福島市のランドマークといえば、何と言っても信夫山であろう。新幹線で福島以北に向かう時、駅を通過した途端に短いトンネルに入る、あの山である。盆地の中央にぽっこり盛り上がった標高275メートルの独立丘だ。500万年前ころの隆起で陸地化した盆地が、50万年前に現在の水準まで陥没、その際取り残された「残丘」が信夫山なのだという。太古の地殻変動は、福島市民に珍しくも貴重な孤立丘をプレゼントしてくれたのだ。 . . . 本文を読む
写真の裏に「飯坂温泉 昭和28年11月22、23日」と書いてある。母のアルバムに残っている1枚だ。右手前の生意気そうなチビが私で、母と兄が一緒だ。右奥の女性は母の同僚なのだろう、勤務先の職員旅行に兄と私も連れられて、新潟市から温泉郷に到着したところである。1953年の秋だから私は小学1年生、兄は4年生、母は30代半ばを超えたころだ。今回、福島市を訪れた折に飯坂まで行ってみた。実に63年ぶりになる。 . . . 本文を読む
霞城(山形城)公園で、校外授業の小学生の一団に出会った。県立博物館を出てきたから、私が憧れてやまない「縄文の女神」に会ってきたのかもしれない。赤白帽子を赤に統一しての行進は、ここが山形であることを思うと、まるで紅花が可愛い笑顔を弾けさせながらやって来るようである。山形市には何度か来たことがあるのだけれど、いつも仕事がらみだったから街をのんびり散策したことがない。だから今度はブラブラ歩いている。
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蝉の季節はとっくに過ぎたが、山寺・立石寺は静かであった。それでも観光客がそぞろ歩いているし、土産物店が暇を持て余しながらも並んでいるから、芭蕉のころのように「佳景寂寞として心すみ行く」というほどではないけれど、まずは清閑である。そこで一句ひねろうかと心を鎮めた所に、猛烈な轟音を響かせて列車が鉄橋を渡って来た。JR仙山線である。文学的環境破壊も甚だしいが、静かに渡れと言われても運転士は困るであろう。 . . . 本文を読む
山形方面に行く機会があったら、金山町を訪ねてみたいと思いつつ15年が過ぎてしまった。なぜそう考え続けて来たか、記憶はすでに曖昧であるけれど、この街が特産の杉材を使った金山式住宅を復活させ、街興しに成功して何かの賞に選ばれたことがきっかけだ。応募書類を読んで「あぁ、行ってみたい」と思ったのだから、選考に私も加わっていたのかもしれない。15年前に想像した通り、杉材と白壁の家並が美しい清潔な街だった。 . . . 本文を読む
「なこそ」という言葉を耳にすれば、誰もが「関」と続けるだろう。そして「吹く風を勿来の関と思へども・・」と、源義家の歌を口ずさむ人もいるかもしれない。それほど人口に膾炙しているにもかかわらず、関の実体は茫漠として、いまだ歴史の焦点が定まっていないらしい。ひょっとしたら古代の都人が、遠い異境を歌意に含ませるために、共有言語として仕立て上げた歌枕なのかもしれない。吹く風の如く、目には見えない地・・。 . . . 本文を読む
会津若松のことを書こうとして、筆が進まない。東北の雄藩であって白虎隊の悲劇の地、優れた伝統工芸とそれにふさわしい街並みといった、語ることはいくらでもあるはずの街にも関わらず、である。この街には、他国者が簡単に分かったような気分になることを拒むところがあるのではないか。そんな気がする私は、だから安易に感情移入してはいけないと身構えているらしい。なるほど、その印象こそが会津若松なのだろうか。 . . . 本文を読む
地球規模で俯瞰すれば、日本列島など取るに足りない面積ではあるけれど、その列島に暮らす身にとっては広大過ぎてつかみ切れない地域がある。奥飛騨や紀伊山地とともに、私にとってそうした特別なエリアの一つが南会津、あるいは奥会津と呼ばれるあたりなのだ。浜通り・中通り・会津と、地域を三つに大別する福島県にあって、奥会津は関東から見れば日光や尾瀬の奥、越後からは雪を戴く山脈の向こう側になる。どんな世界なのか? . . . 本文を読む
喜多方を思い出している。会津の「北方(きたかた)」にあって、磐梯山の西麓を北上する米沢街道に営まれた宿場町である。訪ねたのがいつだったか、思い出せなくなってしまうほどの時間が経過したが、福島原発の事故で故郷を追われた人たちの、避難所の一つになっているとの話から、静かな蔵の街の佇まいが思い出されたのである。太平洋と日本海からほぼ等距離の、つまり本州の最も奥深いあたりに、人々の寄り添う暮らしがあった。 . . . 本文を読む
「歩くのは無理だべ」という土地人の警告を無視して駅に向かうことにしたのだが、カリンの果樹園が点在する原は雪に埋もれ、風を遮る何物もない道が一本、延びているだけだ。たまに通りかかる車は、妖しげな雪だるま状態の私を避けるように走り去って行く。横殴りの雪がしだいに厳しくなっていささか心細い。鎮守の森らしい樹叢が近づいて来たが、雪宿りするにも通じる道が埋もれている。山形県は東置賜郡の高畠町で、私は独りだ . . . 本文を読む
「シャッター通り」などという寂しい言い回しは、いつから使われるようになったのだろう。商店街、それも長く地域の中心繁華街として賑わって来た通りに、シャッターを閉じたままの空き店舗が次々と増えて行く。全国にそんな例が珍しくなくなるにつれ、この言葉が定着した。私がその現象を、統計データによって確認させられた街が米沢だった。繁華街で18年間に渡って続けられた通行量調査の、衝撃的な数字を見せられたのだ。
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ようやく梅がほころび始めた季節の平日の昼下がり、初めての街・いわきを歩く。旧平市街と言ったら判りがいいか、城跡らしき高台をぐるりと回ってJRいわき駅構内を抜け、市街地に出る。まっすぐ南へ広い道が延びていて、その周辺が繁華街であり官庁街らしい。程なく行き当たる流れを新川といい、東の夏井川とともに城下を守る濠のような構造である。城下町から地方都市へ、実にわかり良い構造の街である。
福島の人々は、県 . . . 本文を読む
「しおやざき」という響きが、微かな記憶を連れてきた。人里遠く断崖に立つ灯台が、暴風雨に曝されている。その灯火を守ろうと、懸命に手を取り合う灯台守夫婦。「頑張って!」と声に出しそうになりながら、私は小さな握りこぶしに力を込める――。小学生のころ、学校の映画鑑賞会で観た映画の、ほとんど擦り切れた思い出である。その塩屋崎が福島県いわき市に所在することは、記憶から完全に抜け落ちていた。
大雑把に日本地 . . . 本文を読む
庄内平野は北を鳥海山(2236m)に、東から南は月山(1984m)をはじめとした出羽三山に囲まれている。そして西は日本海に縁取られ、好もしい広さである。太古、定住の地を求めて野越え山越え、南方よりやって来た集団は、稜線を越えて眺めた光景に「*☆#дЭ!」と歓声を上げたことだろう。現代語訳すれば「ついに見つけた!」という意味である。
明治初期に日本にやってきた英国婦人、イザベラ・バードが「まるで . . . 本文を読む
「鶴の舞う岡」なのだろうか、山形県鶴岡市は、地名そのものの響きがいい。広大な庄内平野に入り、遠く鳥海山を望む原を行くと、確かに鶴舞う姿が似合いそうな晴れ晴れとした風景が広がった。「鶴ヶ岡城跡」という公園に着いたのは、日曜日の昼下がりだった。市役所に駐車し、歩いてみる。休日のお役所街は閑散としているものだが、それにしても人の気配が無い。
内川という川を渡ると間もなく、「銀座通り」というアーケード . . . 本文を読む