万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

社会の‘地雷’としての新興宗教団体

2024年06月07日 11時43分44秒 | 日本政治
 戦争にあっては、地雷という恐ろしい兵器があります。同兵器は、地中に爆発物が仕掛けられているために、埋設された場所を踏んでしまいますと、身体に損傷を受けてしまいます。地雷の恐ろしさの根源は、表面からでは分からない、あるいは、視覚、聴覚、臭覚といった感覚では感知し得ない危険性にあるとも言えましょう。今では非人道的な兵器として地雷禁止条約も制定されているのですが、地雷型の恐怖は、戦場のみならず社会にも存在するように思えます。

 新興宗教団体も、人々に地雷型恐怖を与える一つです。何故ならば、信仰心とは、基本的には個人の内面にあるからです。言い換えますと、他者は内面を知ることはできませんので、その人の外観だけでは信者であるのか否かを知ることは不可能なのです。しかも、新興宗教団体の特徴の一つは、その閉鎖性と秘密主義にありますので、信者の人々も、積極的に自らが入信していることを周囲に明かそうとはしません。このため、知らぬ間に新興宗教団体の信者の知人やお友達になったり、ビジネスや取引の相手となることもあり得るのです。事前に表面からは判別することが出来ないという側面が、地雷と共通しているのです。

 もっとも、‘地雷’という表現がそもそも物騒ですし、危険物のイメージは、新興宗教団体に対する差別として批判する声もあるかも知れません。しかしながら、元統一教会の詐欺まがいの霊感商法の危険性はよく知られていますし、創価学会が‘総体革命’という日本国の民主主義体制の転覆を謀る計画を温めていたことも事実です。新興宗教団体の危険性を象徴するのがオウム事件であり、テロによる国権の簒奪が試みられているのです。同事件に際しては、破壊活動防止法の適用や内乱罪による処罰も検討されました。仮に、こうした新興宗教団体の理想が実現した暁には、現行の日本国憲法が廃止され、全体主義的神政政治への体制転換が起きるのですから、非信者の一般の国民にとりましては、危険極まりない存在なのです。

 そして、新興宗教団体が危険である理由は、まさにこの‘団体’としての活動性にあります。解脱を目指すインドのバラモンの修業僧などは別としても、宗教や宗派の大半は、信仰の対象とする多数の信者が存在してこそ成立します。つまり、宗教は、得てして教団化、即ち、組織化を伴うのです。そして、何れの団体にもそれ独自の教義に基づく‘世界観’がありますので、これを実現しようとすれば、必然的に政治活動を行なわざるを得ないのです。信教宗教団体の場合、教団の組織形態として教祖をトップとする独裁体制が確立していますので、同教団の世界観に基づく国家体制が現実のものとなれば、国民の基本的自由や権利が制限される、宗教的権威が君臨する全体主義体制に移行することが当然に予測されるのです(独裁的な体制への指向性こそ、世界権力が新興宗教団体のバックに潜んでいる可能性を強く示唆している・・・)。

 このため、憲法にあっては、個人の自由と宗教団体の自由とは別次元として扱っています。実際に、日本国憲法の第20条1項でも、両者を明確に区別しています。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とあり、個人に対しては信仰の自由を基本的自由の一つとして厚く保障する一方で、団体に対してはその自由、特に政治的自由を厳しく制限し、特権の享受や政治権力の行使を禁止しているのです(政教分離の原則)。この区別に鑑みますと、例えば、公明党という政党を結成し、政権与党として政治権力を行使している創価学会は、明白に憲法に違反した存在と言わざるを得ませんし、元統一教会も与党自民党を介して政治に介入していますので、憲法に違反していると言えましょう。

 新興宗教団体が、その独善的で特異な宗教上の理想の実現のために、国家体制の転覆や権力の私物化を実際に行なっている以上、その存在が一般国民によって危険と認識されるのは当然のことです。‘地雷’という表現は、この危険がどこに潜んでいるか分からず、気がつかずに地雷を踏むと自らに危害が及びかねない状況を表しています。戦争と同様に、‘地雷’は限られた戦場のみならず広い範囲に埋められており、このため、一般の非信者の人々が、知らぬまに憲法違反の行為を行なう団体の協力者となったり、目的達成のために利用されたり、あるいは、身近で監視されることもあり得るのですから。否、自らの目的とって利用価値があるからこそ、非信者にアプローチしてくるとも言えましょう。

 新興宗教団体に属する信者の人々は、多くの非信者が抱いている上記の警戒心や恐怖心を理解しているのでしょうか。あるいは、‘アレルギー’とも称される一般的な忌避反応があるからこそ、信者の人々は、自らが教団の一員であることを隠そうとするのかも知れません。そして、それは、信者の人々が自らの内にのみ仲間意識を持ち、一般常識や外部情報との遮断性を伴う閉鎖性を強める要因であるとも言えましょう。新興宗教団体の問題は、その信者の個人的な信仰の問題ではなく団体の問題ですので、現実の政治に団体として介入している以上、地雷型の危険への対処を必要としていると言えましょう。社会的には、信者の人々は、社会的マナーとしても団体の構成員であることを明らかにすべきですし、宗教法人については、少なくとも照会があったときには、信者の所属については開示することを法的にも義務付けるべきではないかと思うのです。

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