松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

受験の世

2010-05-31 09:33:41 | Weblog


 司馬遼太郎著「風塵抄」のなかに次のような文がある。学校関係者は読む価値があるのではないかと思い掲載した。

 人はなぜ学校へ行きたがるのか。
「学問したいから」
そのようにきっぱりー自分をあざむくことなくー言える人は、さほどに多くはない。
 学問をするというのは、かがやくような心構えがいる。まず、子供が一定の好みのもとに物を収集するというように、できるだけ多くの知識を記憶せねばならない。
 記憶するだけでは、学問にはならない。知識群を手がたい方法で分析し、また独自の仮説をうちたて、あたらしい理論を構築しなければならない。
 今後の日本に必要なのはそういう能力群なのである。・・・・ぜひ、創造の志を持つ若者こそ、学校に行ってもらいたい。たとえ学者にならなくても、世の中によき活性をあたえてくれる人になるちがいない。

 受験制というのな、社会を仮に秩序つける上でのすばらしい催眠作用をもっているのである。
「自分が大学(あるいは高校)にゆけなかったのは不勉強で受験に失敗したから」
とか、
「自分の受験の能力ではその程度の大学しか行けませんでしたので」
と、スポーツの勝敗のようにだれもが自分を自分でなっとくさせている。
 敗者は、その後、悪しく処理されても、右のこの自己規定によって社会的に爆発を生むにいたらず、むしろ子の代に、受験の勝者になることを期待する。

 まことに世の中が挙げて受験のゲームをしている。学問とも創造とも、あるいは教養ともかかわりなく、ひとびとは世の安寧秩序のためにこの遊びに熱中している。

 問題は、その仮象のゲームに敗れるか、参加できない人たちが、どのように価値ある人生を送るべきかということである。
このもっとも重要なことについては、両親も学校も、さほどに知恵のある思案をしていそうにない。
 できれば高校・中学ごとにこのためのボランティアの賢者の委員会でもつくるべきではないか。
 むろん、賢者たちは既成の価値観を批判する能力をもってくれねばこまる。さらにはすでに足もとに潮がさしはじめているあたらしい社会についての想像と認識をももってもらわねばならない。単に老人たちが過去のゲームを語るようではこまる。


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子どもの顔がきれいになるとき

2010-05-28 21:49:22 | Weblog


○感謝しているとき
○感謝されるとき
○褒められたとき
○何かに挑戦しているとき
○難しいことができたとき
○自然の中におかれたとき
○素晴らしい芸術作品にふれているとき
○自分から表現しているとき
○内容のある話を聴いているとき
○多人数で遊んでいるとき
○美味しいものを食べているとき

こういう世界を子どもの中に多くつくってやりたい。

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国語の教師用指導書について

2010-05-25 20:35:32 | Weblog

  立松和平の6年国語文学教材「海の命」のことについて、前回のブログで書いたが、これをご覧になったtotoroさんから次のようの案内があった。

 それは、「立松和平『海の命』を読む 山本欣司著の文」である。
 この文章は「海の命」の主題、解釈がとてもよく分かるように書かれており、興味深く一気に読み終えることができた。

 ここでは、その内容は割愛することにし、山本欣司さんが「国語の指導書」にふれて書かれたところがあったので紹介する。
なぜならば、私も日ごろ同じように感じていたからである。
山本欣司さんのこの文章で、ぐんと我が意を強くしたのである。

それでは以下紹介します。

 「海の命」を考えるにあたって、実践報告や論文とともに、○○図書と○○書籍の教師用指導書を参照した。
 ところが、指導書を手にとって驚いたのは、教材についての解説がたいへん少なく、紙数の多くを活動案(指導のバリエーション)に割いていることである。
 そして、内容の解説がほとんどない。これには強い違和感を覚えた。

 唯一絶対の正解を児童・生徒に押し付ける国語の授業の息苦しさは理解しているつもりであるし、「文学的文章の詳細な読解に偏りがちであった指導」に疑問が投げかけられ、軌道修正がはかられていることもわかる。
 小説を扱いならがも、「読むこと」にこだわらない多様な授業を目指すべきであろう。

 だが、どのような方法であれ、魅力ある授業を展開するためには、教材を深く理解する上でのポイントを教師が正確に把握していることが前提となる。
 教科書教材として選び抜かれた小説の一つには、奥行きのある主題や解釈の困難な表現、ひねりのきいたプロットなど、さまざまな特徴・工夫が込められているはずである。

 教室で児童・生徒同士に話し合わせる前の、教師自身の発見の場として、指導書の果たす役割があるのではないか・・・。


 引用は以上である。どうでしょう、あなたも同じようなことを感じませんでしたか。

 ※「立松和平『海の命』を読む 山本欣司著の文」の全文をご覧になられたい方は、私の5,22のブログ、立松和平さんと「6年国語『海の命』の授業」のtotoroさんからのコメントをご覧ください。案内があります。

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立松和平さんと「6年国語『海の命』の授業」

2010-05-22 20:29:34 | Weblog


 追求方式の授業の6年生国語「海の命」を何回か参観したことがある。どの授業も教師の教材解釈が深く、子どもたちも言葉や文に拘り、集中して学んでいた。
ところで立松和平さんが亡くなられてどれくらい経つのだろうか。栃木弁のなまりで、ぽつりぽつりと話す。何て純粋で朴訥で正直な人だろうといつも思っていた。
 誰が言ったのか知らないが、立松和平さんを「真面目で途方に暮れていた人」と評していたが、ほんとうに私も同じように感じていた。
 さて、こんな立松和平さんが書いた6年国語(光村図書)「海の命」の授業を何回か参観したことがある。三重県の森川先生は、次のように教材を解釈していた。

本当の一人前の漁師になるためにふさわしい獲物である大きなクエを求めて、太一がこの瀬にもぐるようになってから一年が過ぎた。そして突然、自分で納得できる大物のクエに出合えた。太一は、そのクエを挑発するが、クエは全く反応もせず、ただ太一を見ているだけだった。その姿を、太一は殺されるのを望んでいるかのようにさえ思った。
 無抵抗で殺されたがっている魚を殺すことで、本当の一人前の漁師になることを証明しなければならないことは、太一にとっては不本意以外の何でもない。太一は情けなくて泣きそうになる。しかし、情けないことであるけれども、本当の一人前の漁師になりたい太一は、それを実行しなければならないと思っている。
 この追い詰められた状況のなかで、太一は、そのクエの姿から、本当の一人前の漁師になるという自分の欲望は、あまりにも利己的なものであったことに気づかされる。そのことを教えてくれ、そして殺すという行為を躊躇させてくれたクエを、父そのものであると思うことで、太一は「殺さなければならない」という束縛から解放される。

授業の展開と主な発問では、①「ふっとほほえみ」~なぜ殺すのをやめたのか。②「泣きそうになりながら思う」~なぜ泣きそうになるのか。③殺さなかった原因は何か。④クエを父と思ったのはどうしてか等によって、太一の心の変化を捉えようとした。子どもたちは自分の考えを持ち、それを出し合い、辞書を引き、文章を分け、言葉や文に着目し、根拠を話し合うことにより真実を読み取っていった。

光明小の酒井先生、平野先生の「海の命」の授業もすごいものであった。今でも子どもたちの学びや教師の姿が鮮やかに目に浮かんでくる。
こんな授業を思い出す度に、私は恐れ多いことではあるが、これらの授業を立松和平さんにも見てほしかったと思うである。
立松和平さんは、いったいどんな感想を持ってくれるであろうか。・・・今となってはもう遅いのだが・・・・・。


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授業の見方、授業のあり方

2010-05-19 19:33:04 | Weblog
【 5月木漏れ日の影 】

  これは、安里盛市著書「林 竹二・斎藤喜博に学んで」一莖書房発行の本からの抜粋である。今教育界では、私を含めて多くの先生方が授業を大変形式的に見ている。見ようとしている傾向がある。「ほんとうの授業とはどういうものか」ということをあまり知らないとも言えよう。そこで、授業の見方、授業のあり方に関して、なるほどと思われる文章があったので、その一部を抜粋し掲載してみた。授業は、林 竹二先生の「人間について」の授業を参観した安里盛市先先生と授業を受けた子どもたちの感想による。
○ 林 竹二先生の授業の特徴は、子どもたちが、いやでもおうでも、考えざるをえないような問題を投げかけることから出発する。・・・その問題は、いともかんたんに解決がつくようにみえて、その実、とてつもない大きな問題につながっているということである。そのことが、それ以後の授業展開の伏線となって、重要な役割を果たしている。
○ はじめから教えたいことを言わないで、ある一つのことを問題として出し、考えさせる。それは一つ一つの問題から解いていくと、それと関連づけて考えることもできるし、はじめの考えと先生の話を聞いたあとの考えを変えることができるからだ。〈子どもの感想から〉
○ありあわせの知識や思いつきの考えにゆさぶりをかけることである。・・・「何を今さら」と、思うようなかんたんな問題に見える。それを、いきなり開きなおって問いかけるところにゆさぶりの効果が現れる。
○ふだんよく発言する子どもであるが、そういう子どもが発言をひかえているということは、思考を停止しているのではなくて、より深く考えようとしているからである。よい授業とは、子どもの発言の多少によって決まるのではない。むしろ、ときには重い沈黙の中に、思考活動が行われている場合もある。
○具体的な資料の提示や説明によって、子どもたちの浅い認識を変えていくことである。・・・資料がこれほど子どもの認識を変えるのに役立つものとは思っていなかった。しかし、資料は単独で、それほど効果を発揮することはできない。投げつけられた問いと相応し、教師の説明によって価値づけられたり、逆に説明を強化する作用を伴ったりして、より以上の効果を発揮するものと思われる。
○林先生の授業は、問答によって進められるのであるが、どちらかといえば、教師の話す時間が多いということである。しかし、それは教師が一方的に教えてしまう授業とは本質的に異なっている。子どもの思考をゆさぶり、常識的な思考を捨てさせ、本質的なものへと子ども自身が目を開いていけるように、そのために必要なことについて説明したり、反論したりして進められるのである。また、授業の体裁を整えることに腐心したり、子どもの発言の活発さによって授業のよしあしをあげつらう立場とも相容れないものである。
○授業に集中しているときの子どもの顔は刻々に動いていく。ときにはうなずき、にっこり笑い、ときにはとまどいを感じたり、深く考えこんだりする。そういうときの子どもの表情ほど美しいものはない。授業に参加していることの証は何も言語活動だけではないはずである。子どもの内面に何ごとかを起こさせ、自己変革を迫るような授業を現実に見ることによって、そのことをはっきりと知ることができる。〈今まで人間のことを知っていたようで何も知らなかった私。そのことがわかった時のうれしさは今でも忘れられない。なにも発表をしなかったけれど、くいはなかった。それだけに自分は納得したつもりだから〉〈林先生の教え方はとても好きだ。一つの問題を一時間もかけて、いろいろな意見を出してもらうというやり方だ。私は一回も発言しなかったが、今でも後悔しているどころかもう一回、林先生の授業を受けたいと思っている。〉
 私たちは、ややもすると子どもの発言だけで、授業に参加しているかどうかを判断しがちであるが、もっと観点を変えて、子どもの内面の動きから授業の質的な深まりを判断する必要がある。林先生から送っていただいた写真を見て授業に集中しているときの子どもの顔が、こんなにも豊かで美しいものだったのかと驚いたのである。
○林先生の授業の意味するもの・・・それは、私たちに教師が長い間の惰性で、ある一定のわく組の中でしか、ものを見たり考えたりすることができなくなった者に、自由なとらわれない立場から、授業というものを、事実を持って、いくつかの重要な提言をされていることにあるのではないだろうか。

※ 私たちは、授業をいかに観念的に見ているか、捉えているか、評価しているかを思い知らされる。授業のあり方を観念的に考えるのでなく、具体的な事実にもとづいて考えないかぎり、見ないかぎり、簡単には理解できないであろう。
ここに書かれたことが真に理解できるためには、本物のよい授業を多く見ること、自分で経験することが必要である。そうでなければそのよさは決してわからないであろう。そしてそれが理解できない教師は、相変わらず観念的で形式的な授業をしているだけである。さらに、そのような教師は、他人のどんなに優れた授業も観念的で形式的な見方で評価し、批判するだけであろう。
国語で言うならば、1時間の中に、読む、書く、討論、グループ学習、板書指導、机間指導、補助簿等がなければよい授業とは言えないとか、発言者が少なかったとか偏りがあったなどという表面的なことのみで授業を評価しているかぎりは、授業や子どもは変わっていくはずはないと考える。大切なことは、もっと子どもの顔の表情や体のしぐさなどを敏感に鋭く捉え、一人一人の子どもの内面の動きまでをも的確に読み取る努力をすることによって、真の授業のよしあしを学ぶことができるのである。 (河島)

第1回 授業研究の会(浜松の会)が開催された

2010-05-17 23:18:23 | Weblog

 酒井先生のご尽力で、第1回 授業研究の会(浜松の会)が開催された
どのくらいの参加者があるだろうかと心配したが、何と15人もの先生方が参加してくれた。
 参加された先生方の多くは、私や酒井先生と一緒に、光明小学校で授業づくりや学級づくりに努力された先生方である。そして、素晴らしい学校、目の覚めるような素敵な子どもたちを育んでくれた先生方である。
 これらの先生方は、現在は、新しい学校に転勤されているが、今一度、その時の教育を取り戻したい、また一層勉強して力をつけたいと集まってくれたのである。参加された先生方の近況報告の中にその強い願いが込められていることがわかった。私はそれを聞きながら、やはり当時実践した教育法は、本物であったのだなと嬉しく感じた。
久しぶりにお会いした先生方であったので、近況報告等が長引き、今回は十分な時間をつかっての研修ができなかったのがやや残念であった。しかし、この会ならではの充実した研修ができた。詳しくは酒井さんのブログ(totoroの小道)を見ていただきたい。
 話は変わるが、私の若い頃は、こういう自主的な研修会は、あちこちに結構あった。しかし、現在は残念ながらほとんどない。だから、新しいものが生まれようはずがない。この研究会を大切にしていきたい。

 研修内容は以下であった。

1 さいさつ
○ 本物の教育を求めていく。
○ 授業を通して、「学力」「創造力」「豊かな心」を養う。
○ 追求型の授業により「知識の習得」と「思考力」「活用力」の育成を  同時的に行う。追求型の授業はそれが可能である。
2 近況報告
3 会の趣旨説明
○ 子どもの全員参加の授業をめざす。
○ 互いに実践をし、それを持ち寄る。
○ すべての子どもに満足感を与える授業づくりをする。
4 実践発表
 図 工
○ 1年「歯を磨く子ども」
○ 3年「にらめっこ」
5教材解釈
国 語
○ 6年 短歌と俳句の教材解釈
   「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」
○ 3年「きつつきの商売」の教材解釈
6 次回の予定等

高貴なコドモ

2010-05-13 21:16:47 | Weblog
 
           高い文化にふれる「オペレッタを表現する子どもたち」
 

 司馬遼太郎著「風塵抄」の一節に次のような文がある。
 ふつう世間に早く出すぎると、自分のなかのコドモの部分が干からびてしまう。人間はいくつになっても、精神のなかにゆたかなコドモを胎蔵していなければならない。でなければ、精神のなかになんの楽しみもうまれないはずである。
 いい音楽を聴いて感動するのは自分のなかのオトナの部分でなく、コドモの部分なのである。また小学生のだれもが、担任の先生を尊敬するように、他者に偉大さを感ずるのも、コドモの部分である。
 小学生は、清楚な女性教師に聖性を見出す。この精神が生育してゆくと、青年期になって充実した恋ができる。不幸にも若くしてコドモを干からびさせてしまった場合。具体的なものー性愛ーにかたよらざるをえない。
 人は終生、その精神のなかにコドモを持ち続けている。ただし、よほど大切に育てないと、年配になって消えてしまう。

 私はこの文を読んで、改めてコドモ(小学生)の部分のあるうちに、子どもたちに素晴らしい文学や芸術に触れさせることの大切さを感じた。これは教師にも親にも言えることである。しかし、意図的な教育をしている教師においては特に重要であると思った。

授業研究の会(浜松の会)案内

2010-05-08 16:00:23 | Weblog



皆さんお元気ですか。学級づくりは上手くいっていますか。授業が惰性に流れていませんか、形式化していませんか。これでよしとしていませんか。子どもたちのために、よりよい学級づくりや授業づくりをしていきたいですね。
さて件名のとおり、授業研究の会(浜松の会)が開催されます。おそらく近隣では学べない、質の高い勉強ができる会だと思います。この会は、偏向的な教育や思想はしていませんので、安心して学ぶことができます。どなたでも自由に参加できます。多くの皆さんの参加をお待ちしています。

授業研究の会(浜松の会)

1 開催日時  平成22年 5月15日(土)9:00~12:00
2 会  場 天竜壬生ホール(二俣町)
3 研修内容
① 国語を中心とした各教科
② 音楽、図工、体育などの実技教科
③ 学級づくり
④ その他
4 準 備 物
○ 実践を見てもらいたいもの(ある人)
○ 筆記用具
○ 辞典
○ 服装は自由
5 連絡先
河島秀夫
自宅 053-926-2366
携帯 080-1565-8320

教師の専門性とその効果

2010-05-05 13:55:26 | Weblog
 
                  職人芸「飴細工」づくり
 

 教師の仕事は多岐に渡っていが、その中で一番大切なのは授業である。そのためには、教材調べ(教材研究、教材解釈)があり、次に授業構想(単元・それぞれの1時間)、教師としての課題づくり、発問づくり等である。次に大事な仕事は、子どもの提出物をチェックするなどであろう。これらが十分できれば、かなり楽しい授業、分かる授業ができるだろう。子どもの生徒指導上の問題も半減するものと思われる。
 しかし、現実には、あまりにも教育行政からの提出書類、出帳等の仕事が多い。また、校内においてもどうでもいいような仕事を持ち込んでしまうこともある。これでは前述した仕事ができにくくなってくるのは当然である。
 教育行政も学校も何が子どもの教育にとって大切なのか、もっと考えなければならない。そのことが子どもの教育効果を上げる近道だからである。