万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

新自由主義の真の姿とは?

2023年09月28日 13時15分19秒 | 統治制度論
 新自由主義には、‘自由’という言葉が含まれています。自由とは、凡そ心身において自らのことを自らで決定できることを意味します。自由は束縛や隷従の反対語とも解されますので、言葉そのものが持つイメージはいたって明るく、開放的であり、人類普遍の価値の一つにも数えられこそすれ、頭から自由を否定しようとする人は殆どいません。このため、新自由主義に対しても、多くの人々が‘何かよいもの’という漠然とした印象を持ったことでしょう。しかしながら、自由とは、誰の自由か、によって、大きく意味内容が違ってきます。

 自由とは、上述したように自己決定を意味するものの、自由を他者の心身にまで及ぼすのは許されるのか、という問題は、哲学者や思想家が思索してきたところでもあります。例えば、スピノザやホッブスは、自然状態という前置きの下で、自己保存を根拠とした他害的自由を認めています。もっとも、他者の命を奪うなど、利己的な他害行為までも認める一切の制限なき自由は、野獣の世界と異ならなくなります。すなわち、無制限な自由が許される世界、あるいは、自然状態では、誰もが自らの命の保障を得られなくなるのです。

 そこで、自己保存をより確かにするために、ホモサピエンスである人類は知性あるいは理性を働かせ、全ての人々に適用されるルールや法を生み出すこととなります。思想家や哲学者も、自然状態、即ち、弱者のみならず強者もまた自らの命、身体、財産等が危険に晒される状態を想定することで、全ての人々に適用される制約的な法、並びにそれを制定し、執行し得る国家の必要性を論理的に導いています。宗教上の戒律の多くが他害的行為の禁止である理由も、社会全体の安寧を願ってのことなのでしょう。

 ところが、新自由主義の‘自由’が、相互的な自由の保障という文脈における自由であるのかというと、この点については大いに疑問のあるところです。人類史を見ましても、強き者も弱き者も隔てなく自由に対して制約が等しく課せられるようになったのは、相互的な自由の価値が共通認識として定着した近年のことに過ぎません。現実の世界では、他者に優って圧倒的な武力や権力を持つ者、あるいは、グループが、自らはこれらに護られた安全な場所に身を置きながら、己の自由のみを無制限に拡大させ、他者の自由や権利を侵害してきた歴史の方が圧倒的に長いのです。

 新自由主義につきましても、それが意味する自由は、他の人々を圧倒する経済的強者による自由の拡大という側面があります。規制緩和の意味するところは、弱者を含めて全ての人々の自由を公平に護ってきた制御的な‘規制’の撤廃かもしれず、強者の自由の空間が広がる一方で、多くの人々が防御壁を失う結果を招きかねません。中間搾取として規制されてきた人材派遣業の解禁は、この側面を象徴していると言えましょう。また、インフラ事業の民営化も海外勢への市場開放がセットとなれば、巨大グローバル企業に参入機会を与えるに過ぎなくなります。宮城県、香川県、山形県などにおける水道の民営化に伴い、「水メジャー」とも称されるグローバル企業ヴェオリア・ウォーターがすかさず参入してきたことは記憶に新しいところです。結局、民営化の‘民’も、国民や一般市民ではなく、資金力、技術力、運営ノウハウ、及び、人脈等を含む規模において優る民間のグローバル企業を意味するのであって、その実態は、言葉のイメージとはほど遠いのかもしれません。インフラ事業の民営化とは、公共性の高い施設でありながら、その私的所有者に使用料を支払っていた時代への逆戻りとも言えましょう。

 新自由主義の自由とは、世界権力を構成するグローバル企業の自由であって、それは、その他の人類にとりましては、経済のみならず政治や社会を含むあらゆる分野における自由の剥奪や縮小、あるいは、法やルールといった個々の自由に対する保護壁の撤廃と同義となりかねません。岸田政権の政策にも新自由主義者の戦略がちりばめられており、同政権が掲げる‘新しい資本主義’とは新自由主義の別名ではないかと疑うのです。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人材サービス会社と新自由主義 | トップ | 政府が構築すべきは就職・求... »
最新の画像もっと見る

統治制度論」カテゴリの最新記事