NY周辺爆発事件、「テロ行為」として捜査=米司法長官
ニューヨークで発生した爆破事件は、過激派テロ組織との関係は確認されていないものの、アフガニスタン系米国籍イスラム教徒であるアハメド・カーン・ラハミ容疑者による犯行とされています。リンチ米司法長官も、テロ行為として捜査を進めていますが、宗教が絡む事件については、まずはその教義の理解が必要です。
イスラム教徒は、ユダヤ教、並びに、キリスト教と同様に『旧約聖書』をベースとした宗教ですが、幾つかの点において著しい違いがあります。イスラム教の権威の源泉がモーゼ以前のアブラハムに求めらられていること、三位一体説を否定していること、そして『旧約聖書』の記述に異同があること(何らかの外伝を元にしたのでは)…などの相違が見受けられます。そして、今日の移民問題を考えるに際して重要となるのは、信者の居住地に関する認識の相違です。
『旧約聖書』には、ユダヤ教徒が”約束の地”であるカナンに辿りつき、国家を建設するまでの苦難に満ちた歴史が刻まれています。この意味において、ユダヤ教徒には”約束の地”に対する強い執着心があり、第二次世界大戦後においては、ディアスポラ以来、およそ2000年近くに亘って消えることなく灯されてきた執念が、イスラエルの建国(再建)を実現させました。その一方で、イスラム教の土地に対する認識は、ユダヤ教とは全く逆です。イスラム教では、自らが生まれ育った土地への愛着心はむしろ望ましくなく、信者に対して積極的な移住を勧めているのです。例えば、『コーラン』の女人の章の第100節には、「神の道のために移住する者は、地上に幾らでも土地を見出すだろう。…」とあり、また、戦利品の章の第74節には、「信仰に入り、移住し、神の道のために戦った人々、避難所を与えて援助した人々、この人たちこそ真の信者である。彼らのためには、お赦しと貴重な賜物がある。」と記されています。こうした教えは、信者の兵士達に征服地を与えることで勢力を拡大させたイスラムの歴史と共に、移住に対するイスラム教徒の肯定的な認識をも説明しているのです。
イスラム教徒が、宗教的勢力拡大を伴う移住は神の御心に沿うものであると考えている限り、受け入れ国において、イスラム教徒と非イスラム教徒との間に社会的摩擦が生じることは避け難くなります(イスラム教徒の政教一致の容認により政治的摩擦に発展する可能性さえある…)。こうした信仰から発する問題は、内面の問題である故に外部から解決することは難しく、イスラム教徒自身が、自らが信じる教義が抱える問題を深く自覚し、非イスラム教徒の懸念を理解すると共に、今日の国際社会における相互尊重-他の国、民族、国民、宗教…の尊重-の原則との整合性を図るべく、真摯に努力すべきではないかと思うのです。
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ニューヨークで発生した爆破事件は、過激派テロ組織との関係は確認されていないものの、アフガニスタン系米国籍イスラム教徒であるアハメド・カーン・ラハミ容疑者による犯行とされています。リンチ米司法長官も、テロ行為として捜査を進めていますが、宗教が絡む事件については、まずはその教義の理解が必要です。
イスラム教徒は、ユダヤ教、並びに、キリスト教と同様に『旧約聖書』をベースとした宗教ですが、幾つかの点において著しい違いがあります。イスラム教の権威の源泉がモーゼ以前のアブラハムに求めらられていること、三位一体説を否定していること、そして『旧約聖書』の記述に異同があること(何らかの外伝を元にしたのでは)…などの相違が見受けられます。そして、今日の移民問題を考えるに際して重要となるのは、信者の居住地に関する認識の相違です。
『旧約聖書』には、ユダヤ教徒が”約束の地”であるカナンに辿りつき、国家を建設するまでの苦難に満ちた歴史が刻まれています。この意味において、ユダヤ教徒には”約束の地”に対する強い執着心があり、第二次世界大戦後においては、ディアスポラ以来、およそ2000年近くに亘って消えることなく灯されてきた執念が、イスラエルの建国(再建)を実現させました。その一方で、イスラム教の土地に対する認識は、ユダヤ教とは全く逆です。イスラム教では、自らが生まれ育った土地への愛着心はむしろ望ましくなく、信者に対して積極的な移住を勧めているのです。例えば、『コーラン』の女人の章の第100節には、「神の道のために移住する者は、地上に幾らでも土地を見出すだろう。…」とあり、また、戦利品の章の第74節には、「信仰に入り、移住し、神の道のために戦った人々、避難所を与えて援助した人々、この人たちこそ真の信者である。彼らのためには、お赦しと貴重な賜物がある。」と記されています。こうした教えは、信者の兵士達に征服地を与えることで勢力を拡大させたイスラムの歴史と共に、移住に対するイスラム教徒の肯定的な認識をも説明しているのです。
イスラム教徒が、宗教的勢力拡大を伴う移住は神の御心に沿うものであると考えている限り、受け入れ国において、イスラム教徒と非イスラム教徒との間に社会的摩擦が生じることは避け難くなります(イスラム教徒の政教一致の容認により政治的摩擦に発展する可能性さえある…)。こうした信仰から発する問題は、内面の問題である故に外部から解決することは難しく、イスラム教徒自身が、自らが信じる教義が抱える問題を深く自覚し、非イスラム教徒の懸念を理解すると共に、今日の国際社会における相互尊重-他の国、民族、国民、宗教…の尊重-の原則との整合性を図るべく、真摯に努力すべきではないかと思うのです。
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本記事が、横浜さまのお役に立てましたこと、大変、うれしく思います。人類の多様性に起因する問題は、一方に対してのみ、寛容や受忍を求めるのでは、根本的には解決しないのではないかと考えております。
共産主義では宗教は魔物...人々に害を与える麻薬、として禁止。資本主義では貧しさの逃避薬として大いに活用..実に嘆かわしい限りである。
イスラム社会が宗教を教義として民衆の心の支えならば許されるのだが...日本でも諸外国と同じような出来事を起こすならば実に困った事です。
人々の信仰と宗教は別物では?歴史はその事を何度も示している気がします。
信仰とは個々の人々が内面的に持ち人から影響を受けないもの、宗教とは個人離れたの集団の圧力で闘争力を目的とする。
チョット極端でしょうか..?
宗教とは申しましても、多神教や一神教の相違に限らず、その教義も様々ですので、定義づけは難しいのですが、少なくとも、イスラム教については、マホメットが生きた時代を背景として個人と集団が結びついており、完全なる分離が難しいのではないかと思います。『コーラン』における表現を見ましても、個人に語りかけるというよりは、”お前たち”と呼びかけておりますし、奨励される行動も集団的なものです。イスラムの問題は、イスラム自身で解決するしかなく、イスラム教徒の人々にこそ、個人と集団との関係を含め、自らが抱える問題(神の名の下で他者に対する加害行為を是認してしまう・・・)と真摯に向き合っていただきたいと思うのです。