goo blog サービス終了のお知らせ 

Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

「日常」に恋する。

2014-02-28 22:14:33 | 考えの切れ端
ボウリングで腰を痛めて寝ています。
バカだね・・・。

たまにこうやって起きてネットしたりしているんですが、
読書はできず、映画も観に行けずなので、
二月はブログの更新も少なかったし、
久々に考えの切れ端をアップします。

今回は、「日常」と言うものに注目しました。

昨年、糸井重里さんがほぼ日手帳のコピーを公募されて、
結果発表のときに、
素人でも日常を大事にしている人ならばいいコピーを書けると思った、
というようなことをおっしゃったか書かれたかしました。
それが、たぶん、今回の「日常」に対する僕の考えの起源です。

まず、
日常生活をおざなりにしない人だらけのコミュニティって
おいそれとはおかしくならないと思うのです。
それは、でんと地に足がついた人たちの集まりであって、
そりゃ、今でいえば慰安婦問題だの領土問題だの、過去から浮上してきたような
問題がありますが、それに悩まされはしても、振り回されはしないのではないか。

「日常」を大事にする。
「日常」で感じることをすべて言葉にして覚えておくことはできないけど、
出来うる限り(後でまとめてでも)言葉にする人って強い気がする。
感じることを噛みしめたりするのでも違うと思う。

「日常」に感じることを言葉にしていくと、
「共感」に似て、自分の無意識から「何か」をはっきりした形で
意識に引き上げることになるんじゃないだろうか。
ユングは無意識の意識化は自己の拡張だみたいなことを言っていて、
それに近いことになると思う。
無意識の意識化は、うまくいくと癒しでもありますし。

そういうことをしていると、おいそれとは変な方向へ行かない気がするんです。
ただ、カギは「忘れないこと」にあるとも思う。
せっかく言葉にしたこと、気付いたこと、噛みしめていることを忘れてしまうと、
「日常」をおざなりに生きていることと同じようになってしまう。

つまり、日常を大事にするということは、
感じることを言葉にして意識の上にはっきりした形にしたり、
そうじゃなくても噛みしめたりして、それを忘れないでいることなんじゃないかな。
どうやったらそうできる?
「日常」に夢中になれたら、それはもう出来ちゃいます。
逆にいえば、自分を夢中にできる「日常」を作れたらとてもすごいんです。

「日常」に恋をする。
恋路を邪魔するものにも負けるものかと、「日常」に恋ができたら・・・。
この世界の見え方も、自分自身の粘りも変わってくるはずです。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コミュ障」ト仕分ケスル害悪

2013-05-11 19:35:36 | 考えの切れ端
ツイッターのタイムラインを流れてくるので知りましたが、
コミュニケーション障害(以下、コミュ障と略)という言葉がありますね。

昔は、…そうですね、僕が20歳くらいの頃の15,6年前だとか、
そういう言葉は聴きませんでした。
いつから、コミュ障なる言われ方がするようになったのかは定ではない
(そりゃそうです、若い人ならいざ知らず、最近知ったんですから)。

自分に自信がない、他人を信用できない、話ベタ、話し馴れしていない、人見知り...etc、
人との付き合いがうまくいかなかったり苦手だったりする理由があり、
「もう少し社交的になれば」と言われれば、「いや、自分に自信がなくてね」などと返答したのが昔。
特に、この「話馴れしていない」というのが、対人関係におく手の人の、
一つの悪循環によるものだったりします。
人と話をする機会を避けるので、話の妙味、流れの捉え方、
相手の意図など何を考えているかということに
思いを巡らす察知力が育っていないからです。
そういう人でも、少しづつ、人に慣れて、人生経験を積んでいくうちに、
人づきあいが苦手だったその理由が緩和され、察知力が育ち、会話の面白味も
わかってくるものです。人によっては、孤独を愛するという性格もあります。
そういう人は、コミュ障とは言われないのかな。

そういう人たちが大半だと思うのですけれど、
今はコミュ障というレッテルがはられ、カテゴライズされるものなのですか。
いやなものですねー、「ちょっと他人を信用できないんだよね」
「話がへただからさ」レベルで済む人が多いのではないのかな。
コミュ障という言葉によって、
差別を感じます。コミュニケーションに長けた外向的な人だけが優性種で、
そうじゃない人は劣性種扱いというような。
そういったようなコミュニケーションが苦手か得意かは
コミュ障のような言葉を使って区別しなくていい事柄だと思います。

そういった人の性格などでもなんでも言葉を当てはめて「仕分け」すれば幸せになるものでもない。
逆に無理やりはっきりさせて、「あなたはこっち、わたしはあっち」扱いすることで不幸になる。

新しい概念に新しい言葉がずばっとハマってすっきしたり視野が広くなったりすることがあります。
でも、なんでもかんでもそうすればいいってものじゃない。

親しき仲にも礼儀ありとはよくいったもので、
人との付き合いでも言ってはいけないこととかあるじゃないですか、
それを言っちゃお終いよ、という、絶交につながる決定的な一言だとかあります。
あれといっしょで、それを「仕分け」しちゃ、人間関係の暖かみや連帯感を持つうえで
やっかいになるものがある。それが、コミュ障だと思います。
つまり、人をつかまえて、あなたはコミュ障です、などと仕分けするなどというのは、
人の尊厳からしても、愚かではないかと思います。

本当に、病気としての重いコミュニケーション障害は別だとは思いますけどね…。
そういう人は、心理療法士の方などの助けが必要なのでしょう。

軽い意味で、コミュ障などとは言わない方がいいです。
新しい言葉だからと、飛びつくように使って、自分の優越を確かめたり、
自分を卑下してみたりするのは、まだまだ心の成長途上の人だよなぁと、
30代を過ぎた人はみるでしょう。

とにかく、人とコミュニケーションするのが苦手で、コンプレックスを持っている人を
追い込むなということですね。
僕も人見知りですからね、まぁ、馴れるとよくしゃべったりしますけども。

コミュ障という言葉で、不当に生きづらさを産むむことはないです。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幻想の現実化ヲ危ブム

2013-01-15 22:25:16 | 考えの切れ端
欧米では協議離婚がなかなか認められないために、
離婚したがっている夫と妻は示し合わせて、
妻が夫に殴られたというウソをついて、
裁判官もそれはウソだと知っていながら離婚を認めたりするそうだ。
そのウソをちゃんとウソとカウントせずに
世間の夫婦関係の傾向はこうだ、DVが横行していると報道したりしていないか。

家庭内暴力ってものはもちろんけっこうな数あるんだろうけれど、
さっきの書いたことにあるようなウソを見抜けなくて誘発されるケースってあるように思った。
ウソを見抜けないことが、社会の雰囲気に変容をもたらして、
それが本当の暴力を誘発するというような。

こういう、深いところのこと、つまり真実が見えなかったり見抜けなかったりしたがために、
ウソによる幻想だったはずのものが、距離的にも心理的にも遠い地で
実際の悲劇なり事件なりに顕在化してしまうことってあるような気がします。

離婚のケースだと、それがウソだとバレてしまってはいけないですから、
真実を知ることは難しい。そして、そこから波及する悪いことっていうのが、
僕の考えでは出てくるのですけれど、そうやって影響されないためには
どうしたらいいか。

頭に余裕がないくらいに忙殺されていないことですね。
誤解があるかもしれないですが、
自分も含めた日本人に対して言えば、もっとふざけたほうがいいような気がする。
ふざけていて、知的探究心も持っていて、事象に対する懐疑心も忘れない。
最後に、肝心なのが、自省できることだと思うのです。

極端な方向に考えや行動が向いてしまう心理っていうのが、
こういう場合には、もっともよくなくて、雰囲気とかに、
まるで洗脳みたいに頭に刷り込まれやすいんじゃないかと思います。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未熟ナ人類ヲ保護シテイタ(ル)モノ

2012-05-17 23:51:20 | 考えの切れ端
たとえば。
18世紀のヨーロッパの保守的な人たち、いや、一般的な人たちでもいいかな、
そんな人たちが21世紀の世界を知ったら、
きっと、「世も末だ」
「堕落した」
「悪に席巻された」
と思うんじゃないかと、今読んでいる本から感じた。

その本については、読了してから感想を書きますが、
秘密結社の思惑通りに、実は世の中は進んだ…というオカルト的な考えよりも、
そういう秘密結社の先見の明というか、世の中の進歩の仕方とそれによる変化を
十分に捉えていたのだろうなという結論を持ち始めています。

なんのことかわからないでしょうが…。

まぁ、イルミナティとかの話ですよね。

それと、「理神論」というやつ。
それこそ、おいらの考える創造主の考え方だなと思いました。

つぶやきみたいな更新になりました。

未熟な人類を保護していた(る)もの。
それは宗教ではないかな。

神様はよくぞ、人間の脳に「神を感じる部位」を作られたものです。
それがあってこそ、人間はとりあえず今日まで滅びずに済んだのでしょう。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見エナイ価値

2011-04-24 20:00:04 | 考えの切れ端
今、今月初めに発売された糸井重里さん特集の『BRUTUS』を読んでいます。
プロローグ的部分では、ほぼ日創刊以前の糸井さんの偉業が語られます。
コピーライター、作詞家、ゲームクリエイター、司会者、などなど
多岐にわたって活躍してこられたんだなぁというのがわかるのと同時に、
いつもほぼ日の今日のダーリンなどでお見受けしている気さくな感じのおじさんである糸井さんが
実はこんなにとてつもない人だったのかっていう驚きからくる身ぶるいもしてしまっています。
ドラマとか漫画とかでもあるじゃないですか、ただのおじいさんだと思っていた近所の人が、
実は若い頃に金メダリストだったとか大企業の社長だったとか、
そういう、隠していたわけじゃないんだけど、おくびにもださなくてっていうの?
人柄からもまるで想像できないじゃないかっていう、その人の過去があったりするじゃないですか。
そんなのに近いものが、糸井さんにもあるような気がしましたが、
それは僕がどんだけ日頃糸井さんを見くびっているのかっていう証明になったりしますかね…。
いやいや、敬愛している御仁なのですよ。
すごい人だってわかっているし、昔から「この人は頭の良い人だ」というイメージを持っているのですが、
この『BRUTUS』に書かれているようにはとらえてなかったんですね。すごいことの七色加減を二色くらいで
考えていたようなところがあります。七色は七色なんだな、とひるみそうになりながら読んだ次第です。
とはいえ、七色を七色だとしても、それを奉るような気持ちでいるようでは、すごい人を前にして
永久に腰がひけたままになります。どこか、「そんなの関係ねー」でもいいし、「そんなの大したことがないぜ」
だのと食ってかかるくらいの気持ちも、成長のためには必要かなと思います。

閑話休題。

その『BRUTUS』の序盤で、糸井さんは「見えない価値」についておっしゃっていることがあります。
たとえばミーティングの時に、何を発言するでもなく、
うんうん聴いていて、ただその場にいるだけの人がいる。
そういう人は無駄なのか、価値がないのかといえば、糸井さんはそうではないと言います。
仕事における功績などの価値が見えない人だとしても、その人には1億人いれば1億人分あるだろう価値の一つが
備わっているわけで、そういう見えない部分の価値っていうのに心ひかれるし、
最近の傾向としても、そういう見えない価値を内包するテレビ番組なんかが見られるようになってきて
嬉しいんだ、と。

こういうのは、多様性とか、非画一性へリードする言葉のようにも感じますね。
仕事ができる人だけ集めてやるっていうのも、一つの画一性なんですよね、たぶん。

この間、面接で(してきたのかよ)こんな話を聞いてきました。
30年くらい前の小売業の世界では、イトーヨーカドーがトップだったそうです。
それで、イトーヨーカドーはどういう戦略を取って行ったかというと、
売れ筋の商品のデータを集めて、売れ筋ばかりの商品を陳列して商売していったそうです。
その結果、売れ筋の商品も売れなくなって、トップから落ちて行ったとか。
つまり、売れ筋の商品だけを並べても売れないものなのだそうです。
たとえば納豆なら納豆で、売れ筋のものも売れないものも仕入れて並べる。
その結果、売れ筋のものが売れるようになるという図式が生まれるそうなんですね。
売れない商品はそれ自体が売れることではない価値を持っているわけです。
そのあたり、さきほどの「見えない価値」に近いものがないでしょうか。
僕はその話を聞いて、単純に、「買い物の楽しみ、選ぶ楽しみが関係しているんじゃないか」と言ったんですが、
そう簡単なものでもないような気がします。もっと汎用できる論理みたいなものが、
この「見えない価値」にはあるように思います。

引き立て役には引き立て役の価値ってものがもっと認められても良いということなのかなぁ。
でも、引き立て役ってことだけに限定はできないですね、「見えない価値」については。

「見えない価値」を認める人や求める人、あってもいいかなと思う人って、生活にゆとりを持っていたり
持とうとしていたりしている人なんじゃないかなと思います。
なにせ、価値判断に時間がかかるものでしょうから。
画一的な価値判断にはスピードがついてきます、わかりやすいので。
しかし「見えない価値」は多種多様で、それを掴み、自分との相性とかを考えて咀嚼して、
場合によっては、自分のスタンスを変えなければいけなかったりしないでしょうか。
スローライフでも、ロハスでも、生活にゆとりを持つ方向へと誘うことをやってきたでしょう、だから、
結果として、時間を使うことになる「見えない価値」についての意識が発達したんじゃないかなと思うんですね。

さっき書いた、売れ筋商品だけではうれないという話は、「見えない価値」としては根源的な部分に位置すると思います。
瞬時に損得を判断する、「買い物」という行為において、意識レベルはそれほど高次ではないでしょう。
そこに商品があり、買うか買わないかの二者択一的な選択ですから。そして、商品は安ければ安いものほど、
その「見えない価値」としての根源的な度合いは増すかもしれない。
といっても、100円くらいが良い所なのかもしれないですが。

そこに並べてみますが、さきほどのミーティングで意見を言わないで聞いてばかりの社員は、
見えない価値としては、どうでしょうか。
やっぱり価値があるかないかの判断においてはそれほど高次ではないでしょうね。
画一性のルールにのっとって処理されてしまうから。
でも、そこで見損なわれている「見えない価値」は、商品の見えない価値よりも高次でしょうね。
いろいろな意味合いを複雑に持っているものだと思います。
優しい顔をしているかずるい顔をしているか、そういうところも見えない価値の一つかもしれない。
まるで仕事と関係なしに、映画が好きだとか音楽が好きだとかというのも、見えない価値の一つでしょうし、
それによって見えない価値が創造されているとも考えることができます。

それで、糸井さんがいうには、そういう見えない価値にみんな惹かれてきているというわけですね。
そういうものが商売になるなら、それは健全な方向を向いているんじゃないでしょうか。
きっと「見えない価値」を真正面からみつめて認める世界っていうのは、
環境問題にも、宗教や民族の対立にも有効かもしれないです。

10年ちょっと前の話ですが、大学生だった僕が受けた講義の中で、こんなことを言う教授がいました。
「散文的抗争体から詩的共同体へ」。
もしかすると、今こそ、この言葉に重みが宿るのかもしれない。

こんなふうに世間は動いて行っているわけで、それは東北大震災と加えて福島原発事故が起こっている
今日においても、180度変わるようなことではないでしょう。
むしろ、生活の質を落としてでも原発をやめようという人がいるようですね、
幸福に対する価値観を変えようとする動きも見られます。
僕の立場としては、まだまだ考えなければ決められないので、はっきりしたことは言えないのです。
でも、今回『BRUTUS』を読んで書いた「見えない価値」などは、突破口にしうる考えの切れはしだと思うのです。

都知事は、今回の震災をいっとき、「天罰」などと評しましたが、
世の中、そういう天罰をもたらされる人たちばかりで動いてきたわけではないことが、
この「見えない価値」を通して感じたりしませんでしょうか。

途中、僕の面接(うかるといいな)の話も挟みましたが、30年も前から、
売れ筋の商品だけでは売れないことがわかっていたようなんです。
それを、もっと他の分野に類推して考えてみるってことを、
あんまりしてこなかったのかなぁ、現代人はという気がしました。
震災のこともありますが、今、日本人はいろいろと真剣に考えなければいけない時期に
生きているようです。
本を読んで知識を仕入れて、自分なりに考えてみたりすることって、将来十分に役に立つ行為でしょうから、
このまま日本人が水に沈む石のようにどんどん深みにはまっていくことはないと僕は考えますし、望みます。
水の中にあって魚であれ、そう日本人にはあって欲しいと思います。
数ある日本人の一人としてそう思いました。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉ヲ因数分解スル

2010-11-22 22:19:48 | 考えの切れ端
ふと思い立って、それも今読んでいる本の何気ない一節にふれて、
言葉を因数分解する能力について考えた。

言葉の因数分解とは、たとえば「立ち往生」という言葉を、
「目的に到達できないままただ立ちつくす」というように噛み砕くこと。
こういうのって、実は「う~ん」と考えるのに時間がかかるので、
忙しい人には向いていないし、忙しくなくてもイラチ(イライラしがち)な人には出来難いこと。
そこを僕はやっていきたい、と。

辞書をひけば早いじゃん、なんて思う方が多数いらっしゃると思いますが、
どうしてもうまく噛み砕いて言えない言葉は辞書を引いて、大意をつかんで
覚えるのが良いかもしれないですね。
頭を絞ればでてくるような、言葉の因数分解だったならば、
時間をかけて、ひねり出すことに、何かしら、頭を鍛えるような効果が
あるような気がしませんか?

言葉を覚えることなんていうのは、まずは模倣と暗記から始まるものです。
でも、つねにそうだったなら面白くありませんし、機知っていう能力を養えないような
気がするんです。模倣と暗記を繰り返して、ためた知識を今度は応用に使おう、
道具として使おう、それが、言葉の因数分解によって訓練されるのではないかと
僕は、今の時点ではそう考えています。

言葉の因数分解が切に必要だなと感じたのは、
小学校に上がるか上がらないかの子どもと接した時。
うまく説明してあげたいし、それがスポンジ並みの吸収力をもつ彼らの脳に蓄えられるのを計算してのこと。
大人の言葉をちょっと知っているんだぞっていう優越感を持たせたい気もするんですよ。
自分が"おこちゃま"だった頃、クラスで先生が、「これ、どういうのか知っている?」なんて
生徒に問いかけて、一人だけ手をあげて、「これこれこういう意味です」なんて答えて正解を
貰った時の、周囲の羨望のまなざしというものが恥ずかしくもあり誇らしくもあって、
総じて言えば、心をぐらぐらとゆすぶられるような体験をしました。
そういうのが原体験となって、大人になっても、誰もやっていないことをやりたいな、っていう
秘かな願望みたいなものに繋がると思うんですよ。僕だってそうでしたからね(なんで過去形なの)。

つまりは、大人になった自分の言語脳を鍛えるために言葉の素因数分解を心がけることと、
子どもを育てる意味で、うまく言葉を伝承させていくために、大人は普段から言葉の素因数分解を
心がけたほうがいいんじゃないか、ということです。

なんとなく、説得力もあるでしょう?
でも、この記事に限らず、ごく私的な見解ですからね。
「そうなのか?」「いや、違う気がする?」など自由に読んでください。
ブログっていうものも、そういうものですよね。
ある個人のアイデアや主張が多い気がします。

と、Tweetをきっかけに一つ記事が書けました。
今後も、Tweetと連動させて記事を書くことも多くなるかもしれません。
Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬モ食ワナイ

2010-10-24 18:40:28 | 考えの切れ端
小さい頃、両親がケンカしているときには、
僕は彼らの視野の外に逃れていようと努力したものでした。

いや、それよりも幼い頃だったら、「なにけんかしてるんだろー」
とばかり、面白がってケンカ見物をしていたように思います。
親も、そんな僕をかまって、「どうする?パパの味方をするのか、ママの味方をするのか」
などと、自分の立場を優勢にするがために、
そしてこういう機会に子どもがどちらを好いているのかを
確かめておこうとばかりに尋ねてきたものでした。
むろん、僕は、思わせぶりにどっちつかずを演じたり、その逆をしたり楽しんでいました。
子どもながらに本心は見せなかったです。そこが頭の良い所というか、…タヌキ。

今述べたような、本当に小さかった頃は抜きにして、
両親の視野に入らないようにした頃の、僕の気持ちって一体なんだったのかなぁ。
いい加減、ケンカってものの醜さもさることながら、
「夫婦喧嘩は犬も食わない」と呼ばれるその本質が見えてきたのでしょうか。
やるだけやってすっきりすればいい、程度の気持ちだったのか。
まぁ、詳しいことは覚えていないのです。

でも、これは覚えているなぁというのがあります。
両親がケンカをやらかした翌日だったでしょうか、不機嫌なおふくろが、
親父と結婚しなければよかった、と僕の前でこぼすのでした。
それで、僕と二人だったらいいのになんて言いましたけれど、
それ以前に、親父とおふくろが結婚しなければ、
僕は生まれなかったわけで、それじゃ、僕はいなくてもかまわかったの?
という問いに結びついていくわけです。
これはねぇ、小学生の真ん中以前の年齢の僕にしてみれば、
元気をなくす親の態度・言動でしたよ。
今の小学生なんかはもっと醒めていて、親子関係をドライに捉えているのかなぁ、とも
思ったりもしましたが、やっぱりそんな人間の、いや子どもの本質がそう変わるものでは
ないでしょうから、現代の醒めた子供も、そういった切ない経験をしているものだと
みなすべきかもしれないです。

それに、もう一つ、親のケンカや不仲による子どもへのマイナスの影響として、
へんに親が子供にべったりになるという傾向が生まれてきませんかねぇ。
不仲なときには、不自然な感じでそんな傾向も時としてみられましたが、
それはそれで、親同士のあてつけめいたいつわりの愛情ですからね、
子どもとしても、その偽り加減を感じとって空虚な気持ちが心の片隅に生まれるものです。
子どもに対する一番の教育は、親同士の仲がいいことだなんて、何かで読みましたけれど、
ほんと、そうだよなぁ、って振り返ってみると納得できます。
仲のいい親の子どもだったら、少々ほったらかしておかれても、心は暖かいでしょう。
それに、ほったらかしておかれることで、自立心というか、自分を律する思考回路が生まれそう。
なぜなら、干渉されない自分だけの世界というものに住むことになって、
そこでは自分のしたことに対して自分で責任を取らなければいけないから。
「こうなると、こうなる」っていう世界の常識や原理が、親の干渉という混じり気を帯びずに
子どもの経験につながっていきますよね。

それともう一つ、親がケンカしてどうこうっていうのも、親父と結婚しなければよかったというのも、
あまりにそれは、子どもを脇役にしてしまう行為だなぁと思うのです。
まぁ、子どもも、「いつも自分が世界の主役」ではロクな人間になりませんけれど、
ここぞというときに脇役に押しのけられると、
ここぞというときに萎える人間になりそうな気がするんですよね。
あくまで、これは「気がする」ってことですので。

と、ここでお風呂が空いたので、入浴してきます。
それでは。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プライド

2010-10-17 00:14:38 | 考えの切れ端
もしかすると珍しいのかもしれませんが、
子どもの頃の僕と、多くの同級生たちが当時憎んでいたものの一つは、
「プライド」でした。

いったい、プライドに対してどういった見え方がして、
嫌い、憎みさえするようになったのでしょうか。
その起点になった時期は、小学校中学年にあります。

「あの人、個人主義よね」と、別行動を取りがちな、ある個人をやんわりと
中傷する話がささやかれるのを聞きました。

球技などが強いクラスは、「あの学級ってまとまりが良いわよね」
と、うらやましがるような口調で語られるのを聞きました。

両者を結びつけると、
まとまりのある学級というのは、スポーツにも強く、
先生にも保護者にも褒められ、良い子の集まりとされる。
そんなまとまりのある学級を乱すのが、個人的な行動を取る人。
自分の意見というものを持っていて、たやすく妥協しないし、
人によっては団体行動を嫌うものもいるし、孤独を好くものもいる。
そういう個人主義は良くないね、みんな一緒にまとまるのがいいね、
というのが、その頃つまり小学校中学年の頃の集団としての有利な形勢でした。

そして、個人主義からそう遠くない位置にプライドというものが存在し、
それが邪魔なんだということになるのです。
みんな仲良くまとまることを志向すると、個人の持つプライドというものは、
とてもくだらなく、滑稽で、自分で自分を束縛する足かせのように見えてきます。
だから、「そんなプライドなんか持って、バッカじゃんねー」ということになります。

まだ、自我というものと面と向かって語りあう前の子どもです。
自分の考えに沿って、失敗しても良いから何かをやってみようという心意気に
欠ける子どもたちだったのかもしれません。
ただただ、するすると、成功への道を歩めればいい、そんなずるずるとした感覚でいたのかもしれない。

そして成功体験をまだ知らない子が多かったのでしょう。
「こういう努力をしてこういう成功を得ることができた」という経験が、
自分の中にプライドを形成する。
もちろん、そういう理由だけではありませんよね。
倫理上の信念、清潔さ、そういったものもプライドを形成するでしょう。

むろん、挫折というものも人を孤独にし、個人主義に向かわせる傾向もあるでしょう。
なぜならば、挫折は、より多くの自分への問いかけを必要とするものになるだろうからです。
自己修復に必要な自分への問いかけによって、思考力は鍛えられ、独自性が生まれ、
これもある種のプライド的役割を持つものが心に生まれて、個人主義の色を濃くする場合が
あるのではないかと推測します。

お気づきかと思いますが、僕の子ども時代の「まとまりの良い学級」を目指す考えは、
世の中をわかっていないし、とてもアンバランスで危険な「全体主義」に結びつくものです。
その後、ほぼ同じメンバーでそのまま進学した公立の中学校では、学級崩壊をやらかします。
「まとまりの良い学級」を目指す、没個性の考え方の裏返しの形が、学級崩壊だったと、
論理だてて考えていはいませんが、繋がるものだと直感しています。

僕らは、忠実な番犬が不審者を憎むように、プライドを憎み、吠えたてさえしました。
世界中のすべてのケンカ、争いの種がプライドにあるとすら踏んでいました。
プライドというものが存在しなかったら、どんなに幸せで平和な世の中になるだろう、
そう考えていました。
生存競争を知らない、資本主義の競争社会を知らない愚かな子どもだったのでした。

その後、いつから、僕はプライドを持つようになったのだろう。
個人主義へ傾倒していったのだろう。
それはまた別の機会にお話するかもしれません。

個人主義とはいっても、自分を特別視しない個人主義が好ましいですね。
俺は天才だとか、そういった思い込みからくるプライドは、今になっても嫌悪します。

同じく、今でも憎んでしまいそうなプライドにこういうのがあるんです。
実はこれを言いたくて、今までのは全部前フリのつもりでしたが、長くなりましたし、
本論よりも立派になってしまいました。
プライドというものが、成功体験、努力などから育まれるという一面を持っていますが、
たとえばその成功体験がパチンコとか競馬とかのギャンブルだけだったらどうだろう、と思ったんです。

「あの青年はやけに堂々としていてプライドが高そうだ。
だけど、話をしてみると、一家言あるようで無いのだが、一体なんなんだ」
そう思って、彼の話をじっくりとより深く聴いてみると、ギャンブルばかりしていて、
その自慢話ばかり飛び出すようになる。
つまり、運任せのギャンブルの成功体験でのみ形成された自信だった…。

とまぁ、実際にそういう人に会ったことはありませんが、
自分がそうなったらイヤだよなぁなんて思いました。
やけに気高かったりしたら笑えますけどね。

話は戻りますが、個人主義も、個人主義だけでひっそりやっていては面白くないのです。
それはそれ、個人個人のちょっとした結びつきがあると良いですね。
個人主義を阻害しないまとまりっていうものが出来るのならば、
そういう集団は頑丈だなぁというイメージが湧きます。
職場も学校も遊び仲間も、そういう繋がりの人間関係っていいですね。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コウイウ人、イマス。

2010-08-12 20:48:32 | 考えの切れ端
あれこれ、些細なことまで心配して、大変だ~大変だ~とやって、
いそいそとし、俺は忙しい人なんだというオーラを醸し出す人。
そして、これが厄介なのだけれど、大変だ~とやっていることに他人を
うまく巻き込もうとする。まぁ、それはおいておいて。

傍から見ていると、「何をやってんのかね~」と
タバコでもふかしたくなる程度のことだったりする。
犬が自分のしっぽを追いかけてぐるぐる回っているのと同じことと見えたり。

それでも、「くだらね」と言ったら、
「人の気も知らないで!」と、その人も犬も言うだろう。

自分にも当てはめてみて、イライラしているときだとかに、
俯瞰的に「しっぽを追う犬」と自分を比較してみるといいでしょう。
自分がくだらないものってことに気づくはず。
ある種の、自己批判の方法でもありますかね。

自分の評価をバブリーにしていたら、
そのうちとんでもない転び方をするっていうのが、僕の見方です。
バブリーじゃなくても、すごく甘く見ていたり、
自省しなかったりすることが良いことではない、と。

そんな僕の見方だって、もしかすると、「しっぽを追う犬」レベルの
ことなのかもしれないですけどね。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜更ケノMEW

2010-05-12 20:37:50 | 考えの切れ端
一昨日から、Twitterに糸井重里さんが参加されました。
伝説のコピーライターvs140文字っていうのを楽しみに
しているんですが、普通に使われているようですね、
おならぷっぷーっておっしゃってますけれど。
それでも、140字のまとまりの中にしっくりとおさまる
つぶやきをされているなぁと注目しています。

さて、それで、糸井さんは初日に、翌日の「今日のダーリン」
(『ほぼ日刊イトイ新聞』のトップを飾る名物“コラムのようなもの”)
のテーマのリクエストを受け付けたんですね。
結局、その後、ツイッターのことを書きます、ということで、
募集からネタが使われることはなかったのですが、
僕もタイムリーにつぶやきを見ていたので、Replyを返していました。
それが、

「深夜のコンビニにたむろう腹をすかせているであろう野良猫に
おにぎりやロールケーキなどを与えてしまって良いものかどうか!」

というものでした。

ブログのネタになるので、今日はこのテーマについて
ちょっと語ってみます。

そうはいいながら、実際にそういう場面に、
去年のことでしたが遭遇していたんです。
人にすがるでもなく、ふらふらとただコンビニの駐車場付近をうろつきながら、
ゴミ箱の様子をうかがっている3匹のネコがいた。
どんな毛色のネコだったかは、もう忘れてしまいました。
ただ、真っ白なネコでも、三毛ネコでも、真黒なネコでもない
雑種だったと思います。
その中の1匹が、遠くで構える他の2匹と違って、人間との距離感、
つまり僕との距離感を、微妙な、つかずはなれずなところで
保っていたのです。
こんなところでウロウロして、相当腹を空かせているんだろうなぁ、と
僕は買ってきたばかりのロールケーキをみせてみました。
ネコは逃げず、近づかず。だけれど、僕のほうに注意を向けています。
ロールケーキを開封してスポンジのところをちぎって
ネコに手を近づける。ネコは軽くたじろぐものの、食べ物だとわかったようで、
顔を近づけます。そしてパクッと、僕の指から不本意な行為だといいたげに
こそげるように食べたのでした。そのときに、軽くネコの歯が指に当たったのですが、
それがなんとも心地よかったですね。ネコのほうからのコミットメントを感じられる。
その後、そのネコは美味そうにパクパクとスポンジをすべて平らげました。
残りの2匹のネコは遠くからどうしよっかっていう不安げでうらやましげな顔をして
こちらを眺め、若干近づいてきました。
まだ足りなそうだなと思って、僕はコンビニでおにぎりを買い足してまたネコにやる。
遠くのネコにもちぎってなげてやってけど、そっちはまるで手をつけない。
近くにいるネコはスポンジケーキを食べる時よりはまずそうに(贅沢!)
しょうがなく、腹の足しにと思ってかどうか知りませんが、そんな様子で
食べています。そしてそれは鮭のおにぎりだったのですが、
意外なことに、鮭は食べませんでした。匂いをかいでから、次を待っていました。
そういうわけで、「どうだ、エサをやった人間様だぞ」という気持ちで、
そのネコを撫でようとしたら、そのネコ、身体をくねらせて僕をかわして、
一瞬のうちに、3歩分くらい遠ざかり、いつでも逃げられる距離を作りました。
なるほど、これくらいじゃ自分は売らないよ、というなかなか見上げた野良ネコ
根性だなと納得して、僕は引きあげました。

野良ネコにエサをあげたことは良かったことなのか、
悪かったことなのか、考えてみます。
良い点は、そのネコの空腹を満たしてやったこと。
食わねば死んでしまいますからね。
悪い点は、人慣れさせてしまう危険性。
子どもや変な大人にいじめられたり、
保健所の人につかまってしまう。

そう考えると、何が良いかといえば、
ネコの習性を利用したような、狡猾な罠があった場合はしょうがないけれども、
ネコが必死になって、ヒトに捕まらないように気を配って、
彼の運動能力をもってしてやっと食物を手に入れられるようなしかけを
こっそり目立たない場所に作ってやればいいのです。
その場合、カラスなどに邪魔されない工夫も必要ですね。
なんなら、その装置を見はって、カラスが来たら脅かして、
ネコが来たらそっと、やるがままにさせておくのがいいのかもしれない。
たまにはネコの裏を掻いて、もう少しで捕まえられるところだった!というのを
演出してやって、学習させてやるのもいいでしょうね。

さっき書いた、僕がエサをあげたネコというのは、捕まらなそうで、
捕まってしまうネコだと思います。もう少しで、ヒトに「ニャーニャー」
甘える術を身につけるところのようにも思えます。
身の危険を感じるセンサーが鈍りだしているんですね。
それは、野良ネコとしては危ない。
僕の理想の野良ネコは(変なコトバ…)、うちの近所にうろうろしていますが、
人の姿を見たらバッと身体に力を入れて逃げ去るネコですね。
それでいてちゃんと生き延びている。そこのところ、人を選ぶ目を
持っているのかもしれない。そういうのもすごく必要ですね。

飼いネコの寿命は10年以上でしたっけ。
野良ネコの寿命は4年くらいだそうです。
栄養が足りずに病気になったり、車に轢かれたり、
北海道だったら、極寒を越せないネコもいるんだろうなぁ。
それでも、そういった野良ネコたちの、自然死した姿って
ヒトには見せないですよね。
ニャンコたちにもなにかしら誇りみたいなものがあるんですかね
(いや、他に何か理由がありそうです)。

野良ネコが人間の言葉をしゃべれたら、なんて言うでしょうか。
寿命が短くても、その生き方が性にあっているからいいんだ、と
きっぱり言うでしょうか。家ネコとして、肥えた身体で目を細めて、
始終眠って、そこそこ長生きするようなネコはなんと言うでしょう。
外部の刺激を知らないまま、幸せです、と言うだろうか。

じゃあ、ネコとして、どう生きるのがもっとも幸せかといえば、
野良ネコのごとく外の世界を闊歩し、飼いネコのごとく
お腹が空けば、ヒトになれなれしくエサをもらう。
嵐や寒さに見舞われれば、家に入れてもらい、
病気になれば面倒を看てもらう。あとは、恩を感じることもせずに、
自由に走り回っている。そういうのがネコ世界の理想なんじゃないかって
思いますね。イヌはまた全然違いますよね。ネコと先祖は一緒らしいですが。

それでも、僕に限らず、
野良ネコがかわいそうだ、哀れだと言うヒトはたくさんいるでしょう。
しかし、それって、豊かになった現代人の驕りなのです、たぶん。
自然界では、異種間、同種間での生存競争が行われますが、
そんな中でも、彼らの幸せ、つまり充実した生を送らせるようにしむけることが
できるならば、それは人間の科学や思想が相当進歩し、生活に本当の余裕ができた
っていう証拠になる行動になるような気がします。
ま、でも、自由放任こそが生物界のためだなんて考え方が主流になりそうですけどね。

コンビニで会ったあのネコは、体つきから言えば、まだ若いネコでした。
ショコタンみたいな子に拾われているのが一番良いのだけれど、
生きててほしいなぁって、無責任にも思ったりします。

夜更けに響け、彼らの声なき声。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする