松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

授業の見方、授業のあり方

2021-04-02 11:08:24 | Weblog


  これは、安里盛市著書「林 竹二・斎藤喜博に学んで」一莖書房発行の本からの抜粋である。今教育界では、私を含めて多くの先生方が授業を大変形式的に見ている。見ようとしている傾向がある。「ほんとうの授業とはどういうものか」ということをあまり知らないとも言えよう。そこで、授業の見方、授業のあり方に関して、なるほどと思われる文章があったので、その一部を抜粋し掲載してみた。授業は、林 竹二先生の「人間について」の授業を参観した安里盛市先先生と授業を受けた子どもたちの感想による。
○ 林 竹二先生の授業の特徴は、子どもたちが、いやでもおうでも、考えざるをえないような問題を投げかけることから出発する。・・・その問題は、いともかんたんに解決がつくようにみえて、その実、とてつもない大きな問題につながっているということである。そのことが、それ以後の授業展開の伏線となって、重要な役割を果たしている。
○ はじめから教えたいことを言わないで、ある一つのことを問題として出し、考えさせる。それは一つ一つの問題から解いていくと、それと関連づけて考えることもできるし、はじめの考えと先生の話を聞いたあとの考えを変えることができるからだ。〈子どもの感想から〉
○ありあわせの知識や思いつきの考えにゆさぶりをかけることである。・・・「何を今さら」と、思うようなかんたんな問題に見える。それを、いきなり開きなおって問いかけるところにゆさぶりの効果が現れる。
○ふだんよく発言する子どもであるが、そういう子どもが発言をひかえているということは、思考を停止しているのではなくて、より深く考えようとしているからである。よい授業とは、子どもの発言の多少によって決まるのではない。むしろ、ときには重い沈黙の中に、思考活動が行われている場合もある。
○具体的な資料の提示や説明によって、子どもたちの浅い認識を変えていくことである。・・・資料がこれほど子どもの認識を変えるのに役立つものとは思っていなかった。しかし、資料は単独で、それほど効果を発揮することはできない。投げつけられた問いと相応し、教師の説明によって価値づけられたり、逆に説明を強化する作用を伴ったりして、より以上の効果を発揮するものと思われる。
○林先生の授業は、問答によって進められるのであるが、どちらかといえば、教師の話す時間が多いということである。しかし、それは教師が一方的に教えてしまう授業とは本質的に異なっている。子どもの思考をゆさぶり、常識的な思考を捨てさせ、本質的なものへと子ども自身が目を開いていけるように、そのために必要なことについて説明したり、反論したりして進められるのである。また、授業の体裁を整えることに腐心したり、子どもの発言の活発さによって授業のよしあしをあげつらう立場とも相容れないものである。
○授業に集中しているときの子どもの顔は刻々に動いていく。ときにはうなずき、にっこり笑い、ときにはとまどいを感じたり、深く考えこんだりする。そういうときの子どもの表情ほど美しいものはない。授業に参加していることの証は何も言語活動だけではないはずである。子どもの内面に何ごとかを起こさせ、自己変革を迫るような授業を現実に見ることによって、そのことをはっきりと知ることができる。〈今まで人間のことを知っていたようで何も知らなかった私。そのことがわかった時のうれしさは今でも忘れられない。なにも発表をしなかったけれど、くいはなかった。それだけに自分は納得したつもりだから〉〈林先生の教え方はとても好きだ。一つの問題を一時間もかけて、いろいろな意見を出してもらうというやり方だ。私は一回も発言しなかったが、今でも後悔しているどころかもう一回、林先生の授業を受けたいと思っている。〉
 私たちは、ややもすると子どもの発言だけで、授業に参加しているかどうかを判断しがちであるが、もっと観点を変えて、子どもの内面の動きから授業の質的な深まりを判断する必要がある。林先生から送っていただいた写真を見て授業に集中しているときの子どもの顔が、こんなにも豊かで美しいものだったのかと驚いたのである。
○林先生の授業の意味するもの・・・それは、私たちに教師が長い間の惰性で、ある一定のわく組の中でしか、ものを見たり考えたりすることができなくなった者に、自由なとらわれない立場から、授業というものを、事実を持って、いくつかの重要な提言をされていることにあるのではないだろうか。

※ 私たちは、授業をいかに観念的に見ているか、捉えているか、評価しているかを思い知らされる。授業のあり方を観念的に考えるのでなく、具体的な事実にもとづいて考えないかぎり、見ないかぎり、簡単には理解できないであろう。
ここに書かれたことが真に理解できるためには、本物のよい授業を多く見ること、自分で経験することが必要である。そうでなければそのよさは決してわからないであろう。そしてそれが理解できない教師は、相変わらず観念的で形式的な授業をしているだけである。さらに、そのような教師は、他人のどんなに優れた授業も観念的で形式的な見方で評価し、批判するだけであろう。
国語で言うならば、1時間の中に、読む、書く、討論、グループ学習、板書指導、机間指導、補助簿等がなければよい授業とは言えないとか、発言者が少なかったとか偏りがあったなどという表面的なことのみで授業を評価しているかぎりは、授業や子どもは変わっていくはずはないと考える。大切なことは、もっと子どもの顔の表情や体のしぐさなどを敏感に鋭く捉え、一人一人の子どもの内面の動きまでをも的確に読み取る努力をすることによって、真の授業のよしあしを学ぶことができるのである。 (河島)


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