松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

光明小の「校内研修のまとめ」を読んで

2009-03-30 11:13:34 | Weblog
平成20年度 校内研修のまとめ

  浜松市立光明小学校から「平成20年度の校内研修のまとめ 」P141の冊子が送られてきた。内容が充実しているので、その掲載の一部を記す。
1 前書きより
 (1) 学びの力を育てる
   授業者は、常に何が学びの基礎・基本となるかを問い続けている。子どもが真に学ぼうとすると表情が変わり、言葉が変わる。学ぼうとすることに全神経が集中する。学びの力をつけていく学級には子どもと授業者、子どもと子どもの間に真剣さがあり、その教室に足を踏み入れたとき、圧倒される雰囲気がじかに伝わってくる。
 (2) 個性や才能の伸長を目指す
  これらの学習の基礎として、個性や才能を発揮させるための授業者の洞察力・柔軟性・指導力、そして、子どもと授業者、子ども同士の好ましい人間関係が重要である。
2 教 科
 (1) 指導案
① 国 語                                    
  1年「はなのみち」、「たぬきの糸車」2年「スイミー」、「お手紙」3年「三年とうげ」4年「白いぼうし」「一つの花」5年「わらぐつの中の神様」6年「短歌と俳句の世界」「海に命」なかよし「じゅげむ」
② 理 科
  3年「豆でんきゅうに明かりをつけよう」
③ 算 数
  5年「少数と整数のかけ算、わり算」
(2) 教材解釈
   1年「はなのみち」、2年「スイミー」、「お手紙」3年「三年とうげ」「ちいち ゃんのかげおくり」4年「白いぼうし」5年「新しい友達」「わらぐつの中の神様」 6年「カレーライス」「海の命」
3 表 現
20年度
1年「柔軟体操」2年オペレッタ「スイミー」3年オペレッタ「三年とうげ」40年オペレッタ「三まいのおふだ」5年マット運動「大きい前転」「跳び前転」6年マット運動「側方倒立回転」 
19年度
 合唱指導 3年オペレッタ「三年とうげ」4年「大工と鬼六」5年「あほろくの川だいこ」5年「柔軟体操」6年マット運動「頭跳ねとび」
4 あとがきより
職員室の応接セットで教材文を前に、数人の職員が議論を交わしています。このような姿が定着してきたなと感じます。・・・子どもが進んで学ぶ魅力ある授業づくりをするためには、私たち教職員が力をつけていく以外には方法がないと思います。
「光明小の授業」「光明小の表現」を創ろうを合い言葉に研究を進めることは、学校に文化を育てるためにも大切であると思います。子どもが「私たちの学校は・・・」と明確でしかも自信を持って他人に話すことができる学校でありたいと思います。

※ 以上簡単に掲載されているの項目と内容を紹介したが、私が見て特に感じたことについて記す。
国語の授業については、指導案の展開の部分で「展開の核と主な発問」「予想される子どもの反応」「到達点」「教師の支援」が参考になる。他の学校では見られないような質の高さである。
  また、教材解釈のところでは、「教材別の問題作り、疑問のもち方」ということで、それぞれの学年の教材から、対象となる言葉を例にして、そこのどこに疑問を持つのか、その視点や問題の作り方はどうするのかなど詳しく示されている。
  光明小の国語は、何と言っても教材解釈が命である。故に教師が育ち、子どもが育っているのである。今後も国語の授業づくりをしていくときには、大いに参考になるものと言えよう。
表現活動では、マットや跳び箱運動、朗読や合唱、オペレッタ等の基礎となる柔軟体操の方法が文や写真や図で示されている。
オペレッタでは、台詞や歌詞をどのように解釈し、表現すればよいか、舞台上の人間の位置、動き、対応の仕方や指導のポイントなど、これまた豊富な写真や図を使って説明されている。はじめてオペレッタを始める教師にとって大変役立つものである。
合唱指導の内容も「歌詞理解(解釈)」「姿勢・表情」「発声」「身体の動き」「響き」「指揮」という項目に分けて、その指導のポイントがわかりやすく示されている。
  マット、跳び箱運動では、自席から立つ、イメージをつくる、助走、着手、フォーム、着地、自席への戻り方等の一連の動作や運動を分析し、その指導のポイントをわかり示している。特に連続写真により、誰でも理解できるように工夫されている。
久しぶりに内容のある研究集録を読ませていただいた。光明小の職員、子どもたちの息づかいが伝わってくるようである。一人でも多くの教師に読んでいただき、参考にしていただきたいものである。

子どもに話しかけるときには笑顔で

2009-03-25 22:24:15 | Weblog
 ニッポン放送アナウンサー、高嶋秀武氏のブログの内容は、「教師が子どもに話しかけるときも同じだな」と思えたので掲載しました。
以下はブログの内容です。

題 犬に学んだ!しゃべる時には、笑顔での真実2009年3月23日(月)

「お母さん、もっと楽しそうに呼びかけて下さい」
先日、あるショッピングセンターで買い物のついでに垣間見た公開のイベント。
「犬のしつけ教室」では、インストラクターというか、犬に「しつけ」を教える先生が、お母さんといわれた犬の飼い主にそう言っているのを耳にしました。
 ムダ吠え専門の我が家の犬たち(二匹)にほとほと悩んでいる僕は、俄然興味を覚え見学することにしました。
 飼い主に抱かれて椅子に座っている三匹の小犬たち。どうやら、犬が飼い主から名前を呼ばれたら、そのとき他に興味が移っていても、喜んで飼い主のところに走ってくるように訓練をしている様子です。
 一匹ずつ訓練します。
 最初は飼い主が餌を指先に持ち、ごく至近距離(1メートルくらい)から犬の名前を呼び、犬が餌に引かれて飼い主のところに走ってきます。
 周りに犬が興味を持つ何かがあっても、名前を呼ばれたら一目散に飼い主のところへ来るようにという訓練です。
 ある子犬は、1,2メートルならすぐ来るのに、5メートルくらいになると全く飼い主の呼びかけを無視して他の犬にじゃれついたり、全く関係のない方向へ走って行ってしまう。
 その犬だけ、特訓ということになりました。
 「ジョン、いらっしゃい」餌を持った飼い主が犬に呼びかけます。ところが、何度やっても犬は他のものに興味を引かれ飼い主のお母さんのところに来ない。そこで先生が言ったのが、最初の台詞です。
 その犬の飼い主は、どちらかというと、ぶっきらぼうな言い方で表情も声も楽しそうではないのです。
 きっと、シャイな方なのでしょう。
 先生が「ジョン!いらっしゃい!」と両手を広げ声も張りをもって明るく呼びかけると、ジョンは喜んで飛んで来ます。
 犬にも分かるんでしょうね。
 呼びかける声の調子の明るさで、瞬間的に「わっ!楽しそう!」と、思わず走って行くのですね。
 これ、もしかすると人間にもあてはまるなあ、と僕は思いました。
 職場でも家庭でも笑顔で明るく呼びかける。これって大事かもしれませんね。
 確かに例えば上司に呼ばれたときも、行きたくないけど仕方なしに、のそのそ「何ですか」なんてことよくあります。
 犬の訓練もなかなか奥が深いのです。
 人間も犬も一緒だなあと感じた次第です。

教育のアメリカ化、これでよいのか

2009-03-23 15:17:48 | Weblog
 週休2日制になってから授業時数が減り、その中に「総合的な学習の時間」が導入された。そのため、国語、算数をはじめとする主要教科は十数パーセントが減ったことになる。
 総合的な学習の内容は、国際理解、環境、福祉、情報等、どれもこれからの時代において必要なものばかりである。しかし、大切なものは、これ以外にもたくさんある。
 平成21年4月から新しい小学校学習指導要領が先行実施される。新しい教育内容の一つとして、5,6年生で英語を中心とした「外国語活動」が導入される。また、同時に理数教育や道徳教育も充実される。
 ・・・それにしてもこのようにあまりにも安易に教育内容を変更したり、新しいものを導入してくる。このような対症療法的な教育の改革は問題であるように感じる。
  ここ何年かは、特にアメリカの経済の繁栄や科学の水準を見て、教育をアメリカ化しているようである。アメリカの教育に習って、「キャリア教育」や「株の取引」の学習まで学校教育の中に取り入れている。アメリカで流行っているから、日本の小学校でも導入しようとしているのだ。そのため、日本古来のよい面での教育内容がどんどん削られている。
 これからもアメリカを目指して教育改革をしていこうとするのだろうか、小学生に英語を教え、パソコンを教え、株式のゲームを教えアメリカ人をつくっていこうとするのだろうか。
 しかし、もはや学ぼうとしているアメリカは、大変な金融危機に見舞われ、どうしようもなくなっている。過剰な資本主義をすすめてきた結果である。これらもアメリカの教育の内容と無関係とは言えない。
 文科省はもっと長期的な展望に立って教育改革をしてもらいたい。特に人間としての生き方の基礎を学ぶ初等教育においては外国文化や英語を教えることよりも先にやらなければならないことがたくさんあるだろう。

よい教師の条件

2009-03-20 11:44:47 | Weblog
 斎藤喜博は、その著書「授業入門」のなかで、よい教師の条件として次の3点をあげている。
 1頭のよい先生
 2育ちのよい先生
 3美人の先生
である。
 頭のよい先生とは、優れたものを吸収し、生かしていく先生であり、育ちのよい先生とは金持ちだとか、名門の子だとかいうのでなく素直で暖かい心を持っている先生であり、美人の先生とは、頭がよく、育ちがよく、優れた実践をする先生はみな美人になるものだと説明している。
 また、この中で「頭の悪い先生は理解力がのろく、因業であることが多い。堆肥の入っていないこちこちした土が、手鍬をはねかえしてしまうように、自分の頭の範囲だけに頑固にとじこもって、他からはいってくるものをはねかえしてしまうことが多い」ということもいっている。
私はこれらを読んで、ほんとうにそのとおりだと思う。特に、「頭の悪い先生は理解力がのろく、因業であることが多い。堆肥の入っていないこちこちした土が、手鍬をはねかえしてしまうように、自分の頭の範囲だけに頑固にとじこもって、他からはいってくるものをはねかえしてしまうことが多い」というところである。
 こういう教師が実に多いと感じているからである。どんなに優れた実践を目の前で見ても、それを自分の実践に取り入れようとしない、いやそれ以前に、そういう優れた実践が見えない、もしくは、あえて自分を守るために認めないという教師もいる。しかし、そのような教師に教わったら子どもは最悪であり不幸である。
 さて、私の考える「よい教師の条件」を今までの教職経験からあげてみると次の3点になる。
 1ナイーブだが、パワーのある先生
 2よいものを取り入れ実践する先生
 3信念に基づいて継続努力する先生
である。私もこのような教師になるよう今でも努力しているがなかなか難しいことである。

光明小の表現活動を見て

2009-03-07 21:19:05 | Weblog
 光明小の表現を見る機会があった。オペレッタや歌唱では、1年生の「くじらぐも」2年生の「スイミー」3年生の「3年とうげ」4年生の「3枚のお札」5年生の運動表現「跳び前転」6年生の運動表現「側方倒立回転」全校合唱「校歌・勝利の行進」などであった。
その感想を列挙してみる
○一言でいうなら、子どもたちに解放された明るさと凝縮された集中があった。当然それらは表現そのものの技術や芸術性と深い関係がある。しかし、表現の技術や芸術性がいくら高いものであっても、そこに生まれる子どもの姿が解放されたものでなければ教育としての意味はない。
○光明小は、昨年のように外部講師に頼ることができない状態になった。ですから、「表現をやるかやらないか」「表現をやるなら指導はどうするか」「どんな題材にするか」「どんな表現をしたらよいか」などの苦悩の出発であったと思う。
○先生方が大変な苦労をする中で、互いに話し合い、教え合い、協力し合ってできた表現であり、そのことに大きな意義を感じた。
○先生方が自分でつくり出した表現である。やれば何とかなる、何とかできるということを実感できたのではないか。「情熱が技術をも乗り越える」ことを証明したようだ。 
○「実践して理論ができ、その理論をもとに、また実践する」この繰り返しによって、表現がどんどんよくなっていった。
○ 表現指導の苦手な教師や経験のない教師は、逃げられない世界に追い込まれたと思う。しかし、そういう中で、はじめて自分の力が発揮されたのだと考える。
○先生方が表現の勉強をし、実践していくことにより、子どもが目の前で変わっていくこと知る。その喜びや自信や希望が指導の大きな原動力となっていったと思われる。
○この先生方や子どもたちの姿は、そんなに、どこの学校でも見られるものでない。特に以下のことである。
① 全員を対象としての指導であり、その全員の可能性が引き出されている
② 表現の内容(題材)そのものの質が高い
③ 子どもたちの内面的で凝縮された姿
④ 明るくやわらかく開放された姿
⑤ 子ども同士が豊かに対応しながら演技できる
⑥ 多数の人の前で、一人でも歌える、ステップできる、ポーズができる、体操ができる。
この③~⑥は、この学校独特のものである。
⑦ 教室から体育館へ、体育館から教室への移動、そして、表現そのものの入退場の姿
⑧ 表現活動の成果が教科指導や生活指導まで転移していること。
⑨ 先生方の指導の熱意、教え合い、学び合いの姿
⑩ 子どもの力を引っぱり出す指揮の方法
⑪ 幼稚園の子どもたちから保護者、地域の方々が一言もしゃべらないで表現に集中させた力
 最後に、今年は、昨年とはまた違った表現を生み出したと思える。それは、ほんとうに先生方自身の体の中を通った表現の創作であったと思う。これは大きな自信につながったのではないだろうか。この活動を今後もぜひ継続していただきたい。

初任者の一年

2009-03-04 23:19:07 | Weblog
 この文は私が担当したある初任者が一年の研修を終えて、その成果と課題を書いたものである。以下紹介する。
 私が担任する3年2組では、生徒指導上の困難を抱えた児童が多数在籍していました。また、担任の指導に細かく干渉する保護者もおり、信頼関係を築くため苦慮しました。さらに、学習指導においても、当初は勉強不足で基本的な技術もままならず、定着が非常に悪いという状況にありました。
 しかし、追求方式による国語科の授業を実践することにより、その状況は大きく変化し始めました。追求方式の授業では、子どもたちの主体的な学びを一番大切にします。子どもたちの力を合わせて課題を設定し、文中の語句から課題解決の手がかりを探していく過程に、子どもたちも私自身も熱中しました。「文を切って考えよう」「国語辞典で調べよう」などの言葉が子どもたちから出てくるたび、成長を感じて大変うれしく思いました。
 追求方式は、他の教科にも応用することができました。例えば、体育科「跳び箱」の指導では、助走から着地までの動作を細かく区切り、走り始め、踏み切りの仕方、手の付き方など、一つひとつのテクニカルポイントを追求していきました。特に、跳び箱を跳び越す際の体重移動の感覚を掴むため、習熟過程をスモールステップに切って指導を行いました。その結果、学級全員の児童が跳び箱を跳べるようになりました。
 追求方式の授業を続けることで、次第に子どもたちの学習態度も安定してきました。それに伴い、生活態度も落ち着いてきたことを感じました。その中でも、特に個別の支援を要する児童に関しては、個別の支援計画を作成し、学校体制で支援を行いました。医療機関や教育委員会とも連携し、その児童と家族をサポートする体制を築きました。その結果、問題行動は見られなくなり、安定した気持ちで集団生活を送れるようになりました。
 一方で、この一年間、多くの課題を残すことになりました。特に、学習指導においては、児童の実態を把握しながら時間の軽重をつける感覚がうまくつかめず、授業が冗長になることが多かったように思います。この点については、もっと子どもの中に入って机間指導を行い、一人ひとりの学びを見取る努力をしていきたいと思います。また、追求方式の授業は子どもたちの討論が重要になるのですが、それにうまく参加できない児童を多く出してしまいました。今後は、早い内から日常的に話す・聞くの指導を積み重ねると共に、しっかり全員が自分の考えを持ってから討論に入るように授業を組み立てていきたいと思います。