万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

マルクスが語った‘宗教は麻薬’のパラドクス

2024年06月11日 09時40分26秒 | 統治制度論
 中国は、今日、習近平国家主席の‘指導’の下で、国民に対して習近平思想の徹底を試みています。国家が国民の内面に踏み入り、その思想まで強要する体制は、国家イデオロギーを定める共産主義国家の特徴の一つでもあります。そして、習近平思想にあっても、過去の5つの思想、即ち、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、三つの代表、科学的発展を基礎としながらも、19世紀にカール・マルクスが唱えた共産主義を出発点としていることは疑いようもありません。

 ‘唯一思想’を国定する一方で、中国は、1949年10月10日の建国以来、宗教に対しては弾圧の姿勢で臨んできました。その主たる理由としてしばしば挙げられるのが、マルクスが残した‘宗教は麻薬(アヘン)’であるとする言葉です(その他にも、宗教弾圧の動機は多々ある・・・)。麻薬とは、人々の正常な判断力を狂わせる一方で、人々を安逸で夢見心地の境地に誘います。最期には、廃人と呼ばれた状態に至りますので、麻薬は、厳重に取り締まるべき対象と見なされてきたのです。その麻薬に共産主義の祖であるマルクスが宗教に擬えたのですから、共産主義者が宗教を嫌悪したのも理解に難くはありません。屈辱として歴史に刻まれたアヘン戦争を経験した中国であれば、なおさらのことでしょう。

 それでは、マルクスは、何故、‘宗教はアヘン’と断じたのでしょうか。その意味内容については、『ヘーゲル法哲学批判序説』において述べられています。宗教とは、現実において悲惨な状況に置かれている人々が、その苦しみから一時でも逃れるために天国を空想し、自己陶酔に浸る現実逃避に過ぎないとしているのです。言い換えますと、天国であれ、極楽であれ、精神的な逃避先である宗教がある限り、人々は、不条理に虐げられている現実を直視せず、その改善を求めようとしないのであるから、宗教は、麻薬と同様に存在しない方が良い、という主張なのです。

 宗教の役割を現実逃避のみに矮小化して理解している点については問題があるのですが、宗教が貧しき人々や弱き人々の心の支えとなってきたことは確かなことですので、マルクスの主張には一理はあるのでしょう。しかしながら、同主張は、宗教の全面的な廃止やチベットやウイグルで見られるような虐殺をも伴うような宗教弾圧を正当化できるのでしょうか。

 マルクスは、宗教弾圧の正当性を理論武装したようにも見えますが、よく考えても見ますと、マルクスの論理に従えば、中国共産党は、むしろ宗教を弾圧し得ない立場に置かれていることが分かります。何故ならば、革命によって共産主義体制が樹立されれば、旧体制が与えてきた、あらゆる抑圧や搾取から人々が解放され、現世にあって天国の如き理想郷が出現しているはずであるからです。現世が天国や極楽であれば、宗教にすがる人々は皆無となり、同時に、共産党が宗教を弾圧する必要も消滅するはずなのです。言い換えますと、中国共産党による宗教弾圧は、むしろ、‘この世の楽園’を約束した共産主義者の‘プロパガンダ’には偽りがあり、共産主義体制が、旧体制と変わらない、あるいは、それ以上に、国民にとっては過酷な体制であることを自らの行動で示すこととなるのです。理論上、必要がないはずのことを行なっているのですから。

 マルクス思想に不動の地位を与えている中国共産党は、マルクスの著作に遡れば遡るほどにその欺瞞性が明らかとなり、自らの墓穴を掘ることとなりましょう。そして、マルクス主義への強固な依存は、中国の自壊を招く一党独裁体制のアキレス腱ともなるかもしれないと思うのです。

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