今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

121 阿騎野(奈良県)・・・人麿が踏み締めおりし丘に立ち

2008-01-28 22:14:34 | 奈良・和歌山

東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ――とは、御存知・柿本人麻呂の万葉秀歌である(巻一48)。そのリズミカルな調子に酔って、天空と一体になったスケール感を楽しんでいるうちはいい。しかしいったん「野」とは何処だ、「炎」とは何だ、などと気になり出すと、心が捕らえられてしまう厄介な歌なのである。挙句の果ては、奈良の山中まで出かける羽目になる。

行き先は「阿騎野」である。万葉集に「軽皇子の安騎の野に宿りましし時」の歌だと書かれているからだ。しかし「阿」でも「安」でも、この地名は現存しない。阿紀神社という鄙びた式内社が残る「奈良県宇陀郡大宇陀町あたり」というのが定説になっている。私はこの地へ4度、行っている。その都度、芯から癒されて帰ってくる。大宇陀はそんな里である。

正月の2日に訪ねたことがある。「長山」という小高い丘は、中世には城が築かれ、ひょっとすると古代には人麻呂も立ったかも知れない地霊の地で、現在は「万葉の丘」という公園になっている。夏には多くの家族連れが赤ちゃんを遊ばせたりしていたものだったが、さすがに雪の正月、人影はない。

私は寒さに耐えながら、数日前に開かれたであろう「かぎろひを観る会」のことを考えた。軽皇子一行のこの日を持統六年の冬と考えた場合、この土地で東の野に「かぎろひ」が立ち、西の山に月が傾くタイミングは、太陽暦では692年12月31日になるのだという。年ごとに算出された「その日」になると、大勢の人々が集まって「かぎろひの立つ」瞬間を待つ。

「かぎろひ」は冷え込んだ冬晴れの日の出直前、太陽の光が山の端上空に描き出す特別の輝きのことらしい。写真で見ると、朝焼けというより深い紫色をした光の塊で、確かにその神々しさは恐ろしいほどである。ただ気温や天候に左右されるから、土地の人でもめったにお目にかかれないのだという。

それでも人々がやって来るのは、その一瞬に1000年の時空を超えて、古代と感応し合えると考えるからだろう。私が「いつの日か、その瞬間に立ち会いたい」と願い続けているのも同じ理由からだ。しかしその時期に限らず、宇陀は魅力的なのである。長山を下り、松山城の遺構という黒門を潜ると、福島、織田と続いた城下町は古い佇まいをたっぷり残して、細い街道沿いに小さな街を形成している。

「吉野葛」の看板に引かれて、古風な商店に入る。低い軒と格子窓というこの辺りに多い町家は、外観以上に天井が低く薄暗い。谷崎潤一郎が書くと、「いずれも表の構えは押し潰したように軒が垂れ、間口が狭いが、暖簾の向こうに中庭の樹立ちがちらついて、離れ家なぞのあるのもみえる」(『吉野葛』より)となる。

東征する神武軍が通過して行ったり、壬申に挙兵した大海人皇子の、吉野からの脱出ルートとなった宇陀路は、歴史と現実の区分がおぼろげな魔境だ。しかし阿紀神社の裏で、絵に描いたような茅葺の風情を見せていた農家は、屋根を葺き替えて風情も消した。丘の上の本堂が里の点描になっていた天益寺は、火事で焼けてしまった。大宇陀という町名も合併で宇陀市となった。人の世はどんどん変わる。「かぎろひ」だけがこれからも、時折り東天に現れて、人々の心を古代へとさらって行くのだろう。(1997.1.2)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 120 旭山(北海道)・・・童... | トップ | 122 世田谷(東京都)・・・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

奈良・和歌山」カテゴリの最新記事