万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

伝統宗教と新興宗教を区別する基準とは

2024年06月06日 12時30分56秒 | 社会
 先祖代々人々が信仰してきたり、氏子や檀家となってきた神道、仏教並びにキリスト教と言った伝統宗教団体と、近代に至って設立された新興宗教団は、今日、両者とも法的には宗教法人として一括りにされています。天理教が神道、創価学会が日蓮宗、元統一教会がプロテスタント、幸福の科学が仏教というように、後者の大半が、前者を母体として派生しているため、両者の間に教義や組織において共通性や連続性があるという事情にも起因しているのでしょう。このため、後者が信者からお布施や奉納金を集める集金マシーンと化し、また、神や仏を拝むのではなく、教祖を崇拝の対象とするパーソナル・カルト化しても、宗教法人として前者と等しく手厚い保護を受けてきたのです。

 宗教法人に対する最大の保護措置の最たるものが、納税義務の免除です。上述したように、集金マシーン化した新興宗教団体には、信者からの定期的なお布施や奉納金により、莫大な収入が転がり込んできます。こうした集金のみならず、元統一教会の霊感商法や創価ビジネスのように、幅広く利潤が生じる事業を展開している場合には、その資金力は膨大な額となります。創価学会の名誉会長であり、教祖の地位にあった故池田大作氏に至っては、個人資産が数兆円にも上るとの噂も絶えませんでした。母体となった宗教や宗派の多くが、心の安らぎや精神の豊かさに価値を置き、金銭欲や名誉欲を含め人間の欲の抑制を説いたのとは真逆に、これらの新興宗教団体は、非信者の人々の目からしますと、拝金主義を疑う程に世俗の欲にまみれているように映るのです。

 その一方で、伝統宗教の方を見てみますと、京都、奈良、鎌倉といった、拝観料の収入が期待できる観光地にある寺社仏閣を例外とすれば、財政難に苦しむ神社やお寺は少なくありません。人口規模の小さな集落や村落などでは、既に廃寺となったり、朽ちるに任せられているお宮も散見されます。氏子や檀家数の減少やお布施や寄進等の低額化なども影響しているのでしょうが(戒名を授かるにも相当額を要した時代も・・・)、金満体質に浸かっている新興宗教団体とは対照的に、伝統宗教に属する宗教法人の多くは、自らの存続さえ危ぶまれるほどの財務状況にあるのです。

 このように、法的には同じく‘宗教法人’であったとしても、新興宗教団体と伝統宗教の置かれている状況には雲泥の差があります。それにも拘わらず、一律に税免除の特権を受けられるというのでは、多くの国民が納得しないことでしょう。これでは、貧者救済を隠れ蓑とした富者優遇策となります。そこで、重要となるのは、両者の線引きの基準を何処に置くのか、という問題です。常々、両者は区別できないから一律に扱わざるを得ないと説明されてきたからです。しかしながら、フランスやベルギー等にあって反セクト法が制定されているように、両者の間の区別が不可能であるとは言えないはずです。

 そこで、先ずもって指摘されているのが、宗教施設の開放性です。寺社仏閣やキリスト教の教会にあっては、何れも、非信者の人々に施設が公開されています。氏子や檀家ではなくとも、誰もが自由に境内に入り、そこでお祀りされている神様や仏様を拝むことができます。その一方で、新興宗教団体の施設は、実に閉鎖的です。全国の街角で目にする新興宗教団体の施設は、その教団に属する信者しか立ち入ることができません。この閉鎖性が、新興宗教団体の秘密主義を象徴しており、現代における‘秘密結社’と言うダークなイメージを与えているのです。一般の非信者の人々が、‘隠すべきことがある’と推測する根拠を与えるからです。

 新興宗教団体の閉鎖的な秘密主義という特徴は、信者の秘匿性という第二の基準を導きます。神社であれ、お寺であれ、伝統宗教団体に属する人々は、自らが所属していることを隠したりはしません。ところが、新興宗教団体の信者の人々は、マスメディアにあって宣伝塔を務めている少数の芸能人等を除いて、自らが信者であることを隠すケースがほとんどです。いわば、現代における‘隠れ教徒’の如くであり、信者であることを他者に知られることなく、教団の指示に従って組織的に行動しているのです。この隠密的な信者達の組織的行動は、一般の人々から警戒されてしかるべき理由となりますし、伝統宗教から区別される固有の特徴となります。一般社会にあって、誰が新興宗教の信者であるのか分からない状態は、それが巨大組織であるだけに、一般の人々にとりましては、疑心暗鬼となり、どこにどのような罠が潜んでいるかわからない状態とも言えましょう。

 そして、第三に挙げるべき区別の基準は、新興宗教団体には‘聖職者’が存在していないことです。神社には神職がおりますし、お寺には、僧侶という職があります。キリスト教でも、教会には司祭や牧師さんがおり、何れであれ、各自が聖典や教義に照らしながら神や仏の教えを伝える役割を担っています。一方、新興宗教団体には、教祖の下に教団の組織運営に携わる‘職員’はいても、独立的な職としての聖職者が見当たらないのです。

 以上に主要な基準について述べてきましたが、こうした新興宗教を伝統宗教から区別する諸基準の設定は、今やマネー・パワーをもって政治にまで浸透する新興宗教法人に対する課税を可能とすることでしょう。そして、これらの特徴は、実のところ、新興宗教団体の真の設立目的に関する疑いをも投げかけます。特徴的に観察される閉鎖性、秘密主義、独裁的組織形態は、これらの団体が、動員要員のリクルートであり、世界権力による支配構造の一部であるとする疑いを、否が応でも強めるのです。暴力革命を起こした共産党と同様に、短期間に多数の信者を獲得するには、相当の資金を要するはずであるからです。新興宗教団体の問題は、信者のみならず、非信者、即ち、一般の国民にとりましても、今や、早急に対処すべき重要問題なのではないかと思うのです。

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