TVドラマは先々週?最終回だったようで。こっちは数回チラ見しただけだったが、ドラマ化された時には『なんで今?』と思った。この時代に合うんだろうか?と。まあ、派遣切りの問題なんかも入れて、適度に時代に合わせてつくり直したみたいですが。
ドラマが始まったのと同じ頃に、原作マンガが文庫で復刊されたのを見て買ってみた。
原作が掲載されたのは1970年。大阪万博の年だ・・・。
大阪万博は『明るくて希望にあふれた未来』みたいな雰囲気だったが、対極にある絶望的な現実を描いている。高度成長期で浮かれていた人たちが居た分、その陰には暗く重い現実を生きなければならない人たちも居たんだろう。光があれば闇もある。
とはいっても1号旦那も2号嫁も、当時はほとんど赤ん坊なので知らないんだけどさ。
1970年前後の時代を想像しながら読むしかできない。
で、もう最初の数ページを読んで『エグイなあ・・・』と思ってしまったデブ夫婦。
当時のままの表現で掲載しているので、差別的な言葉がバンバン出てくるしw少年誌に掲載しちゃってていいの?ってくらい、欲望むき出しの描写も多い。
しかし怖いくらいの迫力がある。絵がスゴイとかウマイとかじゃないし、設定もストーリー展開も、今の作りこまれたマンガに慣れてしまうとさすがに甘い感じはしちゃうのだが、それでもぐいぐいと引き込まれてしまう迫力。上下巻、一気にふたりで読んでしまった。
ストーリーは知っている人も多いだろうけれど、ザックリ言ってしまえば・・・
<貧乏ゆえに母を病気で亡くした少年(蒲郡風太郎)が、銭=幸せだという執念のもと、銭のためなら手段を選ばない人間となる。銭ゲバと呼ばれ、それでも銭がすべてだと思い込んで突き進み、ついに金も権力も若く美しい女も手に入れたが・・・>
幸せはお金では買えない、ということだけでは片付けられない物語だ。
風太郎のすべての行動は『貧しかったこと』に支配されている。
貧乏だから級友にも世間にもバカにされ、病気の母親を医者に診てもらうことすらできない。そして母親は金が無いから死んでしまった。金さえあれば死なずに済んだ。ここがすべてのスタートだ。
人を殺すことも、金がすべてだと思うことも、そしてその対極にある人間は純粋で美しい(と思いたい)ことへの渇望も。
風太郎の左目と右目が交互に描かれるコマが多く使われている。かっと見開いた、世の中を睨みつけるような右目に対して、つぶれてしまったような左目がなんて哀しく映ることか。金がすべてだと力を振るう右の顔と、金じゃないものを信じたいと願う、純粋な左の顔。
もうね、どれだけ読んでいっても救われないのよ・・・。
人間、お金だけでも心の美しさだけでも幸せにはなれない。
でも、お金があれば、昔も今も大概のことは手に入る。
モノはもちろん、人の心だって札束目の前に積まれりゃカタが付くこともあるだろう。
でも、お金でどうしても解決しないことがほんの少しだけあるんだろうな・・・。だから人間は悩むんだよ・・・。
そしてこの作品のラストを、どう解釈すればいいのかも悩むところ。
金で人を動かして県知事に当選し、権力も名誉も手に入れた風太郎。
新聞社から『人間の幸福について』というテーマで原稿を書いてくれと依頼されて、原稿用紙に向かう中、風太郎の頭に浮かぶ『普通のしあわせ』。
これがTV版最終回の想像シーンに当たるんだね。
もし醜く生まれてこなかったら。
もし親が飲んだくれじゃなく普通の親だったら。
もし普通に好きな人と結婚できていたら。
このシーンは本当にせつない。これが風太郎の本当に欲しかったものなのだとしたら、なぜ彼は手に入れられなかったんだろう?
いつも私だけが正しかった
この世に真実があったとしたら
それは私だ
私が死ぬのは悪しき者どもから私の心を守るためだ
私は死ぬ
私の勝ちだ
私は人生に勝った
この言葉を遺して自殺する風太郎。そこには、絶対的な絶望感しかなかったのだろうか。
欲しいものはすべて手に入れた・・・と満足したあとに、
どうしても欲しかったものは、やっぱり自分の手に入らないのだという絶望感?
ラストまで読んでも、やっぱりどこにも救いがない。
当時、作者は27歳。何を伝えたくてこの物語を描いたんだろう・・・。
金とあらゆる手段を使って欲しいものを手に入れ、
それでも真実に純粋な自分であるために、真実に美しいものを求め続ける自分であるために、
風太郎はこれ以上生きていくことを拒んだのかもしれない。
この時代にこの物語をドラマにしたのは、ここ数年メディアが感情的に取り上げてきた
『金儲け=悪い』ってことを言いたかったわけじゃない・・・と思いたい。
TV版の最後の言葉
分かったよ。分かったって。俺はもう死ぬよ。
それが望みだろ、お前らの。消えてやるさ。でもな、俺は間違ったていたとは思わない。これっぽちも思わない。
確かに俺は人殺し。犯罪者だ。地獄に落ちてやるよ。ただな、俺は思うズラ。
この腐った世界で、平気な面してヘラヘラ生きているやつのほうが、よっぽど狂ってるズラ。
いいか、この世界に生きてる奴はみんな銭ゲバだ。
お前らが気付かんで、いや、気付かん振りして。飼いならされた豚みたいに生きているだけの虫ズラ。
そいでよきゃぁ、どうぞお幸せに。ただ、俺が死んでも俺みたいな奴は次々生まれてくるズラ。
そこら中、歩いてんだぜ、銭ゲバは。
一方、原作の最後には
そうだ てめぇたちゃみんな銭ゲバと同じだ
もっと腐ってるかもしれねぇな
それを証拠にゃ いけしゃあしゃあと生きてられるじゃねぇか
とある。
さて・・・今の世の中みたいに、悪いことなんて何もしてないような善人ヅラして『いけしゃあしゃあと』生きてられる人間ばかりになったら・・・、どうなっちゃうんだろう?
激しくて、せつなくて、とてつもなく哀しい物語。
松山ケンイチくんじゃない、もっと汚くて哀しい、人間・蒲郡風太郎が居ます。