今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

047 直江津(新潟県)・・・浜辺では安寿と厨子王入り日浴び

2007-06-06 01:45:56 | 新潟・長野

直江津と高田が合併して「上越市」となって、もう30年を経たという。しかし合併以前に故郷・新潟を離れた者にとっては、いまも旧市名の方に馴染みがある。その直江津は、私の母親が私を産む前に小学校の教壇に立っていた地である。禅に「父母未生以前の自己」という公案があるそうだが、私にとって直江津は、さしずめ「自己未生以前の故地」とでも呼ぶべき街である。そうした思いを相方に、出かけてみることにした。

越後国・新潟県は、日本海に沿って長大な海岸線が延びていて、そこをほぼ3等分して上越・中越・下越と呼び習わしてきた。その順は、京からの遠近の順であり、上越は高志の国・越後の玄関として国府・国分寺が置かれた。中世までは、このあたりが京文化の届く最遠の地だったのだろう、その先は蒲原を経て出羽、陸奥へ、大和にまつろわぬ人々の大地が広がっていた・・・。

そして現代、新幹線網から外れた上越は、東京から見るとひたすら遠い。ところが上越新幹線を越後湯沢で特急金沢行きに乗り継ぐと、東京駅から2時間10分ほどで直江津駅に到着した。「ほくほく線」が開通して、直江津は今や東京の日帰り圏なのだった。

駅と海の間が旧市街地だと聞き、歩いてみた。ゆっくり20分も歩くと海に出た。実に小さな市街地である。かつての国府の地は、この小さな商店街と、港とその周辺の工場群と、内陸に広がる頚城平野の米作りで構成される街に変わり、そして今は、その商店街のほとんどが郊外に出現したモールのテナントとなって旧市街地を出て行ったのである。

街の疲弊は、この国の地方を歩けば「当たり前」のことになっているが、直江津の閑古鳥は超特大であった。「国府」という地名が今も残るように、ここはかつての越後の府中なのだけれど、国府・国分寺の跡はいまはもう確認できないのだという。千年も経つと、当時の県庁の位置さえ行方不明となるのである。人々の賑わいが郊外のモールに移り、「直江津の繁華街ってどこにあったのだろう」などという会話が交わされることになっても、不思議ではないのである。

ごく幼いころ、親鸞の旧跡だという寺で塔を見上げていた、という記憶が幽かに残っている。母に連れられて来たことがあったらしい。その場に立てば、記憶はいくらか確たるものになるだろうかと、五智国分寺を訪ねてみた。観光ガイドマップによればそこは親鸞の配所であり、三重塔があるというのだ。

「加賀街道」という松の古木並木が続く通りを歩いて行くと、国府本願寺別院とか、越後一ノ宮「居多神社」などを経て、国分寺が現れた。上杉謙信が再建したもので、律令の時代とは違う場所らしい。江戸時代に建立されたという三重塔はすでに痛みが激しく、傾いているようだった。しばらく見上げていたのだが、私の遠い記憶は一向に「確」として来なかった。

上越市は今般の平成の大合併で、全国一の大規模合併を果たした。その新市域の中央を流れ、直江津で日本海に注ぐ関川の河口に「安寿と厨子王」の供養塔がある。中世の日本海を舞台にした悲しい伝承に、人々は今も深い思いを寄せるのか、手厚く花が手向けてあった。心優しい人々の暮らす街なのである。(2007.6.2-3)

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