今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

036 三次(広島県)・・・善き町は山の中でも川の街

2007-04-28 21:00:54 | 岡山・広島

見知らぬ土地に関心が湧くきっかけとは何だろう。私にとって広島県三次市は①「みよし」という読み方が珍しい②中国山地の深奥部にあって深い霧に包まれがちな街――というロマンチックな理由に始まって、③ワシントンからの帰りの機内で賑やかなおばさんと隣り合わせたことがあり、成田まで共に飲みながら話が弾んだのだが、そのおばさんが三次のお方だった、ということが決定的な要因となって、三次を「私がいつか訪ねてみたい街」リストに加えたのだった。

しかし三次は遠い。それからずいぶん時を経て、島根から広島に抜ける必要が生じたことを機に、コース途上の三次に宿を取ったのだった。そうやって訪ねた「備北・三次」。中国山地の標高は低く、三次を囲む山々は穏やかで空は広い。山の中というよりむしろ「水の街」といった趣きがある。中国地方一の大河・江の川がこの地で大きく方向を変え、日本海へと流れ下っていくのだが、そこに支流の馬洗川と西城川が合流する。三次はその3本の川に囲まれた、半島のような地形に築かれた街なのだ。

殺風景な街の散歩に飽きて、駅前の喫茶店に寄った。中年のマスターと、馴染み客らしいサラリーマン風の男が一人。店の名と同じインドネシア産豆のコーヒーを注文し、「この街はどんな街なのですか」といきなり尋ねてみた。二人はぎょっとして私を見詰め、「どんなといわれても・・・」と戸惑っている。「三次をなぜミヨシと読ませるのでしょう」とたたみかけると、「よく分からない」と口ごもる。

それでもマスターは、店の奥から写真集や郷土史のパンフレット類を山のように抱えて来て、「昔はこんなに賑わっていたのですが」「出雲風土記に三次とあるらしいけれど」などと説明してくれる。ミヨシが三好や三吉でなく、なぜ三次と表記されたかは、今も決定的な説はないらしい。

霧は秋から冬にかけて多く出るということで、翌朝もそうしたロマンチックな風情にはお目にかかれなかった。それでも川を渡って半島状の旧市街に行くと、「うだつの似合う街」という幟が飾られ、古い町並みの整備が著に付いたところのようだった。

尾関山という公園があった。小高い丘陵で、街をよく俯瞰できた。髷姿のお姫様の像が建っていた。三次浅野家から赤穂の浅野内匠頭長矩に嫁いだ阿久利姫の像かもしれなかったが、いささか異様なお姿のため近付き難かった。松の廊下事件で寡婦となり、瑤泉院として名を残した数奇な運命の姫である。秀吉は寵臣浅野長政の3子に広島、赤穂、三次を与えたが、赤穂浅野は改易となり、三次浅野も5代で断絶した。

三次は以後、広島藩に併合され、日本海と瀬戸内を繋ぐ物資集積の地として発展した。昭和47年ごろまでは牛市で賑わったそうで、私が知り合ったおばさんの家業は材木商ということだった。米国へは組合の視察旅行ということで、ビジネスネスクラスに座っておいでだったから、羽振りは悪くなかったのだろう。いまもご健在か、知る術はなかった。

尾関山は中国地方有数の桜の名所らしいが、すでに盛りは過ぎ、名残りの花びらが川風に舞っていた。「三次満開。」と大書されたポスターは色あせ始め、丘を下るまで、誰一人見かけることがなかった。(2007.4.20-21)

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