先日、私の受け持っている初任者が4年生の国語「一つの花」の授業をした。この初任者も私の指導をよく聞き入れていただき、よい学級づくりや授業づくりをしている。
今回の国語の授業でも子どもたちがよく集中して「話を聞く、考える、発言する」等ができていた。授業の前半も先週から始めたばかりの自由発言により、積極的に意見が出され、読み取りが深まっていった。大問題である「なぜ、いよいよ汽車が入ってくるというときになって、お父さんはぷいといなくなってしまったのか。」の疑問に対しても子どもたちの予想は
①ゆみ子が泣き止むように(ゆみ子のため)
②お父さんが最ごにゆみ子の笑顔をやきつけたかったから(お父さん自身のため)
③ゆみ子にコスモスを残してあげたい(ゆみ子のため)
④お母さんをほっとさせてあげたい(お母さんのため)
の4つが出た。そこで、教師はこの4つを整理して、
①ゆみ子のため
②お父さん自身のため
③お母さんのため
とし、どれがよいか子どもたちに選択させた。
そうしたところ②お父さんが最ごにゆみ子の笑顔をやきつけたかったから(お父さん自身のため)という考えが多く出た。これは、授業者も私も予想していなかったものである。どうもこれに多くの子どもが賛成したのは、いつも意欲的に発言し、読み取りが確かな子どもが理由を述べて発言したことからだと思われる。つまりその子どもの意見に他の多くの子どもがつられてしまったものと考えられる。授業にはこのような教師が思ってもみなかったことがよく起こることである。
子どもたちに理由を聞いてみると、「ゆみ子を泣き止ませることは、結果として、お父さんが最ごにゆみ子の笑顔を見て戦争に行けるから、お父さん自身のためにコスモスを取りに行った」と解釈しているのである。子どもたちの考えを聞いてみるとなるほどなーとも思われる。
しかし、文章をよく読んでみるとそうではない。ずっとゆみ子をあやすお母さんを見続けてきたお父さんの気持ちや「みんなおやりよ、母さん」「ゆみ子はとうとう泣き出してしまいました」「お母さんが、ゆみ子を一生けんめいあやしているうちに、お父さんが、ぷいといなくなってしまいました。」などを読むと、お父さんは困り果てているお母さんを助けるためにコスモスを取りに行ったと考えられる。授業者もそのように読み取っていたし、数人の子どももそのように考えていた。
ところが本時の授業になって、このように予想されなかったことが出てきたので授業者は困惑してしまい、授業がどうどうめぐりのようになってしまった。そこで、私が授業者に、もう一度、子どもたちに教科書を読ませるようにお願いした。そして授業はここで終わってしまった。
この授業は失敗ではない。このようなことは教え込みの授業でないかぎりよくあることである。
さて、授業後、授業者の先生と次のように話し合った。この②の考えをつぶさなくてはならない。そのためには明日はどうしたらよいだろうということになった。方法的にはいくつかある。
1大問題の解決をめあてに教科書を再度読ませる。
2グループで話し合わせる。
3ノートに自分の考えを時間をとって書かせる。
4もう一度ぷいといなくなった目的がわかる文や言葉に注目させる。(文を選ぶ、文を切る、辞書で意味を調べる)
5上記の1,2,3、4を複合的にやる
6その他
である。しかし、授業で一番難しいのは、方法や展開の仕方はわかっていても、子どもにどのように発問するかである。また、子どもから出た意見をどのように組織したり、わかりやすくしていくかである。私も初任者の教師もさらに勉強しなければならない。
今回の国語の授業でも子どもたちがよく集中して「話を聞く、考える、発言する」等ができていた。授業の前半も先週から始めたばかりの自由発言により、積極的に意見が出され、読み取りが深まっていった。大問題である「なぜ、いよいよ汽車が入ってくるというときになって、お父さんはぷいといなくなってしまったのか。」の疑問に対しても子どもたちの予想は
①ゆみ子が泣き止むように(ゆみ子のため)
②お父さんが最ごにゆみ子の笑顔をやきつけたかったから(お父さん自身のため)
③ゆみ子にコスモスを残してあげたい(ゆみ子のため)
④お母さんをほっとさせてあげたい(お母さんのため)
の4つが出た。そこで、教師はこの4つを整理して、
①ゆみ子のため
②お父さん自身のため
③お母さんのため
とし、どれがよいか子どもたちに選択させた。
そうしたところ②お父さんが最ごにゆみ子の笑顔をやきつけたかったから(お父さん自身のため)という考えが多く出た。これは、授業者も私も予想していなかったものである。どうもこれに多くの子どもが賛成したのは、いつも意欲的に発言し、読み取りが確かな子どもが理由を述べて発言したことからだと思われる。つまりその子どもの意見に他の多くの子どもがつられてしまったものと考えられる。授業にはこのような教師が思ってもみなかったことがよく起こることである。
子どもたちに理由を聞いてみると、「ゆみ子を泣き止ませることは、結果として、お父さんが最ごにゆみ子の笑顔を見て戦争に行けるから、お父さん自身のためにコスモスを取りに行った」と解釈しているのである。子どもたちの考えを聞いてみるとなるほどなーとも思われる。
しかし、文章をよく読んでみるとそうではない。ずっとゆみ子をあやすお母さんを見続けてきたお父さんの気持ちや「みんなおやりよ、母さん」「ゆみ子はとうとう泣き出してしまいました」「お母さんが、ゆみ子を一生けんめいあやしているうちに、お父さんが、ぷいといなくなってしまいました。」などを読むと、お父さんは困り果てているお母さんを助けるためにコスモスを取りに行ったと考えられる。授業者もそのように読み取っていたし、数人の子どももそのように考えていた。
ところが本時の授業になって、このように予想されなかったことが出てきたので授業者は困惑してしまい、授業がどうどうめぐりのようになってしまった。そこで、私が授業者に、もう一度、子どもたちに教科書を読ませるようにお願いした。そして授業はここで終わってしまった。
この授業は失敗ではない。このようなことは教え込みの授業でないかぎりよくあることである。
さて、授業後、授業者の先生と次のように話し合った。この②の考えをつぶさなくてはならない。そのためには明日はどうしたらよいだろうということになった。方法的にはいくつかある。
1大問題の解決をめあてに教科書を再度読ませる。
2グループで話し合わせる。
3ノートに自分の考えを時間をとって書かせる。
4もう一度ぷいといなくなった目的がわかる文や言葉に注目させる。(文を選ぶ、文を切る、辞書で意味を調べる)
5上記の1,2,3、4を複合的にやる
6その他
である。しかし、授業で一番難しいのは、方法や展開の仕方はわかっていても、子どもにどのように発問するかである。また、子どもから出た意見をどのように組織したり、わかりやすくしていくかである。私も初任者の教師もさらに勉強しなければならない。