地球温暖化問題には、‘地球温暖化詐欺’という疑惑が、影の如くに常に付きまとっています。この芳しくない表現は、地球温暖化の原因が未だに科学的に証明されていないことに由来します。むしろ、政治的、あるいは、経済的な理由から、地球温暖化二酸化炭素説が‘定説化’されている嫌いがあるからです。その一方で、温暖化を防止して‘地球を救おう’という分かりやすいアピールは、一般の人々からは好感を持たれやすく、多くの人々が、人類は、手を取り合って地球温暖化防止に取り組まなければならないと信じるようになったのです。
とりわけ先進国が密集するヨーロッパにおいては、真っ先に温暖化ガス排出量ゼロ目標が掲げられ、日本国の菅政権も、‘バスに乗り遅れるな’方式で同潮流に加わることとなりました。しかしながら、地球温暖化の領域にあって最もそれを推進してきたのがリベラル派であった点を考慮しますと、今日の全世界的な潮流には不安が過ります。何故ならば、理想とは、現実の悪しき状況を改善する方向に作用する一方で、人類史を振り返りますと、しばしば、既存の社会を壊してしまう破壊力ともなってきたからです。
現代史を見ましても、共産主義革命はその事例に数えることができます。共産主義者は、‘差別や搾取なき人民による平等社会の建設’といった、大衆が理解しやすいような言葉で理想を語り、人々を暴力に駆り立てて既存の社会を問答無用で覆してきました。しかしながら、暴力革命にあって多くの罪なき人々の命が奪われると共に、革命後の共産主義国家が、人々に描いて見せた理想とは真逆であったことは誰もが認めるところです。そもそも、‘教祖’であるカール・マルクスは、国家は消滅すると予測しているぐらいですから、明確な国家ヴィジョンやそれに至る具体的な道筋を示すこともなく革命のみが遂行されたのです。
そして、今日の地球温暖化問題を見ておりますと、社会・共産主義者に特有の独善や非現実性を見出すことができます。革命後のソ連邦にあって、経済は全面的に政府の統制の下に置かれ、政府が策定した「五か年計画」に従って運営されました。しかしながら、華々しく発表された「五か年計画」が定めた目標は達成されたためしはなく、大方は失敗に終わっています。それにも拘らず、当局は失敗を認めようとはせず、また、ノルマの未達成が咎められることを恐れた現場での数字の操作や誤魔化しも日常茶飯事となったのです。中国において毛沢東が主導した‘大躍進’の惨憺たる結果は、その最たる事例と言えましょう。そして、この体質は、改革開放路線に転換したとはいえ、今日の中国においても散見されますし、実のところ、地球温暖化に対する今日の各国の態度も、社会・共産主義国に類似しているのです。
例えば、達成の見込みもないのに‘ゼロ’という数値目標を掲げ、政府機関のみならず民間企業に対しても、研究・技術開発やイノヴェーションという名の‘ノルマ’を課そうとする手法は、あたかも計画経済のようです。政府は、ゼロ目標の達成のために、企業や国民に無理難題を押し付けているのであり、その目標が非現実的であればあるほど、企業も国民も、多大な負担を強いられると共に疲弊してゆくことでしょう(もっとも、金融は、融資先が確保できるので、当面は、安泰…)。そして、最悪の場合には、‘ノルマ’を達成することができないばかりか、この間、ガソリン車販売禁止を始めとした様々な‘禁止令’によって、既存の経済・社会システムを壊してゆくことでしょう。気が付いた時には、人類は、描かれた理想郷としてのカーボンニュートラルなスマートな未来社会に至るどころか、冬の寒さも凌ぐことができない石器時代に戻ってしまうかもしれないのです。
理想というものに内在する破壊力について思い至りますと、絶対とは言わないまでも、地球環境問題について過去の過ちを繰り返す可能性がありましょう。そして、悪しき人々が存在するとすれば、むしろ、敵、あるいは、好ましからざる相手が自らの手で自らの経済や社会を破壊させる自滅手段として、‘理想’というものを利用するかもしれないのです。
化石燃料については枯渇問題もありますので、新たなエネルギー源の研究・開発や省力化は必要となりましょう。しかし、それは、人類文明との両立を確保した姿において達成されなければならないのではないかと思うのです。