松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

ここに学校教育の本質が見える

2009-01-28 13:37:00 | Weblog
「ここに学校教育の本質が見える。」・・・こんな学校をつくりたい、こんな教育をしたい
斎藤喜博著「君の可能性」:卒業式での小学校6年生の答辞から
 ・・・・・私たちは今日まで、勉強の中で、また、体操会、水泳大会、運動会、音楽会等、たくさんの行事の中で、いろいろ学びました。
 跳び箱を美しく跳ぶために、助走や踏み切りが大切であることも、集中したよい助走ができると、踏み切りもやわらかくなり、跳び箱も美しくとべることもわかりました。十の力を十五にもしてがんばった水泳も、最初、力だけで泳いでいたときは、少しも進歩しませんでしたが、ていねいに、浮くことから練習し、呼吸やリズムを覚えると、自分でもおどろくほど楽に泳げるようになりました。
 水泳で覚えた呼吸法は音楽にも役立ち、二学期になると自分でもおどろくほど声が出るようになってきました。
 算数や国語は頭のよい子がよくでき、跳び箱や水泳は運動の得意な子がよくでき、声のよい子が歌がうまいと、きめつけてきた私たちの考えは、これらの勉強の中で一つ一つくずされていきました。先生に教えていただいたとおりに、ていねいに基礎から勉強していけば、だれでも泳げるようになり、とべるようになり、歌えるようになるのだということがわかったとき、私たちは、勉強に自信がわいてきたのです。そして学校が楽しくなってきたのです。
 この六年間、私たちは、いつも高い目あてがありました。上級生が示してくれた、美しい跳び箱や、美しい泳ぎや、美しい合唱などへのあこがれが、そのまま、私たちの目あてでもあったのです。
 六年生になったとき、私たちは、今度こそハレルヤが歌えるという期待とよろこびでいっぱいでした。今までのどの歌より慎重にパート練習をしました。いよいよ合唱することになって、先生が前奏をひきはじめたときの胸の高鳴りと、歌い終えたときのほこらしい気分とは、今でもはっきりと覚えています。・・・・
 私はこの文章を読んで以下のことを感じた。これらはどれも学校教育の本質を示しているものと思われる。
○「跳び箱を美しくとぶために、助走や踏み切りが大切である」・・・すべてのものごとをするには、その前後に十分に気を配ることが大切である。
○「力だけで泳いでいたときは、少しも進歩しませんでしたが、ていねいに、浮くことから練習し」・・・「ていねい」これは心をつくることである。すべての学 びの基礎である。
○「私たちは、いつも高い目あてがありました。」・・・自分の持っている力より、少しでも上を目指し努力するとき、集中力が養われる。また、それが達成できたときの自信や勇気は格別である。
○ 「上級生が示してくれた○○のあこがれが、そのまま、私たちの目あてでもあったのです。」・・・上学年にいくほど子どもが育っていることは学校教育として責任が果たせているといえる。こういう学校にしなければならない。下級生が上級生にあこがれ自分たちもそれを目指すのだという学校にしなければならない。
○「『○○がよくできる子』と、決めつけてきた私たちの考えは、これらの勉強の中で一つ一つくずされていきました。」・・・質の高い学びは学力の差が埋まるものだと考える。あんちょこな知識や常識だけを必要とする学びでは、できる子もできない子も進歩はない。
○子どもは、友だちや教師からの影響を大きく受けて育つものである。学校はすべての子どもたちをよりよく育てなければならないし、よい教師になるように努力しなければならない。

真理を求める方法

2009-01-26 14:50:56 | Weblog
○ 「さまざまに考える」→「多くを出し合う」→「真理を求める」
何かわからないときは、どうする。先生に聞く、友だちと話し合う。そのとおりです。では、両方ダメと言われたらどうする。カンニング、それはダメ、今から先生が問題を出します。相談はダメ、質問もダメ、もちろん人のを見てはダメです。約束を守ってくれる? みなさんにはA4の紙が一枚あります。それに   
① 上と下に三角を3つ書いてください。 
② 次に大きな○を書いてください。
③ 次に1本の直線を書いてください。
 どうでしたか、書けましたか。見せられない。自分のを見て不安になる。友だちのを見て不安になる。消したくなる人もいる。それは当たり前です。みんないろいろなのです。みんなちがう。考えていること、心で感じていることみんな違うのだから違ってあたりまえです。
 どれが正しいとか正解というまえに、友だちのちがう考えを受け入れることが大切です。友だちのちがう考えや気持ちを理解してやることが大切です。そうすると安心して勉強も生活も遊びもできるのです。
 国語の勉強で算数の勉強で、みなさんはいろいろな考えを出します。みんな最初は違うのです。そこから出発するのです。それがなかったら前にすすみません。まちがった考えも出してもらわなければ、正しい答えを見つけることができません。 今日の問題で先生が求めたかった正しい答えは、「おでん」です。こんな正解は最初から1人もいません。みんなで活発に意見を出し合って「おでん」を見つければいいのです。そのためには、間違ってもよいからどんどん自分の考えを出さなければいけません。
 まちがった考えを出すことはいけないことだとか、まちがった考えを笑うことはいけないことだということに気づきましたか。これからお勉強ではどんどん自分の考えを発表して、正しい答えを求めることができるように協力しなさい。それが本当の勉強というものです。


わたしの教育メモ①のtotoroさんの書き込みに対して

2009-01-23 16:30:13 | Weblog
いろいろ悩みがあるようですね。残念ながら世の中そんなに上手くいくことばかりではありませんね。無理をせずに継続することが大切だと思います。
私は、なぜ「追求方式の授業」が広がらないのか、以下考えてみました。
○質の高いものを理解することは、「2-6-2の法則」がある。つまり、2割が理解でき、6割が迷い、2割が反対するとう考えである。だからある意味ではしかたがないであろう。我々は信念に基づいてやっていくしかない。
○希少価値は希少価値である。ダイヤモンドもそうだ。「追求方式の授業」もやたらそこらでやられたら希少価値がなくなる。もっとも簡単にはできぬことだから既に希少価値になっているとも考えられる。
○以前にも書いたが、
・「『真理と言う禁断の木の実』を味わった教師は元にはも戻らない」高橋金三
・「本当のことが一旦身に付いたら『嘘を嫌う体になる』」小川三夫
上記の言葉のとおりである。真に理解できたものしかわからない。
○研究会が終わっても、みんな一人一人の心の中に深く強くこの美しさや楽しさが残ります。それでいいのです。物事はだらだらと続ければいいというものではありません。スパッと切ることによって本質があざやかに残るということがあるのです。
○この実践がいつまでも続くなんてそんな傲りは持たないほうがよい。
○遺憾なことだが、本当のものは痛ましい中から生まれるものだ。 
 河井寛次郎→棟方志功への手紙中から
上記3つの文章は、何を語っているのだろうか、①本物はそんなに簡単にできるものではないこと、②ゆえに、できあがったものは、長続きしない、③しかし強烈で価値ある実践として美しく心に残る。④実践したものだけが抜け出していくことができる等であろう。
○「全員が同じ方向を向く」「全員が同じような取り組みをする」「全員が一丸」となって等は理想として願うことであるが、そんなに簡単にできるものではない。できるとこらから広げるしかない。
地道でもよい、絶対に続けることが肝心だと思います。totoroさんが学校経営をする立場になったとき、一層その力を発揮することができるでしょう。

オバマ氏はどれだけ事実を生み出すか

2009-01-22 10:32:49 | Weblog
 米国第44代大統領にバラク・オバマ氏が就任した。厳冬の首都ワシントンには200万人もの市民が押し寄せ、就任を祝った。
 演説を聞き涙を流す市民も多く見られた。市民がそして世界が酔いしれたその名演説の内容はどうなんだろう。
 ちりばめられた言葉の多くは、「変革、夢、希望、決意、選択、一緒に、できる、責任、再生、旅」等である。
 そして、その演説は「声がよい、力強い、誠実さがある、国民と目線が同じ、リズムがある、わかりやすい、心にひびく」等の感想が多かった。
 確かに私も聞いていて、その言葉と人間性に好感を抱いた。アメリカのいや世界の明るい展望を感じた。しかし、戦争、経済危機の真っただ中にあるアメリカにあって、その名演説が美辞麗句に終わるのか、それとも事実としてアメリカを変革できるのか真価を問われるのはこれからであろうと感じた。
 教育も同様である。美辞麗句が叫ばれる中でどれだけ事実を出すかが勝負であろう。大切なことは、事実を生み出すことである。           

教育メモ②より

2009-01-21 14:55:55 | Weblog
○物事を関係づける力、それは思考力そのものである。
○人は無理やりにやらされるのでなく、「自分がやると決意したとき」「やりたいと思ったとき」「自分にはやれると思ったとき」に力を発揮するものだ、そういう状態になれば学力なんてすぐに上がるのだ。
○ よいことを見つけたら口に出してほめたり、共感したり、感謝したりする。それが自信につながる。自己肯定感を養うことになる。口に出すことが大切です。これがないと見守りは放任につながる。
○全国学力テストに関して、学力を「できる」「できない」という観点でみれば、その学力の状態で固定化の方向に向かうし、多くは知識量でしか見えていないだろうから、一面的で、子どもは知識のみ重視する方向に行くし、多くの個性はつぶされる運命となる。
○国や教育委員会がいくら制度いじりをしても、その制度を運用するのは教師なのだ。学校を変えるのは学校の力である。
○問題児でも会話が成立する以前だって、柔和な表情になったとか、口調がやわらかくなったとか、そういう変化がある。そういう変化を見逃さない姿勢。それが大切でる。
○子どもの心に明らかな変化が見られるようになる。しかし、ここで安心し、立ち止まってはダメなのだ。次なる手を打つことが大切である。
○教師に責任と権限を与えて自由にやっていいと言ったとき、教師は燃える。教師が自発的にやる仕事に多忙感はないはずだ。
○教育長は言った「成果を出す。結果を出す。これが当たり前のことなのです。」そうだ。その通り。しかし、その成果とは何か。結果とは何か。テストの点数ではあるまい。この中学校(東京都北区立神谷中学校)が、見事にその答えを出しているように思える。
○教育の原点は「一人」を大切にすることです。神谷中の実践はほんとうに素朴で地道なものですが、だからこそほっとさせられます。学力向上のためにドリルやテストばかりやっていても、残念ながらまったく学力は上がりません。まして塾に生徒を丸投げするなど、公立学校としてあってはならないことです。私たちはこの数年、あまりにも激しい政治主導の「教育改革」「教育再生」に目を奪われてはいないでしょうか。

手品事始め

2009-01-16 15:46:28 | Weblog
 私の趣味の1つである手品を1月10日に地域のディサービスセンターでおこなった。
 今年は見ていただく方々の年齢を考えて「浪曲手品」を披露した。手品の説明を浪曲風に唸りながら演じたのである。
 ♪次に出ました茶碗が2つ 中をばあらため重ねます 重ねた茶碗を上に向け 上の茶碗で蓋をする おりからかかる魔法の気合い「えい!」 花咲じじいじゃないけれど 大判小判の音がする・・・・♪というように。できれば三味線の囃しがあるといいなーと思ったりした。
 昨年はディサービスセンター、小学校PTAの会合、小学校のお楽しみ会、幼稚園、観音山少年自然の家、職場の忘年会など計10回ほど手品を披露した。
 年々手品は上達してはいるがまだまだ失敗も多い。手品の技術、構成、話術などもっともっと研究して多くの人を楽しませてあげることができればと思う。

教育メモ①より

2009-01-15 13:19:17 | Weblog
○難しい教材が子どもの力を伸ばしていく
○一人で歌わせたい、人数を多くして逃げさせるようなことはいけない
○目指す児童像は具体的な方がよい。自ら学ぶ子→きちんと発言できる子
○力を出しきるの「きる」とは、最後までやりきっていなければならない
○教科も表現も基本は解釈である
○「知る」と「わかる」について、知るは、新しいこと。分からなくても知ることはできる。分かるは分からないことが分かる。他と区別できるようになる
○形式は中身をともなわなければならない
○授業の予習で子どもの明日の幸せが決まる
○一人一人のよいところを見ているようで見ていなかった
○歌の中にさらにリズムをいれる
○漢字の書き取りやテストは子どもにつくらせる。答え合わせも子どもにやらせる

○追求は武器がないとできない
○読みを放置していくやり方と、一回一回評価していくやり方は大きく違う。評価してあげると次の子も生きる
○やり終わってからあれこれ言ってもダメ!一カ所を徹底して直すことで全体が変わる
○聞いていない子どもを指名する。答えられないので、すぐまた指名すると宣言し、やりきらせていく。いつも自分の答えを持っていることが大事!
○一度言ってやらせただけじゃ、ダメ。持続させられるかどうか。毎日の行動に求めたものが現れているかどうか。教師自身が一貫してやりきらせること

「わかる」とはどういうことか

2009-01-14 12:31:45 | Weblog
 ノーベル物理学賞を受けた益川敏英さんがたびたび批判しているのは、採点の効率化からテストに選択式の多いこと。候補から正当を選ぶのと一から答えを紡ぎ出すのとでは本質的に異なる。候補から正当を選ぶのは「考えない人間を一生懸命つくっている」と手厳しい。
 そのことで連想したのは、去年亡くなった国語学者の大野晋さんが書いていたこと。この碩学は理解するという意味の「わかる」とは語源的に、ものを切り「分ける」ことではないかと考えていた。(日本語の教室)。中日新聞「中日春秋」より
 ここでの2人の教えは、全体から正当を選び出し、それをさらに分けて「わかる」に至ることなのか・・・国語の授業に似たりである。

何でもないようなことであるが大切なこと

2009-01-06 16:31:15 | Weblog
 3学期が始まった。3学期の始業式は、1学期や2学期とちがい、式の始まる前からよかった。1,2学期の始業式は、子どもたちは目的もなく(言い過ぎかもしれないが)集まり、会場に入っても私語が絶えなかった。また、金管バンドの校歌の練習でほんとうにざわざわしたものであった。これでは始業式での校長先生や代表の子どもたちの話が子どもたちの心に入っていくような体勢ではない。しかし、今回は子どもたちが会場に入っていくとすでに先に入った子どもたちを対象に校歌やその他の歌の練習をしていた。 後から入っていく子どもたちは自然にその歌の練習に入っていく。とてもよい雰囲気であるし、有効的な時間の活用でもあった。 
 何でもないようなことであるが先生方はこのよさを捉えてくれただろうか、そして次の集会にも生かしてくれるだろうか。やや不安が残る。それはこういう話題が職員の中ではなかなか出ないからである。

走る喜び

2009-01-05 21:29:50 | Weblog
 昨年一年間はほんとうによく走った。お陰で健康状態も維持できているようである。走る喜びも大きかったが、自分の住んでいる町内や職場周辺の自然にふれる喜びもあった。車に乗っていては気づかない自然や人との交流を見出した喜びである。
 今年も1日には天竜の「元旦マラソン」に参加した。正月の澄んだ空気の中を力走した。汗いっぱい流して朝風呂に入った。何とも言えない爽やかな気持ちになった。2日、3日も自宅近くを走った。4日、5日は浜北の森林公園を歩いた。
 今年も走ることにより心身の健康づくりをしていきたい。