだ、という考えにも出合いました。
それは、表現の自由を守るのである、と。
なるほどなあと思いましたが、「無関心」を肯定しすぎると、
受け手のリテラシーが上がってきませんから、
突出した素晴らしい表現があってもわからない、だとか、
それこそ「無関心」などの現代的な病巣の周辺のものにしか気付けない、だとか
そうならないかなあ、と杞憂かもしれないですが、考えてしまうのです。
また、自由には責任もともないます。
無視する自由には、人を病ませる可能性がある。
そういうことを、しっかり受け止めた上での自由であってほしい。
そうなれば、無視やスルーがお手軽なものとしては
認識されなくなるのではないか。
また、犬や猫などのペットは、
なつくと飼い主に対して
「あなたのことを忘れるなんてありえませんよ」というくらい、
関心をもってくれ、
それによって絆で結ばれます。
それは、弧絶感・孤独を軽減して、それゆえに妄想を生じにくくする。
そういう作用があると思います。
と、かなり長くなりました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
この「考えの切れ端」が少しでも役立ちますように。
最後に、昔からのお気に入りの引用で締めようと思います。
「話の内容というのはさして大切なものではないんです。
大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」
(『草の竪琴』カポーティ 新潮文庫)
場合によっては、沈黙すらそうである。