万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

ルソーが警告するNPTのリスク

2024年06月25日 09時58分56秒 | 統治制度論
 NPTには、核戦争の回避という人類共通の願いが込められています。核戦争は人類滅亡をももたらしかねませんので、同条約が高らかに掲げる核戦争回避の目的に対しては異を唱える人はほとんどいないことでしょう。実際に、全世界の大多数の諸国が同目的に賛同し、NPTの締約国となりました。しかしながら、目的が正しくとも、必ずしも、手段も正しいとは限りません。少なくともNPTに関しては、深刻なる逆効果が見られますので、1967年1月1日までに核実験に成功した締約国のみに核兵器の保有を認め、他の諸国には一切これを禁じるとする手法が適切であったのか、今一度、考えてみる必要がありましょう。それでは、何故、逆効果が起きてしまうのでしょうか。

この問題を考えるに当たって、興味深い見解があります。それは、1761年に出版された『社会契約論』に記されているジャン・ジャック・ルソーによる以下の考察です。

「社会が平和であり、調和が維持されるためには、すべての市民が例外なしに、ひとしくよきキリスト教徒であることを必要とするだろう。」

この文章にあって、ルソーは、社会における平和と調和の必要条件として、全構成員の善良性を挙げています。いわば、性善説が通用する世界を成立条件としているのであり、それは、人類の理想郷でもありましょう。この必要条件をNPTに当てはめますと、全世界の諸国が等しく国際法を誠実に遵守し、相互に友好と平和の実現に務める善き国家であることとなります。

 しかしながら、その一方で、同条件の成立が表層的なものに過ぎない場合のリスクをもルソーは指摘しています。

「しかし、もし不幸にして社会に一人でも野心家があり、一人でも偽善者があるとしたら、・・・このような人物が信心深い同国人を押さえてしまうことは、きわめて確実だ。」

この一文は、善良な人々の中に‘隠れ性悪者’が紛れていた場合には、上記の前提が崩れ、他の人々は、この人物に支配されてしまうリスクを述べています。NPTに照らしますと、拡張主義的な‘野心国’は、ロシアや中国、あるいは、イスラエル、北朝鮮、イランといった核保有国が当て嵌まりますし、アメリカ、イギリス、フランスは、後者の‘偽善国’であるかもしれません。次いでルソーは、こうも語っています。

「キリスト教の愛は、隣人を悪しざまに考えることを容易に許さない。・・・簒奪者を追い出すことは良心がとがめることだろう。・・・」

 これらの文章は、ルソーが「市民の宗教」について述べた章の一部ですので、キリスト教が主たるテーマとはなっているのですが、NPTもまた、‘全世界の非核化’や‘核なき世界’は、一種の信仰と化しています。すなわち、悲惨なる核戦争の回避という大義が、人類の共通善の実現を目指す絶対教理と化したからこそ、NPTは、客観的な検証や見直しに付されることなく、また、同条約のみならず核兵器禁止条約の成立までもが目標とされることとなったのでしょう。NPTへの懐疑を言い出すことは、ルソーが述べたように、一般の人々にとって良心がとがめることでもあったのです。

 この結果は、言わずもがな、核兵器を保有する野心国や偽善国による非核兵器国に対する横暴が生じ、非核兵器国の善意はむしろ自らをこれらの諸国の頸木の下に置き、かつ、安全も脅かされるという予測外のものとなりました。そもそも法とは、‘悪人’の存在を前提としているものですし、性善説を前提として制度設計しますと、一人でも‘悪人’が出現した途端に崩壊してしまうシステムもあるものです。

 ルソーの一文は、18世紀の記述でありながら、人類の善性に潜む悪用リスクを的確に分析している故に、今日の人類に警告を与えていると言えましょう。現実の国際社会には、‘野心国’も‘偽善国’も存在し、かつ、それらの背景には世界権力が潜んでいるのですから。むしろ、NPT体制の成立を積極的に推進した諸国こそ、これらの核保有諸国でもありました。NPT体制とは、一部の軍事大国や粗暴な国家による核の独占を許し、世界支配の装置として機能しているという深刻な現実から目を背けてはならないと思うのです。

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