万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

変質するヨーロッパに注意を

2020年12月26日 11時47分06秒 | 国際政治

地球環境問題の発祥地は、ヨーロッパと言っても過言ではないかもしれません。同地こそ、最も熱心に環境問題に取り組んできた歴史があります。そして、この地が近代という時代の源流であり、かつ、先進国が集まる地であったからこそ、日本国もまた、今なお同地を見習うべきモデルとして仰ぎ見ているのかもしれません。実際に、菅首相による温暖化ガス実質ゼロ目標の公表も、ドイツやイギリスといった世界に先駆けて脱炭素化を進めてきた諸国に追随したためとされています。

 

 しかしながら、民主主義、自由、法の支配といった人類普遍とされる諸価値を原則として掲げ、かつ、制度化してきたヨーロッパ諸国の変質についても、注意深く観察すべき時期に至っているように思えます。その理由は、冷戦の終焉は、必ずしも旧社会・共産主義国の民主化、並びに、自由化を意味せず、むしろ、グローバリストとの結託により、自由主義国の社会・共産主義化をもたらしている可能性が伺えるからです。

 

EUを見ましても、冷戦崩壊後における中・東欧諸国の大量加盟により、EUの機構内にあって社会・共産主義体質を引き摺る官僚主義が蔓延るようになると共に、加盟国に対する姿勢を見ても、どこか強引さが目立つようにもなりました。イギリスのEU離脱も加盟国の国境管理権にまでEUが踏み込んだことによりますが、EUとは、そもそもその性質からして保守主義とは馴染みませんので、EUの政策権限の拡大は、‘上’から加盟国に変革し得るという点において、グローバリストと社会・共産主義にとりましては好都合であったのでしょう。

 

そして、ドイツを見ましても、保守政党であるCDUの党首ではあれ、メルケル首相が保守主義者とは到底思えません。同首相は、冷戦崩壊後にあって最初の東ドイツ出身の首相なのですが、それは、同首相が、東ドイツ側に設立されていたCDUの党員であり、東西再統一の立役者ともなったコール首相に取り立てられたからです(もっとも、後に離反…)。生い立ちなどをからしましても、社会・共産主義時代の教育を受けて育ったのですから、そのマイナス面について熟知しながらも、社会主義思想が、否が応でも政治感覚として染みついている可能性も否定はできないのです。実際に、メルケル首相の基本的な政策方針は、シリア難民に端を発した移民受け入れ政策、今般の脱炭素社会への傾斜、あるいは、中国との比較的良好な関係からしましても、リベラル派と言っても過言ではありません(デジタル化もその一環かもしれない…)。アメリカ民主党のオバマ前大統領との親交も厚く、リベラル派との間に人脈があります。保守を表看板としながら、実態がリベラルである点は、日本国の自民党とも類似しているかもしれません。菅首相も、アメリカの大統領選挙に際しては、投票結果のみに反応し、メルケル首相と共に真っ先にバイデン氏に祝意を伝えておりました。

 

今日のヨーロッパとは、近代に至って全世界的に政治的な対立構図を成してきた資本主義対共産主義の行き着く先が、結局は、両者が一体化した全体主義体制であったことを示しているように思えます(‘二頭作戦’…)。否、もとより、共産党とは、所謂‘資本家(特定の金融財閥グループ)’が支援して育てた政治勢力であって、最初から‘プロレタリアート’とは、‘資本家’によって創られたイメージ、幻影に過ぎなかったのかもしれません(現実の社会は、資本家と無産階級のみによって構成されているわけではなく、様々な職種の人々によって成り立っている)。つまり、今日、二度の世界大戦や共産革命を含め、近代の歴史を裏から操り、巧妙に演出してきた勢力の正体、並びに、その勢力が目指す‘理想的世界像’が明らかになりつつあるとも言えましょう(ジョージ・オーウェルが、『1984年』において、一般市民の全体主義化と貧困化をあますところなく描いたように、人類にとりましては、ディストピア…)。

 

この点に注目しますと、日本国が、今なおもヨーロッパ諸国を先行モデルと見なし、その政策を徒に後追いしますと、自らをも全体主義化、最貧国化させる結果を招くかもしれません。日本国は、ヨーロッパ諸国にあって失われつつある自由、民主主義、法の支配等と経済的繁栄を護り抜き、これらをより具体化し得るような独自のモデルを模索すべきではないかと思うのです。


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