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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

不安に蝕まれないために、孤独であっても持ちたくない孤立感。

2022-12-26 22:46:07 | 考えの切れ端
世の中全体、つまり世間一般的な多くの人たちはさまざまな不安を抱えながら生きています。その不安が強迫観念を生んだり、なんでもない他者の言動に悪意を読み取るなどの認知の歪みを生んだりします。そして不安は、個人を苦しめるばかりか、世の風潮や空気までをも強迫観念的な状態へとつくりあげているように僕には見受けられるのです。

<不安ってどこから来るのだろう?>
不安はほとんど孤立感によってもたらされる、といいます。

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人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。  (エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』p23-24)
______

ここにさらに別方向からも、どうして孤立感は不安を生むのか、と考えてみます。思いつくのは、孤立してもなお一人でやっていける自信を持つ人なんてまずいないから、というのはあるのではないかということです。だからフロムの言っていることと合わせて考えてみても、他者と繋がり、相互に依存しつつ生きていくというのが最適解になるのだろうという一つの答えが導き出されます。

<「脱孤立感」のために。>
他者と繋がるには人を信じる力が要ります。信じられない他者とは有益な意思疎通や情報交換を望むのはなかなか難しいです。人を信じてこそ、言葉も信じられます。人を信じるには、他者がどういう人かを知る洞察力が要ります。だけど、出合い頭の洞察力だけでは洞察の精度は低い。ですからさらに、他者を知るための情報探求力が要るのです、他者の情報を多く集めてから洞察するために。
くわえて、洞察の一般的な基準となるものさしを知るために、自分が知りたい特定の他者の情報だけではなくて、世間一般の他者全般について、常識的な範囲やスタンダードな感覚を知るための情報探求も要ります。

他者と繋がること、そのために他者を信じること、さらにそれ以前に他者を知るための洞察力と探求力が要るというわけなのです。
ということは、裏返しにしてみると、洞察不良な人が他者を信じられなくなるのが論理的にわかることになります。洞察不良は認知の歪みからくるといいます。そして認知の歪みは不安からくるといわれますし、その不安は孤立感からきます。

つよい孤立感を持ってしまってもなお土俵際でねばれるように、次の一手を打ち逆転してくためには、ちょっとでも自分に自信があったほうが良いのです。孤立感に陥っても、自身に対する健全な範囲での自信を持っていれば、少しの間、その孤立感に耐えられて、孤立感を打破してくためのアクションを起こせる体力のようなものが残されているものなのではないか。

<ひとりきりで「自信を持とう」として陥る罠。>
自信がない人が自分でする処方箋が、権威を信用すること。自分での判断に自信がないので、自分が尊敬できる人に聞いただとか、ニュース番組で見ただとか、新聞や本で読んだだとかいった情報を信用して、絶対的とでもいえるような地位にそれを置き、寄り掛かるのです。
これは不健全なやり方で、ますます自分を信じられなくなる傾向を強めると思われます。つまり観念的なんです。実際に目に見えている現実よりも、他者から与えられた観念のほうが正しいとするのですから。喩えるなら、ほかほかのご飯を目の前にしても、誰かが権威的に「これは蝋細工だ」といったなら、その人は、これは蝋細工でできているから食べられない、と本気で思いそう行動してしまうような感じでしょう、極端ではありますが。

<「健全な自信」のため、コフートの自己心理学を用いる。>
では、健全に自分に自信を持つようにする、それも無理なくするにはどうしたらよいか。それには幼少時の父母からの声かけが大きな意味を持ちます。となると、大人になったら無理なのか、とお思いになるでしょうけれども、大人になっても友人などの声かけで効果が望めます。これにはコフートの自己心理学の考え方が使えるのでした。(コフートの自己心理学はフロイト学派から枝分かれしたもので、米国では主流のひとつに数えられる精神分析の手法です)

「鏡」「理想化」「双子」というのがコフートの自己心理学における考え方の三つのカギです。

「鏡」は、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。

「理想化」は、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。

「双子」は、父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。

理論上、これらを用いることによって自己愛が支えられることにより、自分自身に自信が持てるようになっていく。そうなれば、不安というものも、不健全なまでの量や深さまで抱えることも、かなり少なくなるのではないでしょうか。

<「人生って良いなー」と思うために。>
そうなれば、個人の生きやすさは向上し、つれて世の中の風潮の健全さも増すのではないか、そう僕は考えるのでした。
仕組みといいますか、道筋といいますか、そういったものは以上のように説明できます。ただ、人間は多様でいろいろな方がいるものです。様々な精神的傾向があり、医者にかかっていなくとも病の領域に足を踏み入れている方も珍しくありません。
それでも、健全さが広まっていって、世に「人にやさしい機運」が高まれば、少しずつ、生きづらさが解消されていく人は増えると思うのです。
ほんとうにちょっとずつでも、幸福感やQOL、いえ、そういう言葉を使わなくても、「人生って良いなー」って思える総時間が増えていけばいい。そう切に願いながら、本稿を書かせていただきました。
他者の役割ってものは、ほんとうに大きいですね。



参考文献:エーリッヒ・フロム『愛するということ』
     亀井士郎 松永寿人『強迫症を治す』
     和田秀樹 『自分が「自分」でいられる コフート心理学入門』
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何故、知恵や知識はかんたんにもっとシェアされないのか?

2022-08-14 22:32:04 | 考えの切れ端
これまで受けてきた学校教育によって、無料で得たという心積もりでたくさんの知識を蓄えて知的興奮を味わう経験してきますよね、勉強するのが好きな人たちというか、知的好奇心が強い人たちは。そしてそういった人たちが大人に近づき、世の中にはもっとたくさんの知識や理論、世知にいたるまでが広く存在しているだろうことを知る。人生の先輩たちは自分よりうまい方法を知っていて、どうやら得の仕方も知っているのを知ります。

それらの方法や知恵を無料で分け与えてくれないだなんて、世の中を発展させ、よりよくしていくんだっていうピュアな論理からすればおかしいじゃないか、教えてくれれば自分はうまく人生を成功させて、そのお返しだって他者へできるだけする、という考えを持つ人は珍しくないと思います。若いころには僕もそうだった。

義務教育や高等教育の延長戦、社会は次世代の人々を育てるべきものに決まってるんだ、という世界観。それはそれで、なぜ学校へいかないといけないのか、と考えれば出てくる視点で、いたってノーマルな答えだと僕は思う。知識や知恵、考える力を育む理由は世の中を先へ先へと進めていくためで、そのためにはもっと最先端の知恵や知識までをもシェアしてほしくもなるものでしょう。

人生の先輩たちはもうわかってる知恵や知識なのに、私たちへと学校のように教えてくれないなんてケチだ、と。出そろってる知識は隠さずに囲わずにシェアして当たり前じゃないか、じゃないと教育で教わるまでの範囲でぶちっときられてしまうみたいで、中途半端な教育を受けてきただけのように感じられる。実践へ足を踏みいれるにしては、手持ちのアイテムを少なく感じる。

知恵や知識をみんなシェアしてもらえたら、それらを土台にして社会を劇的にあたらしく拡張していくべきミッションにつくことができるし、全力でそのミッションにあたれる。それだけの道具・アイテムをケチらずにくれよ、という主張だ。これには、ピュアな善、なんて言いたくなります。

これはある意味で真っ当だし、ある意味で図々しい。なぜ図々しいかと言えば、資本主義の競争社会の仕組みに照らせば、自分だけの勝利を他者に飲ませるとも見られるから。つまり資本主義社会はクリーンじゃないからこそ、富の競争が成立しています(とはいえ、ルールはありますが)。

あと、知識や知恵をどんどん手に入れたいという欲求はまともでも、かんたんに手に入れてしまうと弊害があります。ある種の身体性のともなっていない知識や知恵は、害なんです。あたまでっかち、なんていうのはその一例です。

あたまでっかちくらいで済めばいいですが、身体性の薄い知恵や知識は砂上の楼閣で、それこそすぐに失敗せず、ある程度までうまく組み立てて行けたとしても最後には崩れてしまう。それも、失敗が遅ければ遅いほど被害が大きい。

というわけで、どうしても時間がかかるもの、時間をかけないといけないものはあるし、競争社会という世の中の仕組みに合わないからフリーでは得られにくい知識はあるということでした。若いうちにはみんなで繋がれば素晴らしい発展があるという理想を持つことがあり、知恵のシェアもその一つだと思う。みんなの力を合わせれば、すごいことをやれるのに! という思想ってありますよね。

まあ、そこに、もっといえば、人間心理ってまっさらなくらいに健全ではないし、健全じゃない度合いの相当に高い人だっているし、みんなが集まれば千差万別で多様な色合いを含んだ集団になる。力の合わせ方にも工夫が必要にもなる。少人数のグループなら、うまく稼働できるかもしれませんが、それだと、そのグループがあたまひとつ抜けるような成長をしたとき、そのグループによる寡占が起こったりする。それはそれで、初期衝動を生じさせた思想とは相いれない結果なのではないでしょうか。そうなったとき、「まあ、いいか」で済んでしまったりするんですけどね。

身体性と、そしてしたたかさ、これがどうやら世の中の発展の鍵なんじゃないかなあ、と僕は考えるところでした。
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雇用の流動化を考えるときに。

2022-07-24 10:47:22 | 考えの切れ端
雇用の流動化。かいつまむと、転職しやすい社会のこと。人材が流動化すると、産業が発展しやすくなるのではないかと言われていたと思います。しかし、今って雇用の流動化は盛んではないですね?

雇用の流動化が起こりにくいのは、新たな仕事に対する不安のためというよりも、新たな職場で再び自分の立ち位置を構築しなければならないことへのプレッシャーや不安のため、というほうが大きいのではないか。

現場では、つまりひとつの職場の話ではですが、「陣取り合戦」のような、駆け引きや威圧やコミュニケーションなどを含む人間関係のあれやこれやを全力で駆使してその職場での自分の立ち位置を長い時間をかけて確保することが多いように見えます。いわゆる、権力闘争が激しくてつらいというような。

立ち位置が確保できれば、比較的安穏な気持ちで仕事ができる。でもそれまでが大変で、それを職場が変わるたびに、つまり二度も三度も、くり返すのが人々にとって実に重荷だから、他人を蹴落としてでも一つの職場にい続けたいのではないかと思った。

仕事の内容よりも、そういった、職場で自分の立ち位置を確保できるか否かのほうが多くの人々にとっての死活問題で、雇用の流動化を進めたいならば、この問題を緩和なり解決なりしないとならないのではないか。さて、どうしたら……??
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小説は永遠につづく。

2022-07-02 22:59:32 | 考えの切れ端
文芸作品の売り上げが、ここ10年で1/4まで落ちたというニュースを受けて書きます。

文芸作品はセーフティーネットでもあると僕は思うのでした。多様と分散のこの時代に、前時代よりもシェアが減るのは当然なのかもしれない。でも、最初に書いたように、セーフティーネットたりえるものです。でもって、文芸作品を求めるひとって一定数はずっとい続けるものなんじゃないかな。

虚構があるからこそ、現実や人間を理解しやすくなる。虚構は思考実験であり、「それ」があるからこそ説明しやすくなる種類の複雑な問題があるというその「それ」である虚数のようであると言えるのかもしれない。

その虚構が、映画や漫画でいいじゃないか、というのもひとつの在り方だ。かといって、小説がそれらに劣るメディアではないことは知っておいたほうがよいことだし、そこをわかるくらいの知的修練はあったほうがいい。話はまずそれから、としたいけど、それだと門戸が狭いんですよね。

だけど、門戸が狭いことで人を選別しもする。誰でも入ってこられる部屋ではないから、ある人々にとってのセーフティーネットという位置付けになるのかもしれない。

こういった観点をふまえて読む『はてしない物語』は味わい深そうだ。バスチアン少年の居場所(安全地帯)としての文芸作品があり、彼はそれを楽しんで読んだ。それでいて、いいことばかりじゃないんだぞ、ということまで教えてくれる作品でしたね。

文芸の文化はとにかく残していくものであって、そりゃあ資本主義上での金儲け(錬金術)とは相性が悪いのかもしれないし、昨今のコスパ・タイパの風潮のなかではとくに分が悪い。でも、その芯はしなやかで強靭で、さらにいえばずっと未来の奥まで続いていっているのではないか。

文芸の出版はNPOがやる、なんて段階に将来なったとしても書き手は出てくるし読み手はい続けると思うな。まあ、そのうち大ブレイクするなんていう分野ではないだろうし、「伏龍」だなんて言い方は違うでしょうが、それでも雌伏の時代に入っているのかもしれませんね。

それでも、僕は言う。「小説は永遠につづく」と。
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「たら」「れば」「もしも」との付き合い。

2022-06-19 10:58:57 | 考えの切れ端
僕はどちらかというと、「たら」「れば」を言うタイプではない。それは生きていく上でのある種の強みではあります。だけれど、そういった「たら」「れば」「もしも」は創作や工夫の種なんです。もっというと、後ろ向きの「たら」「れば」「もしも」こそが物語を生んだりもする。人の、切っても切れない「弱さ」だからなのかなあ。

会話の中で「~~だったらよかったね」「そうだねえ」なんて言いあうとき、表面上は同調しても本気の部分ではそうは思わないで割り切っているタイプです。十代の頃に後悔と格闘したひとつの結論としてのものなのかもしれません。「決定」するということについて、じっくり考えたんだと思います。生半可に決定するものじゃない、というように。

それでも、割り切っているようでいて、他者に「~~だったらよかったのに」なんて言われると腹が立ったり。後悔させたいのかな、とか、他人の「後悔案件」への対処から学びたいのかな、とか、他人の後悔を知って自分だけじゃないと安心したいのかな、とか思っちゃう。

いろいろと経験してきた後悔の気持ちは、他者の気持ちをわかること(シンパシーやエンパシー)と繋がるだろうし、ある程度はそのマイナスを引き受けながら共感する能力を育むなどのプラスを生む意味合いで後悔をとらえるのがいいのでしょうか。難しいものですねえ。

それと、「後悔」に苦しむ人は、「反省」だけすると良いことも言い添えておきます。「反省」は、あれを今度こう直せばいいはずだ、などという修正案とともにやって、悔いたりしなくていいものです。「後悔」が重い人はドライな「反省」だけでいい。若いうちは特にそうでしょう。

そのときそのときの心の余裕を考えながらその度合いを決めて、極端に針を振らずに「後悔」とも付き合っていけるようになると、人としての厚みは増しそう。でも無理するべからず。ほどほどに、時間をかけて、だと思うのですがいかがでしょうか。

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近況としてですが、ただいま原稿を書いている真っ最中です。80~90枚くらいで終えられそうで、現在65枚でクライマックスに片足を突っ込んだ状態です。青写真はできていますから、とん挫はしないと思います。
また、4時間のパート勤務を始めたんです。時間の都合がよく、介護や家事や家の問題、そして原稿と向き合いながら働けるのではないかと思い、就くと決めた販売店の仕事です。
ちょっと更新の頻度が低くなりそうなのですが、どうぞ今後ともおつきあいよろしくお願いいたします。
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「干渉」が跋扈する世の中。

2021-12-27 11:11:21 | 考えの切れ端
たとえば僕は、「干渉」されるのが好きではありません。親からの過干渉、友人からの干渉、そして仕事上での干渉ですら受け入れられないときがあります。今回はそんな「干渉」を見ていきます。

世の中ってものは「干渉」だらけであることが改めて理解できると思います。そして、意識の底あるいは無意識に密着した「干渉」をうまく対象化できたならば(できるだけ、ということですが)、自制や自律が利いた、より生きやすい世の中に変わるではないかな、と考えます。

そうなんです、「干渉」がまるで秘密裏に市民権を得て人中であぐらをかいている今の世の中は、息苦しかったり生きずらかったりしませんか。より生きやすく、ベターな居心地の世の中になればいいのにと思っての論考です。

「干渉」にはさまざまな形のものがあるのですが、「干渉」というものに分別がないのが今の社会でしょう。まずよくあるのが、親からの「干渉」です。こうしなさい、ああしなさい、などの指示や命令によって他律性を押しつけられる形の「干渉」。いわゆる「お仕着せ」です。重松清さんの小説に、父親(祖父だったかもしれません)からの「過干渉」によって小さな子どもにチック症状が起こるものがありましたが、「干渉」によって自律性を損なわせることは精神的な危機に直結するのだと思います。これがひどいことになると、難癖をつけたりでっちあげたり屁理屈を使ったりしてまで理由をこしらえて「干渉」するタイプの人もいます。これは家庭のなかに限らず、クレーマーやモンスターと呼ばれるタイプの人が似た精神構造をしていると考えています。支配欲があったりします。もっといえば、支配したり自分の思うままに他人を動かさないと自分が不安になるタイプなのではないか。また、こういうケースもあります。不安に長くさらされながらその不安に正面から対峙して解決しようとせず逃げていると「認知の歪み」が生じると言われます。認知が歪むと、なんでもないようなことなのに、その事柄に対して自動的に、これは悪いことだ、と捉えるようになるそうです。そうなると、その悪いことが葛藤になるので(認知的不協和)それを解決するために他人に干渉を始めるものもあるでしょう。

次に仕事上での「干渉」を。上司から、「それじゃダメだ、やりなおしてくれ!」と言われることは珍しくないことでしょうけれども、そういった上下関係による命令・指示は「干渉」の仲間です。仕事によくないところがあったのだから悪いのは「干渉」されるほうだ、と考えるのも珍しくありません。しかし、よりお仕着せ的な「干渉」を行いやすくする下地として、そういった命令・指示は機能しているのでは、と考えられます。まあ、仕事がうまくいかない人に、こうやれ、ああやれ、と口を出し始めればそれはもう正真正銘の「干渉」です。そして、そういう場面はとても多いです。

続いてネット世界などでの「干渉」を見ていきます。ネット掲示板でのコメント欄がにぎやかであれば、多くの人がその件あるいはそのニュースの当事者たちに「干渉」を行っていると見ることができます。炎上もしかりです。赤の他人なのに、やんややんやといろいろな言葉を浴びせる。これ、「干渉」です。同様に誹謗中傷の書き込みが怒涛のように押し寄せられるのも、すべて「干渉」です。さらに考えれば、ツイッターなんかでのエアリプですら「干渉」の性質の強い行動だったりします。

さらに見ていきましょう。TVショウの司会者やゲストの人たち、コメンテーターの人たちが政治や社会現象・社会問題に対してあれこれ発言します。これも良い発言や共感を呼ぶ発言だったとしてもやっぱり「干渉」なんです。社会に積極的にコミットしていく、という多くの場合には「社会参加」よりも「干渉」になっているきらいがあるのではないでしょうか。

まだまだあるでしょうけれども、最後にしますが、広告も「干渉」です。この商品はいかがですか、などと尋ねてもいないのに商品の説明を聞かされたり読まされたりする。また、ケータイに広告メールが入って個人の時間に侵入を受ける。これらは、広告による「干渉」です。

現代は「干渉社会」なのです。では、みんなそんなに「干渉」が気にならなかったりするのでしょうか。いやいや、そうじゃないから息苦しく生きている人が多いのです。ただ、「干渉」には人と繋がりたい欲求がこじれて発現してもいます。つい声をかけてしまう、お節介を焼いてしまう、そういったことは人と繋がりたい気持ちの現れで、「干渉」にならないようにもっとうまくやろうすると、難しくてどんな行動を取ればいいのかわからなくなるでしょう。つまり、受け入れた方がよい「干渉」もあれば、断固拒否するべき「干渉」もあるのだ、と。「干渉」についてわかってきたから全部はねのけよう、ではなく、いいよ全部受け入れよう、でもない、ケースバイケースであたっていくべきです。1か0ではないです。またはもっとグラデーションで考える。パーセンテージですね。これはこれだけ良くない「干渉」の性質が含まれているけど、でも行動するべき「干渉」だと思う、と各々が判断する。そのためには認知の歪みをできるだけ少なくし、自己省察をやってみることが大事になります。自分を省みるのは、自分の向上のためだけではなく、社会のなかでいろいろと良い反射を生む行動なのではないでしょうか。相互に影響を受け合うものですからね、社会は。

というように、まるで集団的無意識のように、みんなの心の中にしれっと潜みこんでいる干渉行動。干渉への疑問が低かったり、もともと無かったりします。そのあたりにメスを入れてみませんか。知るだけでも大きな一歩です。そのちょっとした補佐になれますように、という記事でした。おそまつ。
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「ダーク」というデフォを回避するには。

2021-11-17 14:38:33 | 考えの切れ端
今回は、この世界に住まい世間に属する僕らの態度のなかでも、「素直に言ってしまえばダークサイドだよね」といえる地点からはじめます。

せせこましくて、陰湿で、歪んでいて、汚くてっていう悪い姿勢でいたほうが足をすくわれにくいのってみんなわかってるじゃないですか? グループ内だとかの閉じた世界では特にそうだし、開かれた世界でも匿名を使ってそうしがちですよね。より狭い範囲でしか通用しない善、または自分だけの善(つまり利己かつ悪)に忠実にというふうに。

人が自然とそうなってしまう世界観や人間観は、たぶん代々しぜんと継承されていく、あるいは形作られていっています。少なくともここ三代世代くらいの時代感覚で考えるとそう言えそうな気がします。そこに逡巡を経験する時期はあったとしても、とりまく社会環境に抗わずに適応するようになるからだと思います。大人になって以後をも含めた人の成長過程が抑圧や影響を受ける社会環境に、結局は取り込まれるからじゃないでしょうか。

そこにはまず、社会環境を自然環境のようにみるというように、もっと言えばたとえば神様が創り上げたものだというように「社会環境だって偉大な力で創られた確固として揺るぎない、まるで真理かのような仕組みなんだ」という意識からはじまって、それが抜けないからなのではないでしょうか?

大きく見てみれば、知識量の少ないこども時分のまま、大人になってもそれほど知識量が変わっていないことにひとつ、その大きな要因があると見てとれるところがあります。というか、それまでの「揺るぎない基盤である社会環境」という前提を疑えるほどの知識量を蓄えないまでもふつうに生活できてしまうから知識量が増えないんです。知識量を増やさずいても、とりあえず一生をそれほどの苦難無しで送ることができる人が多い(ただ、そういう人たちが他者にしわ寄せを与えているケースは山ほどあるでしょう)。

社会環境って完全ではないし、完璧でもない。また、最悪ではないかもしれないけれど最善とは程遠い。そういったものを無批判で受け入れて、「社会環境の手のひら」の上で暴れまわるのが、せせこましくて、陰湿で、歪んでいて、汚くてっていう姿勢を生むんじゃないでしょうか。手持ちの札が少ない分、無理をしたりルール違反をしたりしがちになってしまいます。そういう手合いが増えれば、数の論理で、ルール無用が暗黙のうちに認められるあるいは流されてしまうようになってしまいます。

「社会環境の手のひら」っていうように擬人化して書きましたが、そのまま擬人化を続けながら僕の意見を書くと、手のひらも含めた「人間存在」を僕たちが創りだしたり育てたりする発想で「社会環境」を見つめ直したらどうなんだろうということです。

そのほうが健全だし、生きやすいんじゃないかなぁと思えるんですよね。現状のままだと、以下に書くような「○○○○」的姿勢に自動的になってしまいがちです。

→「本当はあいつが一番悪いから一言いってやりたいんだけど、やり返されること必至だしそれだとまるで敵わなくて被害は甚大に。かたや、こいつは悪いわけではないが俺よりいい生活をしているのが癪。でも言い返してもこないしやり返してもこないから被害の心配はいらない。だからこいつで鬱憤発散」的。

こういう「すれっからし化」は、知識量を増やすことによって回避できるようになるきっかけのひとつになり得るなあという話でした。あと、知識量によって前提を疑えることが大切です。がっちり先入観になっているものって多いですからね。
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「安心」が失われているからこそ。

2021-10-05 21:48:26 | 考えの切れ端
ホントに「考えの切れ端」だという印象が、きっと強いだろう、今回の記事です。

不安を避け続けると認知が歪んでいくといいます。認知が歪むと、本来なんでもないものに対してこれは悪いものだ、と考えるようになるのだといいます。世の中、不安に思えるものが多く、不安に思いやすい人も多いでしょう? とすると、皆が不安と真正面から対峙してひとつずつ解消する姿勢でいれば、社会環境は悪化しない? なぜって、世の中の混迷の源には、それこそ全員が持つそれぞれの認知の歪みがあるのではないかという気がすごくするからです(コロナ禍はまた大きな不安ですし、ここではコロナ禍のことを言っているのではないのですが)。

失敗すると恥ずかしいものだし周囲からバカにされないとも限らないし、ずっと「あのときこんな失敗をしたな」言われ続けることもある。でも不安との対峙に対してだけは、そこで下手な失敗の仕方をしても周囲から笑われないというように「不安の心理」の理解が進むと、もつれた糸のような乱れ方をした社会環境はそれ以上もつれないのではないでしょうか。

息のしやすさや風通しの良さ。そう形容されるような社会で生きられるようになるためには、「認知の歪み」が蔓延しないことが大切なような気がします。まったく「認知の歪み」がないっていう状態には誰にもなれないと思うのですが、軽い重いはあるんじゃないでしょうか。不安なために他人にお仕着せるくらい重い、みたいに。

不安がおおかた解消される社会は「安心社会」でしょう。でもそれは無理な話で、と考えて作り上げるのが「信頼社会」や「契約社会」かもしれない。不安を解消できなくても、避け続けないでいる姿勢は「信頼社会」に近いだろうか。また、不安を敵視するまでいかなくても、不安を対象として皆で連帯する社会などはあるかなぁ。

「失われた何十年」だとかと言われたものだけれど、本質的に何が失われたかって「安心」が失われて、それが元に戻らない不可逆的な変化だからこそ次にどうするかを考えなくてはならないのではないかな。立て直しが効かないのは不安への対処がままならないからではないか、と考えるのですが、どうですか?

つきまとう不安。その原因を探って解決して安心を得よう、というのは第一の策かもしれない。でも、山のように不安はあって、さらに時代の進捗とともに新たにたくさん不安となるものが生まれてくる。そうなると、もう日常のメンタリティーじゃないかと思えてくるわけです。あるいはゲーム理論の分野にある「メカニズム・デザイン論」が希望でしょうか。社会の混迷って、不安への対処の仕方のわからなさが実は原因なのかも? 
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怒りと被害者意識。

2021-08-16 14:50:04 | 考えの切れ端
このあいだ読んだ『負けない技術』で気付かされたことですが、人が怒るとき、その大半には源に被害者意識があると思います。ほんとうに被害をうけて怒るときの被害者意識もあれば、これは自分への加害であると決めつけての被害者意識もあります。今回はこのことについて、すこし考えてみます。

生きているとどんどん被害者意識って育っていくものでしょう。毎日、いろいろと、他者から被害を受けて生きています。ただその被害の内容の内訳は、他者にとっては悪意のない加害がほとんどです。東京の山手線で朝の満員電車に乗ったときのことを思い出します。これは容易に足を踏まれかねないし、踏んでしまいかねない、と注意する気持ちになったと思います。たとえば横に立つサラリーマンに足を踏まれてしまう。意図的ではありません、事故です。それでも、踏まれた側はしばらく踏まれたことを覚えているでしょう。それは1日いっぱいかもしれないし、3日間かもしれない。痛かったなあという記憶と共に振り返るでしょう。でも、踏んだほうはどうでしょうか。電車を降りる頃にはたぶん他人の足を踏んだことなど忘れているのではないでしょうか?

このように、被害には肉体的だったり心理的だったりする痛みを伴うことが多いので、ずっと覚えていがちです。でも、加害のほうには自分に痛みがないぶん、すぐに忘れてしまいがち。また、加害したっていうことに対する心の痛みを感じる場合を考えてみると、自分が受けた被害の痛みを客観的にとらえられてこそ、自分が為したことへの心の痛みって少しずつ持てるものなのではないか。

これらのことから考えると、被害者意識ってどんどん溜まっていきやすいものなのに対して、加害者意識はあまり溜まっていかないものだということです。生きていれば、被害も加害も同じくらい高い頻度で経験するものだろうに、意識上には大きな差があるのではないでしょうか。

しかしながら、被害者意識が大きくなると心理的に均衡がとれないのでやり返して心理的負債を返し、フラットにしようとする。とうとう堪忍袋の緒が切れるという状態です。それに、もしも自らの被害者意識ばかりに気を取られるようになり被害者意識ばかりで生きていると、他者へ怒りをぶつけやすくなるだろうこともわかってきます。被害者意識ばかりに目がいくと、日常の些細なことでもなんでも被害を受けたと感じて怒りっぽくなる。なぜ私だけがこういう目に?? という意識がつよくなる。人は被害ばかり受けて生きているわけではないのだけど、自分に対する損なことなどネガティブな事柄ばかりが心に残りがちなものです。さきほどの、足を踏まれた時のように、被害に痛みが伴ってそれが印象的だからかもしれません。

また、私は正しい、私は悪くない、など頑なに自己正当化するのも、被害者意識が強すぎるためということは珍しくないです。「だって、わたしは被害者で、向こうは加害者なんだから私は正しいほうの人間だ!」という論理です。こうなると、被害者意識とほとんど一体化してしまった、と言えそうです。そして、小さくでも大きくでも、プリプリと怒りっぽくなるでしょう。

被害者意識を育てる行為のひとつには、おそらく「愚痴」があります。愚痴自体は、自分の内に溜まったうっぷんを吐きだして(そして他者に知ってもらって)すっきりする行為でもあるのですが、愚痴っている最中に自分の被害を再確認することになり、それに驚きや憤慨を持ちつつ心の中でその被害意識が肥大することもあると思います。愚痴ることで良からぬことになるケースは、それによって自分への被害ばかりに目がいくようになり、それに溺れることです。「自分はなんてかわいそうなんだ!」という気分に誘われて、気持ちのほうもそこから抜け出せなくなる。

こうなりやすい人は、生き方に軸のようなものが弱い場合や、思想や理念がない場合が多いでしょう。こういう泥沼におちいってさらにヒドくなったときには、サイコパス的な行為におよぶこともあると思います。たとえば、AとBの選択肢があって、誰かがAの選択をすると「Aじゃない、Bだ」と文句を言い、Bを選択すると「Bじゃない、Aだ」と怒るというように。もともとその人がAかBかをはっきり考えていたなら、そういうことも少ないでしょうけれども、突発的に選択肢がでてくると被害者思考なので、AでもBでもネガティブに考えてしまい、さらに被害者意識が強いので怒りに繋がる、といったわけです。

では、これらとどう付き合えばいいのか。そこが問題なのですが、こういった、被害者意識に偏るアンバランスさが怒りなどを呼んで心を乱すのですから、自らが加害者になっている事柄を無視せず加害者意識を忘れないことで、自分の怒りへの疑いや他者への許しの気持ちが生まれたりするだろうと考えられます。

仮に、一日生活すると被害者意識100に対して加害者意識を10持つようになるものだとします。人生を送っていくうちに被害も加害もどんどん増えていくのはおわかりだと思います。それで、たとえば加害者意識が50を超えたらすこし気を使うようになっていくものだとすれば、人生を送っていけばそのうち人は丸くなっていくのがわかります。偏りの少ない意識で生活していたらそうなるでしょう。でもそれを無理やりやるかのように、加害者意識を無視するような生き方をしていたら、いつまでたってもオトナになれない(丸くなれない)。そればかりか、どんどん積み重なっていく被害者意識に飲みこまれてその奴隷のようになってしまう。そうならないために、加害者意識は、被害者意識ばかりの自分への躊躇となります。

自分はどういうふうに生きていくかだとか、ある程度の覚悟をしておくこと。そして、加害者でもある自分という意識を持つこと。それらが、自分だけではなく周囲にとっても、怒りによるダメージから遠ざかることができることなのではないでしょうか。
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時間を節約する!と躍起にならないこと。

2021-07-24 12:07:44 | 考えの切れ端
僕らは他者との関わりで生きている。そのなかでいろいろとストレスはあってどこかで休憩したくなるもの。でも一日の中で、「一分でも節約して休憩に充てるぞ」と躍起になっても、たぶんそうやって溜めた時間ではよい休憩にはならない。時間の節約にエネルギーを使い過ぎているっていうのがあるし、休憩に入るときの自分の状態が穏やかでなさすぎてうまく心身が休憩に入れないだろうからです。休憩のために一分節約したばかりに、二分なければ休息できない疲労をためてしまうことになってしまいがち。反対に、時間の節約にぴりぴりせずにいたほうが、幾分短めの休憩でも休める。量ということでもないんです。つまり、普段どういう質の時間の使い方や過ごし方をするかなのだと思う。

でも実際、急ぐときは急がなきゃだから、過度にならないように適度にバランスを取りながらになります。過ぎたるは及ばざるがごとし、ですから。そして、時間の量と質についての意識をつねにどこかでもっておくことが大切になります。

休息時間によい休憩が取れるかは、活動しているときの「時間の使い方の質」によるでしょう。ぴりぴりし通しだったり焦ってばかりだと、回復するために休憩時間がたくさんいるようにもなる。そのためにもっと時間の節約をし始め、そのためにさらにぴりぴりして、それを癒すためにさらに休憩時間が欲しくなって……と、節約がエスカレートしていく。悪循環にはまってしまいます。

こういうのはひとりだけで気をつけられるところもありますけれども、他者と相互で影響を与えたり受けたりしあうものでもあるので、みんなができるだけ落ちつけるといいですよねえ。好循環のためには、こういったことを各々が考えておくことが必要なのでした。

おそまつ。
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