「ここに学校教育の本質が見える。」・・・こんな学校をつくりたい、こんな教育をしたい
斎藤喜博著「君の可能性」:卒業式での小学校6年生の答辞から
・・・・・私たちは今日まで、勉強の中で、また、体操会、水泳大会、運動会、音楽会等、たくさんの行事の中で、いろいろ学びました。
跳び箱を美しく跳ぶために、助走や踏み切りが大切であることも、集中したよい助走ができると、踏み切りもやわらかくなり、跳び箱も美しくとべることもわかりました。十の力を十五にもしてがんばった水泳も、最初、力だけで泳いでいたときは、少しも進歩しませんでしたが、ていねいに、浮くことから練習し、呼吸やリズムを覚えると、自分でもおどろくほど楽に泳げるようになりました。
水泳で覚えた呼吸法は音楽にも役立ち、二学期になると自分でもおどろくほど声が出るようになってきました。
算数や国語は頭のよい子がよくでき、跳び箱や水泳は運動の得意な子がよくでき、声のよい子が歌がうまいと、きめつけてきた私たちの考えは、これらの勉強の中で一つ一つくずされていきました。先生に教えていただいたとおりに、ていねいに基礎から勉強していけば、だれでも泳げるようになり、とべるようになり、歌えるようになるのだということがわかったとき、私たちは、勉強に自信がわいてきたのです。そして学校が楽しくなってきたのです。
この六年間、私たちは、いつも高い目あてがありました。上級生が示してくれた、美しい跳び箱や、美しい泳ぎや、美しい合唱などへのあこがれが、そのまま、私たちの目あてでもあったのです。
六年生になったとき、私たちは、今度こそハレルヤが歌えるという期待とよろこびでいっぱいでした。今までのどの歌より慎重にパート練習をしました。いよいよ合唱することになって、先生が前奏をひきはじめたときの胸の高鳴りと、歌い終えたときのほこらしい気分とは、今でもはっきりと覚えています。・・・・
私はこの文章を読んで以下のことを感じた。これらはどれも学校教育の本質を示しているものと思われる。
○「跳び箱を美しくとぶために、助走や踏み切りが大切である」・・・すべてのものごとをするには、その前後に十分に気を配ることが大切である。
○「力だけで泳いでいたときは、少しも進歩しませんでしたが、ていねいに、浮くことから練習し」・・・「ていねい」これは心をつくることである。すべての学 びの基礎である。
○「私たちは、いつも高い目あてがありました。」・・・自分の持っている力より、少しでも上を目指し努力するとき、集中力が養われる。また、それが達成できたときの自信や勇気は格別である。
○ 「上級生が示してくれた○○のあこがれが、そのまま、私たちの目あてでもあったのです。」・・・上学年にいくほど子どもが育っていることは学校教育として責任が果たせているといえる。こういう学校にしなければならない。下級生が上級生にあこがれ自分たちもそれを目指すのだという学校にしなければならない。
○「『○○がよくできる子』と、決めつけてきた私たちの考えは、これらの勉強の中で一つ一つくずされていきました。」・・・質の高い学びは学力の差が埋まるものだと考える。あんちょこな知識や常識だけを必要とする学びでは、できる子もできない子も進歩はない。
○子どもは、友だちや教師からの影響を大きく受けて育つものである。学校はすべての子どもたちをよりよく育てなければならないし、よい教師になるように努力しなければならない。
斎藤喜博著「君の可能性」:卒業式での小学校6年生の答辞から
・・・・・私たちは今日まで、勉強の中で、また、体操会、水泳大会、運動会、音楽会等、たくさんの行事の中で、いろいろ学びました。
跳び箱を美しく跳ぶために、助走や踏み切りが大切であることも、集中したよい助走ができると、踏み切りもやわらかくなり、跳び箱も美しくとべることもわかりました。十の力を十五にもしてがんばった水泳も、最初、力だけで泳いでいたときは、少しも進歩しませんでしたが、ていねいに、浮くことから練習し、呼吸やリズムを覚えると、自分でもおどろくほど楽に泳げるようになりました。
水泳で覚えた呼吸法は音楽にも役立ち、二学期になると自分でもおどろくほど声が出るようになってきました。
算数や国語は頭のよい子がよくでき、跳び箱や水泳は運動の得意な子がよくでき、声のよい子が歌がうまいと、きめつけてきた私たちの考えは、これらの勉強の中で一つ一つくずされていきました。先生に教えていただいたとおりに、ていねいに基礎から勉強していけば、だれでも泳げるようになり、とべるようになり、歌えるようになるのだということがわかったとき、私たちは、勉強に自信がわいてきたのです。そして学校が楽しくなってきたのです。
この六年間、私たちは、いつも高い目あてがありました。上級生が示してくれた、美しい跳び箱や、美しい泳ぎや、美しい合唱などへのあこがれが、そのまま、私たちの目あてでもあったのです。
六年生になったとき、私たちは、今度こそハレルヤが歌えるという期待とよろこびでいっぱいでした。今までのどの歌より慎重にパート練習をしました。いよいよ合唱することになって、先生が前奏をひきはじめたときの胸の高鳴りと、歌い終えたときのほこらしい気分とは、今でもはっきりと覚えています。・・・・
私はこの文章を読んで以下のことを感じた。これらはどれも学校教育の本質を示しているものと思われる。
○「跳び箱を美しくとぶために、助走や踏み切りが大切である」・・・すべてのものごとをするには、その前後に十分に気を配ることが大切である。
○「力だけで泳いでいたときは、少しも進歩しませんでしたが、ていねいに、浮くことから練習し」・・・「ていねい」これは心をつくることである。すべての学 びの基礎である。
○「私たちは、いつも高い目あてがありました。」・・・自分の持っている力より、少しでも上を目指し努力するとき、集中力が養われる。また、それが達成できたときの自信や勇気は格別である。
○ 「上級生が示してくれた○○のあこがれが、そのまま、私たちの目あてでもあったのです。」・・・上学年にいくほど子どもが育っていることは学校教育として責任が果たせているといえる。こういう学校にしなければならない。下級生が上級生にあこがれ自分たちもそれを目指すのだという学校にしなければならない。
○「『○○がよくできる子』と、決めつけてきた私たちの考えは、これらの勉強の中で一つ一つくずされていきました。」・・・質の高い学びは学力の差が埋まるものだと考える。あんちょこな知識や常識だけを必要とする学びでは、できる子もできない子も進歩はない。
○子どもは、友だちや教師からの影響を大きく受けて育つものである。学校はすべての子どもたちをよりよく育てなければならないし、よい教師になるように努力しなければならない。