モンテスキューの『法の精神』と言えば、三権分立論、とりわけ、司法の独立の意義を論理的に説明した書物として知られています。現代に生きる人々も、同書の恩恵を大いに受けているのですが、『法の精神』には、司法の独立のみならず、至る所にモンテスキューの鋭い洞察力が覗われ、国家体制に関する箴言を見出すことができます。
『法の精神』が出版されたのは、カール・マルクスの『共産党宣言』が出版された1848年を丁度一世紀、即ち、100年遡る1748年のこととなります。18世紀のフランスを背景に執筆されているのですが、今日の問題を先取りした考察も少なくありません。18世紀と言えば今日のグローバリゼーションの黎明期でもあり、世界大での海外貿易の活発化により商業が著しく発展した時代でもありました。この時代にあって、モンテスキューは、以下の興味深い言葉を残しているのです。
「法律は、彼ら(貴族)に対して商業をも禁止しなければならない。これほど信用のある者が商人であれば、あらゆる種類の独占を行なうであろう。商業は平等な人々の職業である。したがって、専制国家のうちでも最もみじめなのは、君公が商人である国家である。(『法の精神』第一部第5編第8章、岩波文庫版より引用)」
この文章は、貴族政の在り方について論じた部分に記されていますので、‘貴族政であってすら為政者が商人である国家は悲惨なのだから、ましてや専制君主が商人である国家は、なおのこと悲惨な状態に置かれてしまう’という意味となります。為政者に商業を禁じる理由として、モンテスキューは、独占を志向する商人のメンタリティーを挙げています。‘信用のある者’を‘権力を持つ者’と解すれば、‘商人が君主となった専制国家では、君主が、自らが排他的に握る権力を用いて、あらゆる利権や利益を独占するであろう’ということになります。
独占や寡占は、今日にあっては独占禁止法等の競争法によって禁止されております。経済とは、個々人に各種の自由が保障されてこそ、公正な競争のもとで発展するのであり、競争を消滅させる独占や寡占は、絶対的な阻害要因となるからです。しかも、上記の文章に「商業は平等な人々の職業」と記されているように、モンテスキューは、経済の本質として、企業や個人といった経済主体間における平等性、即ち、対等性についても言及しているのです。
ここに、経済活動が人々に豊かさをもたらすには、自由と平等が必要であるとする認識も伺えるのですが、それでは、専制君主が商人となった場合、どのような事態が起こりえるのでしょうか。これは、まさしく、モンテスキューが指摘したように、‘最高に惨め(les plus misérables )’ということになりましょう。否、これ以上の惨めさはないという意味においては、‘最悪’ともなります。権力者が、政経両面に亘ってその絶大なるパワーをもって独占体制、否、独裁体制を構築するとすれば、経済のみならず、政治的にも人々は隷従状態となり、もはや自由な空間をどこにも見出すことはできなくなるからです。
そして、このモンテスキューの政経一致体制における独裁に関する洞察は、政府が全面的に経済を統制した共産主義体制を彷彿とさせますし、今日のグローバリストの世界支配構想ともオーバーラップします。金融・経済財閥でもあるグローバリストのフロント組織である世界経済フォーラムは、公然と‘グローバルガバナンス’に踏み出していますし、同フォーラムが目指す‘グレートリセット’とは、各国の政治権力を自らに集中させるための‘上からの革命’といっても過言ではありません。
しかも今日、地球を私物化してようとしているグローバリストは、世界大にマスメディアを操作し、AIをはじめとしたデジタル技術、バイオテクノロジー、さらには、先端的な軍事技術等を活用し得る立場にもありますので、それがもたらす近未来の‘惨めさ’は、18世紀フランスに生きたモンテスキューの想像を遥かに超えることでしょう。自らの私的な利益のためには、他の人々を‘商品’や単なる労働力と見なして売買したり、不要となれば問答無用で‘処分’しかねないのですから。今日に生きる人々は、モンテスキューの言葉を、過去からの警告として重く受け止めるべきではないかと思うのです(つづく)。