松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

似ている国語教材の解釈から

2010-03-30 22:14:59 | Weblog


◎その1
大造じいさんとがん
残雪の目には、人間もはやぶさもなかった。ただ、救わねばならぬ仲間の姿があるだけだった。
いきなり、敵にぶつかっていった。そして、あの大きな羽で、力いっぱい相手をなぐりつけた。

スーホの白い馬
大きなおおかみが、ひつじにとびかかろうとしています。そして、わかい白馬が、おおかみの前に立ちふさがって、ひっしにふせいでいました。

上記の2つの教材文での共通性
○残雪(がん)とやぶさの関係はどうか
 残雪(雁)= 冬鳥。湿原、沼などに群生しする。食物は雑草、穀類、野菜などが主である。
 はやぶさ = カラスくらいの大きさ、小鳥からハト、ガン、カモなどを捕食、獲物の上空から下方の獲物に向けて滑空して加速し、獲物を足で蹴り落とす。蹴落とされた獲物は、ほぼ即死か、失神状態であり、それを空中でキャッチする。このようなダイナミックな狩りをするのはハヤブサだけである。
つまり、残雪は当然勝てそうもないはやぶさに対峙している。挑んでいる。
○白馬(馬)とおおかみの関係はどうか
 白馬(馬)= 草食動物で、他の動物や人間に対して攻撃的な性質のある生き物では決して。馬はツノもないし、牙もありません。自分の身が危険になるような所から遠ざかる本能があります。
 おおかみ(狼)= シカなどの大形獣のほかネズミなどの小動物も食べる。
※残雪とはやぶさの関係と同じように、白馬も勝ち目のないおおかみに対峙しているのである。
文章を読み取るときに、子どもたちにこのことをきちんと調べさせておく必要がある。でないと残雪や白馬のすごさ、大造じいさんやスーホの気持ちがしっかり理解できないと考える。
◎その2
大造じいさんとがん
 仲間がえさをあさっている間も、油だんなく気を配っていて、りょうじゅうのとどく所まで、けっして人間を寄せつけなかった。
※りょうじゅうを持った大造じいさんの動き、残雪の動きを子どもにやらせて、イメージを深める。
スーホの白い馬
 白馬が、おおかみの前に立ちふさがって、ひっしにふせいでいました。
※おおかみの動きに対して白馬の動きを子どもにやらせて、イメージを深める。
立ちふさがる=前に立ってさえぎり止める。立ちはだかる。
ふさがる=つまる。一杯になって他のものが中へ入れなくなる。
上記の場面も2つの教材の共通性がある。その1もその2も追求型の指導で大切にしている2項対立の問題ではないが、文章を深く味わうとかイメージを豊かにするものとして重要な指導ではないだろうか。ここでは2教材を例として考えてみたが他にもこういう共通性がたくさんあるのではないだろうか。

taigar先生の授業、学級づくりから

2010-03-27 22:53:11 | Weblog


 私は、taigar先生の勤務する学校には週1回、初任者の先生のお手伝いで勤めている。したがってtaigar先生の学級には、初任者の先生の指導の合間に外からチラッと垣間見るだけであり、詳しくは分からない。しかし、taigar先生の学級の掲示板にある図工の絵や版画の作品、朝のグランドを走る子どもたちの様子、体育館へ出入りする子どもたちの歩く姿などを見ていると、「ああ、よい仕事をしているなあ」と感じてきた。また、先日は国語「大造じいさんとがん」の授業を一時間参観させていただく機会に恵まれた。予想通りのよい授業であった。ここではtaiga先生の授業を中心に少し書いてみる。

5年国語「大造じいさんとがん」の授業から、授業の展開を順を追って概略を記してみる。
1、会話文をどのように読むか
 最後の場面での大造じいさんの会話文は、次のようになっている。
 「おうい。がんの英ゆうよ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやり方でやっつけたかあないぞ。なあおい。今年の冬も、仲間を連れて、ぬま地にやってこいよ。そうして、おれたちは、また、堂々と戦おうじゃないか。」

会話文には次のようなケースが考えられる。
 「お~い、○○先生、宿題を減らしてよ」を例にすると、
①残雪が目の前にいて、声を出して言った。
②残雪が目の前にいて、声を出さずに言った。
③残雪が目の前にいなくて、声を出して言った。
④残雪が目の前にいなくて、声を出さずに言った。
この4通りに大別できるだろう。①の場合は、残雪に、大造じいさんの声が伝わる。しかし、②③④の場合は伝わらないと考えてよい。
 大造じいさんの場合は、①~④のどのケースであろうか。おそらく①と考えてよいだろう。ただ、相手が人間でないから、言葉は伝わらない。従って、大造じいさんは、残雪に対して言ってはいるが、自分に向かって言っていると解釈できる。これは、推測ではあるが平野先生の解釈と考える。
ここの会話文を平野先生は次のように授業を展開された。

Tこの会話文を5つに分けてみよう
C「①おうい。がんの英ゆうよ。②おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやり方でやっつけたかあないぞ。③なあおい。④今年の冬も、仲間を連れて、ぬま地にやってこいよ。⑤そうして、おれたちは、また、堂々と戦おうじゃないか。」
Tこの会話文で気になった文はどれですか
C②と⑤です。
T②を取り上げて、大造じいさんさんの気持ちがよく表れている言葉はどれですか
C辞書を引きながら、気になる言葉を選ぶ
C「ぞ」を選ぶ
C「ぞ」は、判断や考えを強めている意味です。
Tでは、大造じいさんの判断とは何ですか。
Cひきょうなやり方です
T⑤の文はどうですか
C「か」に注目します
T「か」を辞典で調べると5つあるよ
アうたがいをあらわす。
イ誘いをあらわす。
ウ依頼をあらわす。
エおどろきをあらわす。
オ自分の決心を強くあらわす
Cア~ウの意味を使って短文をつくる
Tこの教科書の文の「か」はどれだろうか
Cイが15人、オが15人となる
Cそれぞれどちらなのか理由を考える
C自分たちで話し合う
C数十分子どもたちでアが相応しいのかオが相応しいのか自由討論する。
T時間内に決着しないので次の時間にやることにしましょう
C「えー、終わるの」「2時までやろうよ」

おおよその流れは以上である。私の見た授業の感想
①子どもたちは、教師や友だちの発言をよく聞いている。
②グループの話し合いがサッとできる。
③辞書を引いて、文に当てはめて考えることができる。
④自由討論ができる。
⑤子どもの心が開かれている
⑥反応がよい。生き生きしている
⑦終了時間がきても集中して話し合っている。
等である。いずれにしても追求型の授業によって子どもがよく育っている。

その他、このクラスの様子いついての感想
① クラスの背面黒板には、多くの子どもたちが「最高の1年であった」と感想を書いている。
子どもたちの多くがこの学級であったことが「最高の1年であった」と言っている。これは担任教師としてほんとうにうれしいことである。自分で築いてきた学級づくりが子どもたちにしっかりと受け入れられた証でもある。
② 朝運動場を走る、長縄跳びが上手い
この学級の教師と子どもが約束をし、実践をする。それも喜びを持って行う。そのことが学校行事での持久走大会や縄跳び大会での好成績につながる。学級全体の連帯感や所属感も強めることにもなった。
③ 図工作品がすごい。(タケノコ、腕相撲、アジサイ、椿の版画の作品)
丁寧に見る、描く、色塗りする、彫る。この指導が全員の子どもの素晴らしい作品につながる。また、このことは同時に子どもたちの心をもつくることにもなる。
④ 体育館への出入りの移動が静かできちんと歩ける。
「体育館に並んで静かに移動する」「用具の準備をする。後片づけをする」などを大切にしている。何でも主活動というものがあるが、その前後がしっかりできなければ主活動は上手くできないと考える。
1年間でよい学級、子どもをつくったなと感心した。taigarさんは、職人的な仕事をする。ある期間に必ず子どもを理想の姿に育てるところが凄いと思う。今後のさらなる発展、活躍を期待したい。


土に書かれた感謝の言葉

2010-03-24 20:36:19 | Weblog
  今日(19日)は小学校の卒業式があった。子どもたちは、教師や在校生や両親に、そして校舎や校庭に感謝し、別れの言葉を告げた。
  卒業式は、子どもたちを真剣にさせ、子どもが本来持っている素直さや誠実さを引き出す大きな力を持っている。
  私の勤務している小学校の卒業式もそうであった。
  子どもたちは、「感謝の言葉」や「別れの言葉」を告げ、卒業の歌をうたう中で、いっそう美しく輝いていった。 
 6年間のさまざまな思い出が胸に去来し、参加した子どもも教師も保護者も涙した。
  さて、私が帰宅時に学校職員玄関の戸を開けたとき、敷地内の地面に「やなぎだ先生!!ありがとう」いう大きな文字が目に飛び込んできた。
 卒業した子どもたちが最後の最後に、この教師に伝えたかったと思われる言葉である。土の上には、大きく力を込めてと書かれていた。その下には4~5人の子どもの名前も記されていた。
 それを見た、私は、「おっ!」と、びっくりした。その後、笑いがこみ上げてきた。「う~ん、何と粋な演出であろうか」・・・・・と。
 いや、子どもたちは、そんな演出のことなんかは少しも考えてはいない。どこに書けばよいのか、どこに書けば先生に読んでもらえるのか、そして感謝の気持ちが伝えられるのか、真剣になって考えた末のことであろう。
 この場所に「感謝の言葉」を書くまでの子どもたちの心の動きを想像してみると、何とやさしい子どもたちだろうとしみじみと思うばかりであった。
 私は急いで持っていたカバンの中からカメラを取り出し、この感激と文字の消えないうちにシャッターを切った。

初任者研修を終える

2010-03-18 21:10:21 | Weblog


 1年間の初任者研修指導を終えた。私は4校に勤務し、4人の初任者のお手伝いをさせていただいた。
初任者は本人の努力はもちろんであるが、校内の指導教員や多くの先生方の示範、模範指導によって、教師としての力量を確実に身につけることができた。今後、大いに楽しみである。しかし、まだ何と言っても1年であるので、不足なところは多々ある。
私は初任者には、「教師という職業は教えることは得意であるが、教わることは大変苦手である。だから、いつでも自分がまだまだ未熟であることを自覚して、他から貪欲に学ぶようにしなさい。」と話している。だから先輩の授業を見せてもらったり、他校の研究発表会に参加したり、教育書を読んだりすることの大切さを話した。また、自分の授業を振り返って改善することの大切さも話した。
 私は多くの現場の教師を見ていて、事務的な仕事の忙しさにどうしてもかまけて、大切な授業の勉強ができていないことを強く感じている。何年やっても教師の授業が変わっていないように思われる。教師の授業が変わらない限り、子どもは変わらない、学校も変わらないのである。故に初任者には、このことを強調したのである。よい仕事ができる教師になってもらいたいからである。
 私はこの仕事に就いて2年目を終えた。この間、初任者の学級の子どもたちの授業を見たり、一緒に給食を食べたり、掃除をしたりした。休み時間には、子どもと縄跳び遊びをしたり、鬼ごっこをしたり、ボール遊びをしたりした。さらに学校行事である運動会や学習発表会、卒業式にも参加させていただいた。運動部活の練習もお手伝させていただいた。ほんとうに楽しく充実した2年間であった。勤務させていただいた学校の校長先生をはじめ多くの先生方に感謝している。
 来年はこの仕事の3年目に入る。よりよい仕事ができるように、いっそう勉強し、改善を重ねていきたい。

追求型指導の特徴

2010-03-15 15:23:18 | Weblog

追求型指導の特徴を私なりに考えてみた。

①教材研究から教材解釈へ

②教材の分析による指導

③発問や課題のタイプ

④集中と開放

⑤対応する力

⑥子どもの主体性

⑦丁寧さと継続

⑧主活動前後の指導

⑨子どもの心身を開く

⑩形式性からの脱皮

小中一貫教育の危うさ

2010-03-09 19:01:26 | Weblog



 小中一貫教育が推進されようとしているが、それがどれほどの吟味があって行われようとしているのかやや心配である。「一貫」といった気持ちのよい言葉のよさに惑わされているとも感じられる。なにせ、日本の教育は形ばかりが先行するきらいがあるからである。
 小中一貫の教育で、何をねらうのであろうか。小学校教育の何を大切にするのか、中学校教育の何を大切にするのかを考えなければならない。そうしないと中学校での出口である高校受験に向けての効率のよいだけの教育になりはしないかと心配する。
 小中一貫とは、教育課程のスムースな接続、一本化であろう。それだけにともすると上に合わせる、つまり中学校の教育に合わせるようになるのではないかと危惧する。小中の授業を一本化することや共通化するのは至難の業であろう。
 例えば、中学の先生が小学校の授業を参観すると、「小学校はほんとうにきめ細かくて丁寧に教えている。授業における準備もすごくやっている。子どもの考えや疑問をしっかり聞いて、子どもに即した授業を組み立てている。私たち中学校の教師は、小学校の授業から学ばなければならない。」と、よく言われる。しかし、一方では、「小学校の授業は何をのんびりとやっているのか、あれでは教科の進度は遅れてしまうのではないか。子どもの創造性や可能性を引き出すというけれど、そんなことをしていたら高校受験は間に合わないよ。」とも言われる。それはそのとおりであろう。だから中学校の授業は教師の解説が多く、教師中心の授業にならざる得ない。まるっきり指導法が小中では異なるのである。これだけを考えても小中一貫教育は難しいのだ。
 よく、教育の本質を言うとき、文科省などは、人間教育とか、子どもの可能性とか、創造性とかを大切にと言うが、はっきり言って中学校では、これらを子どもに育むことは現状では難しいのではないかと思う。やはり小学校には小学校の教育があり、中学校は、これでよいとは言わないまでも、中学校には中学校の教育があるのではないかと感じる。だから「小中一貫教育」と簡単に言うがよく考えてもらいたいものである。


努力することが嫌いでない

2010-03-04 21:02:11 | Weblog


 「百分の1秒の重み(スケート靴の刃半分の長さ)をソチ5輪につなげたい」よくぞまあ、凄いことを言われる。これはバンクーバー冬季オリンピックスピードスケートの「女子追い抜き」で銀メダルに輝いたチームの弁である。
 どうしてこんなに努力するのか、私には考えられない。だが、こういうことは、すべてのオリンピックの選手に言えることである。
 しかし、私が思うことは、オリンピック選手って無茶苦茶に努力しているんだけど、あれは当人にとってはそんなに大変ではないかもしれない。大変だけど苦痛でないと感じているのではないか。そうでなければできるのものではないと思う。
 努力していることが本人は努力と感じていない。努力することがいやじゃないのではないかと思う。
 スポーツ選手は挑戦することに生き甲斐を見出している。あと何秒タイムを縮める、あと何メートル遠くに行く、あと何センチ高く跳ぶである。
 だけど考えて見るとこれはスポーツ選手の世界だけのことではない。普通の私たちの暮らしの中でも、自分がこんなことをしてみたい、こんなことをやってみたいと挑戦することは、そこら中にあるのではないか。
 自分の職業の中にもきっとあるはずである。それをやるかやらないかで大きな成果の違いが出てくる。
 「努力することが嫌いでない」そんな自分をつくっていきたい。

学校教育の「質」をどう高めるか

2010-03-01 12:59:27 | Weblog


 クオリティ「質」に対する言葉はクオンティティ「量」であって、とかく学校教育はあれもこれもと盛りだくさんになりやすいが、量的な対応が多くなると形式的に「教育内容をこなす」ことだけに精一杯になりやすい。
 実のところその危惧は新教育課程にもある。主要教科の授業時数のみでなく、新たな教育内容が盛り込まれたことから「教育内容の変化に対応できない」という教師が増加しているという実態がある。加えて、地域や保護者からの要望が多様化していることもある。
 与えられた教育内容をこなすだけの「あるがまま」の学校教育に安住するのではなく、教育の質を高める学校教育を創り出すというクオリティ・スクールの実現が、これからの学校が目指すあり方になると考える。
                      教育創造研究センター所長 高階玲治

 上記の高階玲治所長の「学校教育の『質』をどう高めるか」は大変重要なことが述べられている。そもそも新学習指導要領は、日本の子どもの学力低下のために、学びの「量(内容・時間数)」を増やすといった発想から改訂されたものと言ってもよいだろう。学びの量を増やせば学力が向上するという短絡的な考え方である。教育現場を知らないものの考えである。
 学びの量を増やすということは、教師中心の授業になり、教え込みの授業になり、子どもの思考力の育みを阻害するとともに、学習の楽しさをも奪う、そのために学習嫌いの子どもを増やしてしまうということを考えなければならない。学力低下を防ぐという目的が逆に学力低下を助長してしまう結果にもなるということも考えなければならない。