私は和歌山県田辺市本宮町本宮の熊野川右岸堤防上にいる。正面には熊野本宮大社が鎮座する丘が望まれ、左の森は旧社地の大斎原(おおゆのはら)である。中央に聳える大鳥居は高さが34メートルもあるそうだが、25年前に訪れた時はまだなく、翌年の建造だ。当時ここは本宮町といったが、現在は合併して田辺市に含まれる。そして遥かに望む北方の峰々は、熊野川が発する吉野の大山塊だ。十津川村から奥吉野へ続く、山また山の世界である。
大斎原は本宮大社の旧社地で、熊野川に二つの支流が合流する中洲に、熊野十二所権現を祀る神殿が並ぶ広大な神域であった。近世まではこの中洲に架かる橋はなく、参詣者は歩いて川を渡って参拝したのだという。そのことが禊であったのだろう、列を作って詣でる人々の神妙な姿が浮かぶ。しかし1889年(明治22年)の水害で神域の多くは流され、かろうじて流失を免れた4社は、500メートルほど北の丘の、現在の社地に遷座した。
25年前に訪れた際は、晩秋の早朝だったせいか、大斎原は川霧が低く垂れ込め、経験したことがない、日常とは別世界に迷い込んだような感覚に襲われたものだった。それは実に清々しい、心地よいひとときであった。「それこそが熊野の神に抱かれた証しだ」などと言えばいかにもらしいけれど、私にそうした素直さはない。今回は大鳥居を潜り、きれいに整備された旧社地を歩いたが、前回感じた感覚は甦えらなかった。ひたすら暑かったのである。
熊野の神々は、もともとはそれぞれが独立して発生した地域土俗的信仰の対象で、「中央」の権威がランク付けする神社の番付表では、社格はさほど高いものではなかった。それが平安貴族らの間で「熊野」に対する神秘的憧憬が強まり、「蟻の熊野詣」という現象を生むと様相が変わってくる。憧憬を生んだのは浄土思想の広がりと無縁ではなく、日本神話における熊野の「死」のイメージと、奥深い僻遠の地という条件が重なってのことだろう。
熊野神は唐の天台山から九州の英彦(ひこ)山、伊予の石鎚峯を経て淡路、紀伊と渡って新宮の神蔵峯に降臨したという、きらびやかな伝承も整えられた。熊野に突然、大ブームが起きたのである。注目すべきは人々の視線が海には向かわず、常に山に向けられていたことだ。果てしない海の先は補陀楽の浄土である。浄土は死地である。蟻の如く連なって熊野を目指した人々は、死を求めたのではない。現世での平穏(利益)を強く願ったのである。
奈良県橿原市と和歌山県新宮市を結ぶ、日本一長いバス路線がある。奈良交通の「八木新宮特急バス」で、平日は1日3本が7時間ほどかけ、170キロ、168停留所を行き来している。このバスを利用して途中下車し、2時間後にやってくる次のバスで次の目的地に向かうというのが今回の旅である。新宮駅前からこの日の第2便に乗車、熊野川を遡る。乗客は私一人だったのだが、途中の湯ノ峰温泉で大勢の外国人が乗り込んで賑やかになった。
海外勢はスペインからの旅行客だ。学生時代にスペイン語をかじったものだから、会話は無理だが聞けばそれだとは判る。田辺市とサンティアゴ・デ・コンポステーラ市は「観光交流協定」を結んでいて、スペインの「サンティアゴ巡礼の道」と「熊野古道」は「姉妹道」なのだという。その縁で日本にやってきた旅行客なのだろう、本宮でも参拝する一行に出会う。ユーラシア大陸の西端から東端へ、時空を超えて人の心が結ばれていく。(2023.7.18)
大斎原は本宮大社の旧社地で、熊野川に二つの支流が合流する中洲に、熊野十二所権現を祀る神殿が並ぶ広大な神域であった。近世まではこの中洲に架かる橋はなく、参詣者は歩いて川を渡って参拝したのだという。そのことが禊であったのだろう、列を作って詣でる人々の神妙な姿が浮かぶ。しかし1889年(明治22年)の水害で神域の多くは流され、かろうじて流失を免れた4社は、500メートルほど北の丘の、現在の社地に遷座した。
25年前に訪れた際は、晩秋の早朝だったせいか、大斎原は川霧が低く垂れ込め、経験したことがない、日常とは別世界に迷い込んだような感覚に襲われたものだった。それは実に清々しい、心地よいひとときであった。「それこそが熊野の神に抱かれた証しだ」などと言えばいかにもらしいけれど、私にそうした素直さはない。今回は大鳥居を潜り、きれいに整備された旧社地を歩いたが、前回感じた感覚は甦えらなかった。ひたすら暑かったのである。
熊野の神々は、もともとはそれぞれが独立して発生した地域土俗的信仰の対象で、「中央」の権威がランク付けする神社の番付表では、社格はさほど高いものではなかった。それが平安貴族らの間で「熊野」に対する神秘的憧憬が強まり、「蟻の熊野詣」という現象を生むと様相が変わってくる。憧憬を生んだのは浄土思想の広がりと無縁ではなく、日本神話における熊野の「死」のイメージと、奥深い僻遠の地という条件が重なってのことだろう。
熊野神は唐の天台山から九州の英彦(ひこ)山、伊予の石鎚峯を経て淡路、紀伊と渡って新宮の神蔵峯に降臨したという、きらびやかな伝承も整えられた。熊野に突然、大ブームが起きたのである。注目すべきは人々の視線が海には向かわず、常に山に向けられていたことだ。果てしない海の先は補陀楽の浄土である。浄土は死地である。蟻の如く連なって熊野を目指した人々は、死を求めたのではない。現世での平穏(利益)を強く願ったのである。
奈良県橿原市と和歌山県新宮市を結ぶ、日本一長いバス路線がある。奈良交通の「八木新宮特急バス」で、平日は1日3本が7時間ほどかけ、170キロ、168停留所を行き来している。このバスを利用して途中下車し、2時間後にやってくる次のバスで次の目的地に向かうというのが今回の旅である。新宮駅前からこの日の第2便に乗車、熊野川を遡る。乗客は私一人だったのだが、途中の湯ノ峰温泉で大勢の外国人が乗り込んで賑やかになった。
海外勢はスペインからの旅行客だ。学生時代にスペイン語をかじったものだから、会話は無理だが聞けばそれだとは判る。田辺市とサンティアゴ・デ・コンポステーラ市は「観光交流協定」を結んでいて、スペインの「サンティアゴ巡礼の道」と「熊野古道」は「姉妹道」なのだという。その縁で日本にやってきた旅行客なのだろう、本宮でも参拝する一行に出会う。ユーラシア大陸の西端から東端へ、時空を超えて人の心が結ばれていく。(2023.7.18)
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