萩に着いた。今回の旅(安芸―周防―石見―長州路)の最終目的地であり、私にとって長年の懸案の地・萩である。何が「懸案」であったかは私事にわたるから省くが、とにかく訪ねてみたかった土地なのである。目的は二つ、吉田松陰の事蹟を訪ねることと、萩焼を堪能することである。さっそく松下村塾が残る松陰神社に向かった。
この地から多くの維新の志士たちが輩出したことは、長州藩の置かれた時代状況によって説明が付き、特別のことではない。特別なのは、そうした人材の才能を引き出した教育者・松陰の存在である。内においては幕藩体制が疲弊し、外にあってはグローバリズムの強風が渦巻く時代に、松陰という、日本人離れした特異なカリスマがこの辺境に出現した。日本史にとって、そのことが決定的な意味を持ったのではないか。
拙論ながらこの私の考えに立てば、晋作さんも小五郎さんも、博文さんにしたところで、時代と状況が似れば日本のどこでもその程度の人物は出てくる、ということになる。しかし松陰はそうめったに現れる才能ではない、ということでもある。きっと松陰さんは、あまりに過激でエキセントリックな思想家で、私などの理解をはるかに超える存在なのだろう。
しかしだからといって、たかだか150年前に刑死した若者を、「祭神」として仰々しい社殿に祀り上げている感覚は、いかがなものか。松陰も「神様」になって、拍手を打ってもらいたいとは思っていないのではないか。松下村塾(写真・右)などとともに、別な形の静かな空間が維持されたら、長州人の聖地は、もっと訪ねる人の心に染みることだろう。
神社の裏山に登り、毛利家の菩提寺を経て松陰生誕地跡という丘に立つ。そして松陰が生まれながらに見ることになった萩城下の眺望(写真・上)を、飽かず眺めた。眼下には、城と武家町と町人町という萩城下が広がっている。封建社会の小宇宙が、手を伸ばせば掴み取れるような具合である。
「松陰の思想形成に、必ずやこの日常風景が影響を与えたに違いない」と、私は妙に確信したのだった。(2007.1.21)
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