万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

菅首相の民主主義論は中国の弁明?

2020年12月22日 13時02分59秒 | 国際政治

菅首相は、日経新聞が主催した「アジアの価値観と民主主義」をテーマとするシンポジウムにおいて、自らの民主主義観を語ったと報じられております。それは、アジア諸国の多様性を強調した上で、民主化の速度はゆっくりでよいとも解される見解であったそうです。中国のように民主主義を目の敵にするような発言ではなかったものの、同首相の危うい民主主義観が覗えるのです。

 

 第一に挙げられるのは、同首相は、どちらかと言えば過去の歴史において、アジア諸国に民主主義が存在し、今日に至るまでの間に連続的に発展してきたかのような認識を示している点です。その根拠として、仏教やヒンズー教の慈悲、儒教の仁、イスラム教の寛容、そして、日本国の和の精神を挙げていますが、政治の分野にあっては、儒教はむしろ位階秩序や権威主義体制を助長してきた側面もありますし、『コーラン』にあって多神教徒の殺害をも奨励するイスラム教に至っては包摂を意味する寛容とは程遠く、イランのように宗教国家を支えてきました。全てのアジアの精神性が、必ずしも民主主義と親和性が高いわけではないのです。

 

 第二に、第一で指摘したようにアジア諸国にあって精神的伝統に違いがあるとすれば、問題とすべきは、むしろ、その歴史や精神的な土壌に由来する相違点にあるはずです。例えば、4千年ともされる中国の歴史において、同国が民主主義国家であった時期は殆どありません。覇権をめぐって諸国が激しく争う戦乱の時代と絶対者として皇帝が君臨し、官僚組織がその手足となる専制国家の時代の繰り返しであり、中国の歴史劇を見ていても、何れの時代のことなのか瞬時には判別できないのも、その歴史が同じような体制を持った王朝の分裂、滅亡、統合、王朝交代の連続であったからなのでしょう。何れにしても、力が支配する世界に生きてきたのであり、国家と国民との基本的な関係も、支配者と被支配者の関係にあったと言わざるを得ないのです。そして、今日、中国にあって共産主義一党独裁体制が敷かれているのも、こうした歴史的な土壌に根差しているからなのかもしれません(共産主義革命における‘人民’は、全ての国民を意味しない…)。この点を考慮すれば、伝統的に専制国家体制であった時代が長く、かつ、儒教やイスラム教が支配的な思想・宗教であった諸国における民主化は、他の諸国よりも難しいということになりましょう(なお、菅首相が進めているトップ・ダウン型に向けた行政改革は、日本国の和の精神とも馴染まないのでは…)。

 

そして、第3の問題となるのは、菅首相は、「民主主義の定着には様々な歴史や文化的背景があり、育てるには長い時間を要する」とも述べている点です。この発言のくだりでは、同首相は、制度としての民主主義が根付いていない現状は認識しているようです。この文脈にあって、アジア諸国への選挙監視団の派遣や人材育成をも表明したそうですが、アメリカの大統領選挙で明らかにされましたように、民主主義国家における選挙制度でさえ危うい状況にあります。日本国内でも不正選挙が行われている可能性も否定はできず、日本国が、‘上から目線’でアジアの諸国に対して選挙監視の支援を言える立場にはないように思えます。また、政権発足以来、デジタル化や行政改革については暴走とも言えるぐらいのスピードを追求しながら、殊、民主化にあっては‘ゆっくりでよい’と言っているのですから、悪しきダブル・スタンダードとも映ります。国民にとりましては、政治における民意の反映と権利拡大を意味する民主化こそ急ぐべきなのにも拘わらず…。

 

結局、菅首相の民主主義論は、中国に口実を与えているようにも聞こえます。否、香港等にあって民主主義を弾圧している同国のために、その‘言い訳’を代弁しているのかもしれません。国際社会からの批判を受けた際に、いかにも中国政府が語りそうな内容であるからです。‘民主化は、自らのペースでゆっくりとしますから、’という…(今後の中国の発言に注目すべきかもしれない…)。そして、本心では、共産党が自らの富と権力を手放すことを意味する民主化などしたくはないのです。そこかしこに中国への忖度や同国との連携が伺われる故に、菅首相の言動の背景にあってはついつい中国の影を疑ってしまうのです。


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