万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇室問題ー権威の維持と婚姻の自由は両立しない

2017年06月03日 15時17分10秒 | 日本政治
「皇室」のニュース
 秋篠宮家の”慶事報道”を機に女性宮家の創設問題も持ち上がり、皇室問題はさらに混迷を深めています。特に婚約の”お相手”とされる小室氏については、情報が徹底的に統制されるという異常事態が続いています。

 この問題、出自、門地、信教等をめぐる極めてセンシティブな問題を孕むだけに対応が困難です。何故ならば、小室圭氏についてはネット上で検索しても殆ど情報がなく、既に故人となっている父親の名前や職業がようやく最近に至り判明したに過ぎません。過去の事例では、皇室の慶事にあっては、必ずしも事実とは限らないものの、まずは”お相手”の家柄、家族や親族、家庭環境等が事細かに報じられ、幼少期から婚約に至るまでの間に関わった先生、友人、同級生、ご近所の人々、親族などが、所謂’心温まるようなエピソード’を披露するのが通例でした。しかしながら、今般に限っては、週刊誌でさえ小室氏のバックグランドに関する詳細に触れていません。

 その一方で、海外では、小室氏は、Kim Komuroと表記されたり、ベトナム人と韓国・朝鮮人の血を引く青年として報道されているとも伝わります。近年、日本国のメディアの報道の自由度は72位まで下がっており、その要因の一つが”菊のカーテン”であることを伺わせます。そして、仮に小室氏が海外の報道通りに韓国・朝鮮人やベトナム人の血脈に繋がる、あるいは、創価学会等のカルト集団が背後に控えているとなりますと、この婚姻は、皇族に婚姻の自由を認めるか、否かの選択を、国民に迫ることとなりましょう。

 一般の民間人であれば、憲法にも記されているように婚姻の自由は認められており、他者が介入すべき領域ではありません。しかしながら、公的立場となる’皇族’となりますと婚姻による影響は全国民に及びます。となりますと、第一の選択とは、戦後行われてきたように、’皇族’に対して無条件、かつ、無制限に婚姻の自由を認め、外国に出自であれ、カルト教団の信者であれ、誰でも構わないとする立場です。ただし、この選択をしますと、皇室の権威は低下の一途を辿ることになります。また、姻族が外国人であった場合には、出身国の政治的影響も問題となります。第二の選択とは、皇族の婚姻の”お相手”に一定の条件や制限を課すというものです。この選択では、’皇室’の権威の低下は回避できますが、出自や門地、あるいは、信教による差別として、内外から批判を受ける可能性はあります。

 メディア、あるいは、その背後の”国際勢力”が日本国民を誘導したい方向は、第一の選択のように思えます。しかしながら、奇妙なことに、婚姻の自由に伴う’皇室’の権威の低下については決して触れようとはしません。否、内心において権威の低下を認識しているからこそ、メディアは電波を利用し、カルト教団は信者を大量に動員して、’皇室’の権威づけに躍起になっているのかもしれません。そしてさらに奇妙なことに、これらの人々は、差別反対を唱えながら、”皇族という特権身分をなくし、平等化しよう”とは、決して主張しないのです。その理由は、’皇族’を残した方が、”皇統乗っ取り”、”日本国民の支配”、あるいは、”上下の逆転”が容易に達成されると考えているからかもしれません。ここには、差別反対を強力な梃として’皇族’となり、’皇族’となったら、今度は上から一般の日本人を差別したい、という利己的な自己矛盾さえ見え隠れしているのです。

 一般の日本人としては、権威なき形ばかりの’天皇’を戴き、かつ、一般の日本人が差別される側となるような結果を招くぐらいであるならば、’皇族’の婚姻の自由は認めたくはないでしょうし、今日のような皇室制度は排する方がまだ”まし”と考えるのではないでしょうか。もっとも、既に今上天皇の時代から、皇族の側から婚姻の自由がなし崩し的に原則化されてしまった現状を考慮しますと、現行の皇室制度の存廃を議論すべき時期は、既に訪れているようにも思えるのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。


にほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする