高い文化にふれる「オペレッタを表現する子どもたち」
司馬遼太郎著「風塵抄」の一節に次のような文がある。
ふつう世間に早く出すぎると、自分のなかのコドモの部分が干からびてしまう。人間はいくつになっても、精神のなかにゆたかなコドモを胎蔵していなければならない。でなければ、精神のなかになんの楽しみもうまれないはずである。
いい音楽を聴いて感動するのは自分のなかのオトナの部分でなく、コドモの部分なのである。また小学生のだれもが、担任の先生を尊敬するように、他者に偉大さを感ずるのも、コドモの部分である。
小学生は、清楚な女性教師に聖性を見出す。この精神が生育してゆくと、青年期になって充実した恋ができる。不幸にも若くしてコドモを干からびさせてしまった場合。具体的なものー性愛ーにかたよらざるをえない。
人は終生、その精神のなかにコドモを持ち続けている。ただし、よほど大切に育てないと、年配になって消えてしまう。
私はこの文を読んで、改めてコドモ(小学生)の部分のあるうちに、子どもたちに素晴らしい文学や芸術に触れさせることの大切さを感じた。これは教師にも親にも言えることである。しかし、意図的な教育をしている教師においては特に重要であると思った。
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