南海電車に乗って難波から約30分で河内長野に到着し、駅からバスで20分くらい走った山中に観心寺がある。
楠木正成の銅像を見ながら山門を入ると、すぐ東側に堀に囲まれた敷地があり、第97代天皇であった後村上天皇御旧跡の石碑が建っている。
後醍醐天皇の第9皇子であった後村上天皇(1328~1368年)は、1359年南朝2代目の天皇としてこの地に約10か月滞在し政務を見ているので、この寺は一時皇居であったのである。
後村上天皇は、1368年に住吉大社で崩御されたが、ゆかりの深い観心寺に運ばれて金堂の東側の山中に埋葬されたので、観心寺の境内には宮内庁が管理する御陵(後村上天皇檜尾陵)がある。
後村上天皇御旧跡の参道をはさんだ向かい側には、中院門と楠木正成ゆかりの寺院である中院があり、ここは楠木家の菩提寺であるという。
観心寺の寺伝の中に、「正成八歳の時より来寓し、院生滝覚坊につき文学を修め、院を距る一里余なる加賀田の郷士大江時親に兵法、武芸を学び、日々通勤して十五歳に至れり」とあり、この観心寺で修行したことを伝えている。
金堂に至る石段の途中には、後村上天皇の勅願によって楠木正成の嫡男、正行が奉行として再建した訶梨帝母天堂(鎮守堂ともいう重要文化財)があった。
石段を登り詰めた場所には、大阪府下では最古の建築物という「金堂」(国宝)がある。
金堂は、後醍醐天皇が建武の中興のなった1334年、楠木正成を奉行として造営の勅を出し、南北朝時代(1346~1370年)に完成したと考えられている。
江戸初期の1613年、1665年、明治以降も1898年、1929年、1984年と幾度も修理が行われているためか、今でもしっかりとした建物である。
1613年の金堂修理の棟札が今も宝物館に展示されているが、奉行「片桐且元」とはっきりと読むことができた。
金堂の東側にある後村上天皇御陵までの山道を登ってみたら、かなり急な石段が延々と続いている。
20分くらい歩いてやっと山の中腹にある御陵に到着することができたが、南朝の天皇であったためにおそらく明治以降に整備されたのではなかろうか。
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