松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

新しい学級を持ったときの教師の指導

2011-03-31 20:04:08 | Weblog




 4月には新しい学級を持って、学級づくりや授業をする。または、出入り等の授業で初めて出会う子どもの指導をする。
 この4月当初の子どもの指導が肝心である。これがうまくいかないと学級崩壊や授業崩壊になる背景をつくってしまうことになる。

佐久間勝彦 千葉経済短期大学学部長は「学級崩壊をさせる背景について」というタイトルの文でで次のように述べている。
 ・・・子どもはそれぞれ、学習の様々な過程でつまずきを起こし、それを乗りこえながら、追究を深めていく。その時、教師がいつもそばにいて、共感的なまなざしを送ってくれるならば、子どもは追究をあきらめない。「温かい共感的な助言と評価」の重要性は、言うを待たない。しかし、それに勝るとも劣らず、「厳しく自身を見つめさせる冷静な助言と評価」が、子どもの成長に欠くことができないことを忘れてはならない。 
  教育における厳しさとやさしさについて着目した哲学者の一人に、林竹二氏がいる。同氏は「きびしさのないやさしさ」を子どもは相手にしないこと、「きびしさという心棒を欠いたやさしさ」のいやらしさを子どもは本能的に感じ取ること、「いいかげんな子どもの発言を通さない教師のきびしさ」の中に、子どもは「教師のやさしさ」を見出すことなどを指摘した(『教育の再生をもとめて』筑摩書房)
 河合隼雄氏によれば、父子間に起きる問題の一番多くは、「自分というものをはっきり出さず、イニシアチブを取ろうとしない父親に、子どもが何か足りないものを持つ」ところから、生じているという。同氏は「ダメな父親は、子どもの要求に譲歩して譲歩して、そして嫌われていくんですね。そしてもうこれ以上は無理だというところに追い詰められてから『それはできない』と言うと、すでに遅くて、バーンと家庭内暴力と言うような問題が起きて来るんですよ」と述べる(『子どもの宇宙』第三文明社)
  ここで「ダメな父親」を「ダメな教師」と読み替えるならば、現今の学級崩壊の主因が見えてくる。「個性尊重」という美名の下に、子どものしたいことをしたいようにさせ、手をこまねいて傍観している教師にならぬようにしたいものである。


※これらの文を読んで、私は、結構思い当たることがある。新規採用の若い教師、パワーのない教師は要注意である。
 特に4月は初めて受け持つ子どもたちの人気取り(いい先生だねと思われたい)から、子どもについ遠慮してしまうことがある。「自分という人間はこういう人間である」「自分の学級はこんな学級にしたい」「自分の授業はこうである」というものをしっかり持って『厳しいけれども温かい』指導をしていくことが大切である。

私のしてきた初任者指導

2011-03-28 09:52:01 | Weblog




 私は、拠点校指導教員(初任者教員指導)3年目を終えた。この間、担当した初任者は10人である。そうしたなかで、初任者見せる授業には、多くの共通した傾向があるように感じた。
 これからの初任者や指導教員の参考になればと考え、初任者の1年の指導の傾向を学期に分けて書き出してみる。その際、子どもの様子や私の初任者への指導も付け加えることにする。

◎1学期
 4月当初、初任者は大変な緊張と不安を持って教壇に立つ、教えようとする意欲が漲っている。指導の声がやたらに大きくて高い。しかし、子どもが見えていないので、なかなか子どもの心に響いていかず効果が上がらない。
 一方、 子どもたちも新しい学年を迎え、新鮮な心持ちである。やる気があり、頑張ろうとする姿が見える。新しい仲間、先生、教科書ということで前向きに学習に取り組む。
 指導者の私としては、初任者や子どもたちの様子を見守りながら、初任者や子どもたちのモチベーションが下がらないように褒めることを中心に声を掛ける。

 4月中旬から5月にかけて、このあたりから初任者の力量が問われるようになる。それは、緊張していた子どもたちが本性を出すようになるからである。
 子どもたちは、教師の言動をよく観察し、教師を見抜くようになる。「○○をやると先生は叱る」が、「○○では叱らない」というように見るようになる。そして先生の隙をみてつけ込んでくる。
 朝の会や授業中でも「先生、トイレに行っていいですか」と言い出すようになる。また、「先生、席替えをしてください」「先生、学活会ではドッチボールをやってよ」などと要求してくる。また、「級友や先生の話を聞かない」「授業が始まっても席に着かない」「席を離れて友だちのところへ行く」などの子どもも出てくるようになる。
 私は、ここで初任者の出方を見ているが、初任者はこれらの子どもの要求に対して、子どもに好かれたいのか、子どもに遠慮してしまうのか、これらを許した場合の最悪の状態が想像できないのか、子どもの要求をのんでしまうことがある。
 こうなると、私としては、初任者に即刻指導しなければならない。場合によっては、私が子どもに直接指導しなければならないこともおこってくる。後手に回ると大変なことになりかねないからである。(もちろん、どの初任者にもあるはけではないのだが、・・・)
このころの初任者の授業は、「子どもが聞いていなくても話してしまう」「導入が長く、なかなか本題に入れない」「子どもの反応にいちいち付き合ってしまう」「同じ発問や説明を何度も繰り返す」「手悪さや遊んでいる子どもが見えない」等が見られる。
私の初任者への指導としては、一人ひとりの子どもをよく見て話すこと、言葉を選んで話すこと、1回で話が聞ける子どもにすることなどを指導する。

 6月から7月にかけては、初任者は子どもの扱いが上手くなり、授業の展開もスムースにできるようになる。しかし、これは4月から5月にかけての課題がある程度クリヤーできた場合である。
このころの初任者の授業の特徴は型にはまっている。必ず本時の学習の「めあて」と「まとめ」を書く。ワークシートを使うなどである。45分の授業時間も守れるようになる。しかし、相変わらず、教師の話が多く、一方的である。そのために子どもは受身の学習になる。
子どもは教師の指示に従って授業が進む。「はい、教科書を出して」「めあてを書きましょう」「ここは、ノートに書いてください」などである。
私の指導としては、子どもが受身になっているから、できるだけ教師から子どもへの直接指導を少なくするように指導する
○ 子どもは次の授業の準備をしてから机を離れるようにすること。
○ 子どもの発言は教師でなく、級友に向かって話すようにすること。
○ 聞き手は発言者を見て聞くこと。
○ 「教師→子ども、子ども→教師」でなく、「教師→子ども→子ども→子ども→教師」と発言が続くようにすること。
○ 45分の中に、ペア学習やグループ学習をできるだけ入れるようにすること。
○ いちいち子どもの世話をやかないようにする。子どもが自分から動くようにすること。
○ 授業は子どもの状況により、弾力的に軽重をつけてすること。
などである。

◎ 2学期
初任者は、授業にも余裕が出てくる。しかし、形式的なものが多く、子どもの主体性がなかなか出てこない。私の指導も1学期に指導したことの繰り返しが多い中で、できるだけ問題解決型の授業をするように指導する。
○「教師が問題を出し、子どもが答える」でなく、「問題は子どもがつくり、子どもが解決をする」ようにすること。
○ 課題(問題)解決は、できるだけヒントを与えないで、自力で解決するようにすること。
○ 一人学び→グループでの学び→全体での学びという手順で問題を解決するようにすること。
○ 教師の机間指導時は、赤鉛筆とノートを持ってすること、そして、子どもの考えを拾って全体指導に生かすこと
○ いろいろな考えを小黒板等を使って提示し、子どもたちのディスカッションにより、問題を解決できるようにすること。
などである。

◎ 3学期
初任者は、「聞く、話す指導」「話形指導」「ハンドサイン」「リレー発言」「ネームプレートの利用」「声のものさし」「座席の工夫」「発表調べ」「ワークシート」などにより、子どもの主体性を引き出そうとする。これは、初任者に関わらず多くの教師が使う方法である。しかし、これらは、一定の効果はあるが、長続きはしない。子どもは学習内容そのものに魅力がなければついてこないからである。先の指導のように、子どもにばかりに要求することでは無理がある。
 ここで大切なことは、教師の教材研究(解釈)である。どんなに子どもを鍛えても形式的な学習方法だけの指導では、子どもの学習意欲を引き出すことはできないからである。
私の指導としては、学習課題の質を上げるようにすることである。どうしても子どもが「やってみたい」「調べてみたい」「考えてみたい」というような魅力的な課題を提示することである。これには、相当教師が教材を研究(解釈)しなくてはならない。そして、それに伴う発問や指示を考え、できるだけ多くの子どもが学習に参加するようにすることである。課題がよくて、授業の展開の手順がよければ初任者でもかなりの授業ができる。子どもも喜んで授業に向かってくる。これは今までの私の経験で理解している。

 大変大雑把であるが、思いつくままに書いてみたが、これは初任者の傾向であり、全ての初任者にあてはまるものではない。また、指導者により、私の考え方とは違うのも当然と言えよう。



※ ブログリンク
・藍色と空色と緑のページ
・松明光明


ある若い教師への手紙

2011-03-25 08:20:01 | Weblog
  



私はこの3月で拠点校指導教員(初任者指導教員)を終えます。実質的には学校教育に携わる仕事のすべてがなくなると言えます。
 身辺の片付けをしていたら、下記のような「若い教師への手紙」の下書きが書類入れから出てきました。掲載して、多くの若い教師に伝えたいと思います。以下手紙の内容です。

 T先生が、私たちの勉強している「授業研究の会」に参加されたということで“驚き”ました。おっと失礼!いや、T先生が本物になってきたなと感じました。
 私も若い頃は身銭を切って、かなり遠くまで何度かこの「授業研究の会」や「学校公開研究会」に参加しました。それが今の立場になっても生かされています。もちろん、学級を担任している若いときのほうが役立ちましたが・・・。
 広く、深く、高く、豊かによいものを研修する機会など、めったにあるものではありません。校内研修や市教研、官制の研修では絶対に学べないものです。これらの研修は、おしなべて特徴がなく、平板なもので、子どもが目覚ましく育ったり、教師の力量が十分に付くとは言いがたいものが多いです。
 「授業研究の会」の研修は、公立学校を主にした教師や子どもを相手にしています。にもかかわらず、大学附属学校や私学の子どもたちよりも素晴らしい子どもや教師をつくり出しています。
 この「授業研究の会」の前身は斎藤喜博氏ですが、今後しばらくは、いや今後もずっとこのような偉大な教育者は出てこないだろうと言われています。その愛弟子である宮坂先生や大槻先生に直接指導していただけることは、夢のようなありがたさだと思います。40年余、教育の仕事をしてきた私が真底感じていることです。
子どもの幸せとT先生の教師としてのやりがい、生きがいのためにも、ぜひこの学びを続けていってください。よろしくね。

という手紙です。いま読みながら当時を懐かしく感じます。当時と言っても5,6年前のことですが・・・・。
 4月からはいよいよ新学習指導要領での授業が始まります。教科書が厚くなり、教える内容も増えますが、どうか本物の授業づくりをしてほしいと思います。

心に飯を食わすこと

2011-03-23 11:07:13 | Weblog



 宮大工の西岡常一さんが言っています。「体は飯を食わせれば大きくなりますが、心はそうはいきませんやろ。心の糧は五感を通して心の底に映る万象を正しうして蓄えること。これが心に飯を食わすことですな。この心に糧を与える手助けをするのが教育とうもんでっしゃろな。」
 すごいことをさりげなくおっしゃいますね。
 「心に飯を食わすこと」その一つに学校では保護者や地域の方、教師による本の「読み聞かせ」があります。子どもたちは、集中力や落ち着きを養われるだけでなく、物語などのイメージを豊かに味わうことになります。そして、読み手の愛情が一人一人にしみ透っていきます。子どもたちは生涯忘れません。
 今、子どもたちの現状を見るとテレビ、テレビゲーム、マンガ、携帯電話などの奴隷になりつつあります。大人も低俗な文化に侵されているように思います。子どもや大人の世界がこうでは、子どもはもちろん、世の中は一向によくはなりません。
 子どもたちも大人も、もう少し価値あるものや質の高いものを求めていかなくてはいけません。でなければ「心に飯を食わす」ことなどできるはずがないと思います。

東北関東大震災の義援金募金活動を行いました

2011-03-20 09:31:58 | Weblog



 3月19日、私も所属している「明るい社会づくり運動、静岡県浜北天竜地区協議会」では、東北関東大震災の義援金募金活動を浜北のサンストリート、アピタ、プレ葉ウォークで行った。
 未曾有の震災であり、多くの市民が被災者を心配し、募金に協力してくれた。
 男も女も、お年寄りも、若者も、いそいそと財布からお金を出し募金してくれた。
 親子連れは、一人一人の子どもにお金を持たせ、若い男女は、2人で相談しながら、お年寄りは、「大変なことになったね」と現地の思いを言葉にしながらの募金であった。
 たつた1時間40分で17万円余の募金が集まった。多くの市民の皆さんの協力に感謝したい。


「心」はだれにも見えないけれど

「心づかい」は見える

「思い」は見えないけれど

「思いやり」はだれにでも見える

 (民間広告ネットワークACから)

こんなにも多くの皆さんが震災地へ思いを募金というカタチで表してくれました。

「日本人は素晴らしい!」こんな思いです。



※「明るい社会づくり運動、静岡県浜北天竜地区協議会」の活動について

  歳末助け合い募金活動、新入学児童を交通事故から守る運動として毎年横断バックを市民の皆様の協力により贈呈、その他公共施設の除草清掃、愛の献血、青少年を守り育てる運動等を行っています。

平成23年度 授業研究の会(浜松の会)の御案内

2011-03-16 20:46:12 | Weblog




平成23年度 授業研究の会(浜松の会)の御案内

~「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」そんな研究会です~

 一つの授業にじっくり時間をかけて取り組んでいない。何をしても中途半端な授業になってしまっている。やっつけ仕事になってしまっている。おそらく大半の学校の教育の実態でしょう。
 それがあまり問題視されず、改善されないのは、子どものほんとの力の凄さを知らないからです。子どものほんとうの力を引き出すような授業の経験が少ないからです。だから子どもを見くびって「これでよし!」と思っているのでしょう。または、そう感じていても、どうしたらよいのかその方法を知らないからでしょう。これらの解決は、校内研修ではなかなか困難です。同僚や先輩教師に教えを請うても難しいことです。私の今までの長い経験で感じていることです。
この浜松の会では「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」をテーマとして研修しています。ここでの学びは、具体的であり、実際的であり、実質的なものです。それだけに確実に得るものがあり、上記のテーマの実現が可能です。
この会は、偏向的な教育や思想はしていませんので、安心して学ぶことができます。どなたでも自由に参加できます。まだ、参加されたことのない方は、是非覗いてみてください。
 多くの皆さんの参加をお待ちしています。

◎ 平成23年度の開催予定です。

1 開催場所 天竜壬生ホール第1会議室

2 開催日時(予定に入れておいてください)
  第11回4月 9日(土)9:00~12:00
  第12回5月14日(土)9:00~12:00
  第13回6月11日(土)9:00~12:00
  第14回7月 9日(土)9:00~12:00
 ※時間厳守ではありませんので参加できる時間で結構です。
 ※駐車場はあります。

3 研修内容
○ 国語を中心とした各教科
○ 音楽、図工、体育などの実技教科
○ 学級づくり
○ その他

4 準 備 物
○ 実践したもの(ある人)
○ 教材研究をしてほしい教材がある人(10部印刷持参)
○ 筆記用具
○ 国語辞典
○ 会費 300円
○ 服装は自由

5 この会の研修内容や実践の証、考え方は下記のブログをご覧になればおおよそ理解できると思います。検索してください。
① totoroの小道
② 藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践が掲載されています)
③ 松明光明

6 連 絡 先
河 島 秀 夫
自 宅 053-926-2366
携 帯 080-1565-8320

酒 井 哲 生
自宅 053-925-3111
携帯 080-5151-8308                  



(参 考)
         集中する力を引き出すのは教師の力      

  授業は、教師と子ども、子どもと子どものやりとりによってつくられます。不安定なものです。最初ははっきりしていることでも、やりとりが進めば進むうちにあいまいになることがあります。授業の集中が崩れるのは、ほとんどこのためです。
それを支え、持続させていくのが教師の力であり、授業の組織化と呼ばれることなのです。
「子どもというのは、集中する力を持っている。ただし集中する力というものは、教師がきびしく授業を組織する時だけ、その集中する力は引き出されてくるのです。子どもは集中すべき対象があると、ものすごく集中するのですけれど、対象がないと、とめどなく散乱するわけです」と林竹二氏(元宮城教育大学学長)は言っておられました。
追究の対象は、子どもたちの討議の間に消化され、姿を変えます。ですから、表面的なものにとらわれていたのでは、子どもたちの集中を維持し、学習を発展させることは困難です。
「子どもが集中するのは、授業の中に異なる視点からの異なる意見がたえずあって、それが子どもたちの考えをゆさぶるときである」と、すぐれた授業の実践者であった武田常夫は言っています。このような集中した授業の状態は、放っておいては持続されませんし、深まることはありません。教師が授業を組織する時に実現するものなのです。

(「授業の深さをつくるもの」横須賀 薫著 教育出版 1994年)
(横須賀 薫 1937年生まれ 元宮城教育大学学長 教員養成や授業に関する研究を主に行った)

棟方志功展から学ぶ

2011-03-10 22:02:59 | Weblog





「 民藝の巨匠たちとの出会い『ムナカタの原点がここにある』」を鑑賞した。
作品に添えられたいくつかの言葉から大切なものを教えられた。


○ ほんとうのモノは、名が偉くならずとも仕事がひとりでに美しくなるものだ。
( 柳宗悦から棟方へ) 

○ 遺憾ではあるが、本当のものは痛ましい中から生まれるものだ。
    (河井寛次郎から棟方へ)

○ 誰もがやっている、思いつく常識の範囲の中でやっても成果はなかなか上がらない


○ 仕事は淡泊であってはならない。


 ああ!素晴らしい言葉ですね。教育の仕事もこのようでのありたいです。

犬居小(4年生)で手品をしました。

2011-03-09 12:38:24 | Weblog




本年度で終える初任者研修の犬居小で手品をしました。演技時間40分


1シルクからステッキ

2ステッキが手に吸い付く

3バランス
・ステッキ
・新聞紙
・ラッケットとボール
・卵

4マジック
・マジックインキ
・3本ロープ
・見えないトランプの予言
・スケッチブック
・ジャンボカードモンテ
・ラッキー(ラッキー、ポッキー、うんちー)

5ジャグリング
・ボールとハット
・皿回し

6バランス
・折りたたみ椅子

「いじめ」を出さない指導が大切である

2011-03-06 17:29:43 | Weblog




「うざい」、「しね」、「きもい」、「じゃま」、「あっちえ行け」、「ばか」 ・・・ などは禁句である。学校内は当然だが、学校外でも同様である。
これとは反対に、「ありがとう」、「すごいね」、「いいよ」、「がんばっているね」、「すてき」・・・などは、言っているその人がやさしく明るく感じる。
「いじめに合う人間も強くなってほしい」と言う考え方は「こういう人間だから死ぬのは当たり前」と考えてしまうようになってしまう。だからその考え方は絶対にいけない。
 弱い人間を守るのは当たり前である。弱い人間をいじめるというのは、「その人が気持ち悪いだとか」「その人がいやだから」などだけではない。
多人数で1人をいじめるのも同じである。これらは最も卑怯なやり方である。
いじめは、授業中には起こらない。先生がいるからだ、大人がいるからだ。
いじめは休み時間に起こる。教師は休み時間こそ教室にいること、子どものトイレにいくこと、トイレはいじめの温床の場であるからである。
私が休み時間などにも教室を巡回するのは、子どもとの交流とともに「いじめ」が起こらないようにするためであった。

手足や体全体をどうする「表現活動(身体表現活動)」

2011-03-03 10:02:58 | Weblog


      
 教育誌「事実と創造」に田中憲夫(元宮城小学校長)の表現活動についての文がありました。私も同様に感じていることがありましたのでその一部を掲載させていただきました。

○「その気になる」・「楽しくなる」・「心地よくなる」
 小学校の子どもたちには、「表現活動(身体表現活動)」に取り組む時のキーワードは、「その気になる」ことだと思っています。
 子どもたちは、「その気になる」のでないと、形だけを追いかけ始めます。やたらと手を挙げたり、やたらと床を踏み鳴らしたり、やたらと動き回ったり、やたらとコビやシナをつくったり、等々。子どもたちは、「やたらと」することが「表現活動(身体表現活動)」だと誤ってしまうからです。  
 また、子どもたちは「その気になる」のでないと、パターン化した動きに流れていきます。「考えるポーズ=腕を組んで首を傾げる」、「怒りを表すポーズ=片足で強く床を鳴らす」、「相手を誘うポーズ=手招きする」、「喜びを表すポーズ=両手を交差させて上に回す」、「広々したことを表すポーズ=片手を水平に回す」等や、言葉の語尾を変に伸ばしたり、強めたりするのは全国共通のようで、各地の学芸会に見られる表現方法です。
 更には、子どもたちは「その気になる」のでなく、しかも何をしたらいいのか分からなくなると、突っ立ったままの何の表情・表現もしなくなります。こうなると最悪です。先生からは、表現力ゼロの子どもと烙印を押され、「表現活動(身体表現活動)」に取り組む度に、どうでもいい役に回されます。一方、子ども自身は、「俺はヘタクソなんだ」と自暴自棄になり、「表現活動(身体表現活動)」は、縁のないものと遠ざかっていきます。・・・・・・・。

 ※ この文章を読んで、私もまったく同じようなことを感じている。拙者の前ブログに掲載した「学習発表会の演技で留意すること」にも書いたとおりである。
 それにしても、この「その気になる」・「楽しくなる」・「心地よくなる」表現方法  は、指導者である教師がまず基本を学ばなければ、子どもに指導できない部分がある。それらは斎藤喜博の実践した本や映像(写真集・DVDなど)、宮坂義彦、大槻志津江先生の実践や研究会から学ぶことがよいだろう。