今日、多くの諸国にあって、国民に対して幅広い自由が保障されています。政治の領域にありましても、言論の自由は、自由な意見表明や政策議論を許すという意味において、国民の政治的自由を支えています。民主主義国家における参政権は、国民の政治的自由の証でもあります。自由主義国に住む国民の多くは、‘自分達は自由である’とする自己認識の下で生きていると言えましょう。
しかしながら、自由主義国の国民は、本当に自由なのでしょうか。この問いかけに対しては、‘何を今更言っているのか’というお叱りの声もあるかもしれません。ところが、この問いに対して、鋭い指摘を試みた人物がおります。その人物こそ、またもや18世紀フランスの思想家、モンテスキューなのです。それでは、モンテスキューは、どのように述べているのでしょうか。以下に引用しますと・・・
「極端に絶対的な君主政の国々においては、歴史家は真理を裏切る。なぜなら、彼らはそれを述べる自由をもっていないからである。極めて自由な国家において、歴史家はその有する自由そのもののゆえに真理を裏切る。この自由は、常に分裂を生み出すので、各人は、専制君主の奴隷となると同じほどに、自己の党派の偏見の奴隷となるのである。(『法の精神』第3部第19編第27章、岩波文庫版より引用)」
・・・となります。言論が厳しく統制されている専制君主国家や全体主義国家にあって国民には自由がないことには誰もが納得します。現代という時代にあっても、共産主義国家の国民には、喩え明白なる事実であったとしても、それを語る自由はありません。このため、非専制国家=自由な国とするイメージを持ちやすいのですが、‘逆は必ずしも真ならず’という諺がありますように、逆パターンが常に事実を言い当てているわけではありません。モンテスキューは、自由主義国家にあっても、専制主義国家と負けず劣らず国民が自由を失うことがあることを、鋭く見抜いているのです。
自由主義国の国民が自由を失うとき、それは、上記のモンテスキューの言葉を借りれば、‘党派の偏見の奴隷となるとき’となります。確かに、自由であるからこそ、世界観、国家観、価値観、思想・宗教的信条、自らの置かれている立場、あるいは利害関係等など、様々な軸において人々の意見や見解は分かれるものです。自由は、それ自体が分裂要因となり、党派が形成される下地となり得るのです。もちろん、全ての人が必ずしもいずれかの党派に属して相争うわけではないのですが、学校の教室から職場に至るまで、いたるところで党派やグループ間の争いは散見されます。心の中ではライバル側の意見や見解に賛同していたとしても、ライバル側に対する偏見や敵対心、あるいは、自らの属するグループに対する仲間意識や忠誠心から、本心を偽ることも珍しくはないのです。この結果、党派心は人々の理性や判断力を歪め、自らの所属する党派の言いなりがちとなるのです。
この党派性がもたらす不自由もしくは拘束性は、政治分野を見ればその深刻さが理解されます。今日にあって、国民の政治的自由は、何れかの政党を支持する形でしか表現されないという現実があるからです。選挙において掲げられる政党の公約はワンセットとなっていますので、不支持の政策が混じっていたとしても支持政党やその候補者に投票せざるを得ません。さらに所謂‘組織票’ともなりますと、組織のメンバーは、所属先の組織の文字通りの‘奴隷’ともなりかねません。事実上、選挙権の行使者は‘組織’のトップ、すなわち、‘奴隷主’であるとする見立てもできるからです。
この党派性に起因する不自由さがさらに悪用されますと、グローバリストによる二頭作戦や多頭作戦にも使われてしまいます。右派政党の公約にも左派政党の公約にも自らが望む政策を忍び込ませる一方で国民の望む政策を排除すれば、何れの政党を選択しても‘結果は同じ’となるからです。メディア等を介して政党間の対立が煽られるため、国民は、党派心からいずれかの政党に投票するように追い込まれてしまうのです。日本国にありましても、今日、保守政党の看板に偽りでありとして自民党が信頼を失い、その一方で、働く人々を護るはずの野党側が国民に冷淡で浮遊感があるのも、実のところ、政界全体がグローバリストによって国民の党派心がコントロールされているからかも知れません。
18世紀の啓蒙思想家の多くはモンテスキューを含めて貴族や地主であったり、思索に時間を費やすことができる富者であったりするため、有閑者の戯れ言として批判的に受け止めたり、感情的に反発する人も少なくありません。しかしながら、この否定的な見解もまた、党派的な偏見とも言えましょう。知的探求には、十分な教育環境、並びに、時間や経済的な余裕を要するものですので、18世紀という時代を考慮しますと、致し方ない側面があります。古代ギリシャのポリスが名だたる哲学者や科学者等を輩出したのも、忌まわしき奴隷制あってのことでした。今日では、誰もが教育を受ける機会を持ち、労働法によって休暇が保障され、また、研究者という職業も成立しております。多くの人々に知的探求の道が広く開かれており、恵まれた時代を生きていると言えましょう。過去の歴史にあっては限られた少数者であったとしても、善き国家の在り方について考え抜いた人々の書物の随所には、現代に生きる人々をも救う叡智を読み取ることができるのではないかと思うのです。