松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

教育改革 第三の道を

2010-09-29 08:53:30 | Weblog


 
  一方に「教え込みの教育」があり、その反対に「放任の教育」があるとするれば、今までの教育改革の大方はそのどちらかに大きく揺れてきたようである。
  しかし、その繰り返しを長年あきることもなくやってきてもなかなか効果が上がらないのは、その双方に問題があるからである。
 その問題もかなり明確に分かっていながら教育の第三の道を見出せないのは、国の教育行政の怠慢であると言えよう。
  国は何とかその解決法として「教えて考えさせる教育」とか「習得学習と探求学習」というような教育法を打ち出してきたが、今ひとつ具体性に欠ける。
  本当の教育は「教え込みの教育」と「放任の教育」の中間にあるというような単純な問題ではない。第三の教育改革の道を模索しなければならない。「教え込みの教育」と「放任の教育」の線上でなく、枝分かれしていく教育法である。

※下記のブログも検索しご覧ください。
①totoroの小道
②藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践事例が掲載されています)

「新城の会」での学びの報告

2010-09-26 22:47:29 | Weblog
 



「新城の会」での学びの報告
22,9,25 9:30~16:00

今回も参加してよかった。特に教材の解釈は、みんなで話し合うとこんなにも深く、広く、高く、豊かに解釈できるものだと感じる。すぐにでも子どもたちの前に提示し、一緒に考えたいと思ったりする。
 授業とは「先生の知っていることを子どもに問い、子どもが答えるものだ」とするような古い考えでは、これからの子どもたちは生きていけない。この国もやっていくことはできない。
 文科省も教育委員会も「生きる力」の教育などと、声高々に発しているが、その具体策は提示することができていない。それは現場でつくり出し、実践し、その成果を目に見えるように出していくしかない。

今回の学びの報告の概略を掲載する。
○ 国語5年「大造じいさんとガン」の解釈
今回は時間の関係もあり、前書きと1の場面しかできなかった。しかし、 この前書きにしても1の場面にしても大変重要な言葉や文があり、勉強になった。
前書き
・ 「かりゅうど」と「ハンター」の違い
・ 「この物語を書いてみました。」・・・この「みました。」は確かめるという意味を持っている。では、何を確かめるために書いたのか。
1段落
「今年も」って何。「やってきました」と「きました」の違いは何。
2段落 
「なかなかりこう」「やつ」「えさをあさっている間も」
「りょうじゅうのとどくところまで」「けして人間を寄せつけません」  ・・・ここは、特に重要である。後半に出てくる「大造じいさんは、ぐっと、じゅうをかたに当てて、残雪をねらいましたが、何と思ったのか、また、じゅうを下ろしてしまいました。」の布石になるので丁寧に扱いたい。
3段落
「ので」これは逆接の接続詞である。前の文よりも後の文のほうが大切になる。「いまいましい」・・・どのくらいの気持ちか。
4段落
「こそ」「かねて」・・・「こそ」って何。「かねて」ってどのくらい前。
「おいた」・・・「おく」であり、準備しておくということである。
「特別な方法」って何。どんな準備をどのくらい時間をかけてか。
「うまくいきそう」の内容は何。「なりません」ってどんなこと。
5段落
「わくわくさせながら」ってどのくらい期待しているの、100点か50点か10点か。
「しめたぞ!」って何がしめたのか。
6段落
「これはすばらしい!」何がすばらしいのか。生きたガンが手に入ったためなのかどうなのか。
7段落
「が」逆接の接続詞。「ので」は理由を表すときに使う。「うれしい」自分の要求や願いが叶ったとき。
○ 近況報告
○ 国語1年「サラダでげんき」(東書)の解釈
○ 表現「熊のおどり」構成、ステップ
○ 運動会の表現、ステップを利用した構成
○ 運動会の組体操と柔軟
○ 図工
1年「花火」・・・水を切ること、同じ方向に色をおく
1,2年「ひまわり」バックのぬりかた。脱脂綿に色を付けて色をおく方法がある。「すいか」すいかの形に注目させること。
5年「手」しわの描き方、形、光と影の出し方など
○ 合唱 優れた授業に学ぶ 戸田先生の指導 1,2年光明小

※ 充実した学びであり、9:00から16:20であっが時間の過ぎるのも忘れてしまう。こんな研修会は他には見あたらない。特に若い先生方にぜひ参加していただきたい。次回は11月20日(土)である。

※下記のブログも検索しご覧ください。
①totoroの小道
②藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践事例が掲載されています)


互いに顔を見つめて、聴こう、話そう

2010-09-23 08:39:19 | Weblog


だれかが話しているときには、その人の目を見よう。だれかが意見を発表しているときには、その人のほうに顔を向けよう。

 ・・・ わたし自身、学校時代に、先生の顔をじっと見つめていると、心があらぬ方にさまようのを防ぐ効果があることに気づいた。前の席の子どもの頭や自分の鉛筆を見つめていると、すぐに気持がほかにそれるのに、先生の顔を見つめていれば、もうそれだけで授業に集中できることを知ったのだ。

だから、いまのわたしは授業中にはいつも全員の目が自分に注がれているようにすることに心を砕いている。そうすれば、わたしにも子どもたちの表情がよく見え、彼らが授業内容が理解できなくて困っているのか、あるいは授業を楽しみ、集中しているのかがわかるからだ。           

・・・ 子どもは安心感を求めると同時に、威厳をもって自分たちを管理監督してくれる人物を求めている。わたしは、これまで、子どもたちに好かれたいと思うあまりに、甘すぎる態度で接する教師や親を何人も見てきた。そして、その人たちの失敗も数多く見てきた。〈 規律と愛はワンセットでなければならない 〉

   「あたりまえだけど、とても大切なこと」ロン・クラーク著より

敬老会で手品をしてきました(3)

2010-09-20 19:50:23 | Weblog

 
 今日(20日)は磐田市桜ヶ丘地区の敬老会で手品・ジャグリングをしてきました。
 場所は「iプラザ」でした。新しくて、きれいで最新の施設でした。お年寄りや役員の方の反応がよく、とても楽しく手品ができました。

 演目は、
①バランス芸(ステッキ、新聞紙、箒、テニスラケットとボール)
②松竹梅カード(お祝いマジック)
③ジャンボカードモンテ
④3本ロープ
⑤皿回し
⑥ボールを使ったジャグリング

 同じ演目数でも今回は時間があったので、ゆとりをもってできたのでよかった。
 高齢者といろいろ話しながらできたし、手品や皿回しにも参加していただいたのがよかった。
 
 ※ ボランティアでお手伝いします。ご相談ください。 
 ○ 授業づくり、学校づくり
 ○ マジック、ジャグリングの講習やショー

敬老会で手品をしてきました(2)

2010-09-19 22:19:13 | Weblog

 
 今日は磐田市の天竜地区の敬老会で手品・ジャグリングをしてきました。
 場所は醍醐荘でした。多数のお年寄りや役員の方で会場がいっぱいでした。遠くの座席でご覧になっていた高齢者の方には、見えにくかったのではないかと思いました。会場の広さ、お客さんの人数によって、出し物を考えることが必要だと感じました。
 演目は、
①バランス芸(ステッキ、新聞紙、箒、テニスラケットとボール)
②松竹梅カード(お祝いマジック)
③ジャンボカードモンテ
④3本ロープ
⑤シルクの耳の貫通
 明日(20日)も磐田の「iプラザ」にて、敬老会で手品をやるようになっている。がんばろう!
 


スカートまくり

2010-09-17 21:37:52 | Weblog


ある小学生が先生から「きみたちは、進んで人のいやがることをしなくてはいけい」とさとされて、さかんにスカートまくりをして歩いたという話を新聞の投書欄で見たことがあります。」
(見坊豪紀「ことばの海をゆく」朝日選書)

 言い換えるとすれば、「人がいやがってしないことを、きみたちは進んでしなくてはいけない」とでもなるのだろう。なるほど、小学校の先生は大変な仕事である。
       「名文どろぼう」竹内政明著より

国語(光村)2年「スイミー」の教材解釈

2010-09-15 09:55:59 | Weblog

  そのとき、岩かげに スイミーは見つけた、スイミーは 言った。スイミーのと そっくりの、小さな 魚の きょうだいたちを。
  「出てこいよ。みんなで あそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ。」
 小さな 赤い 魚たちは、こたえた。
  「だめだよ。大きな 魚に 食べられてしまうよ。」
  「だけど、いつまでも そこに じっと している わけには
 いかないよ。なんとか 考えなくちゃ」

追求課題
  「スイミーが岩かげにいる小さな魚のきょうだいたちに 出てこいよ。」といったのはなぜか。
① あそぶため、おもしろいものがあるため
② 死んでしまうから

「じっとしているわけにはいかないよ。」とはどういうことか。それは死を意味することである。「だめだよ。大きな 魚に 食べられてしようよ。」
といっている岩かげの小さな魚たちは、何を食べているのだろうか。小さな魚たちより小さな魚やプランクトンである。そうするとそこでは生きていることはできない。 ※ 魚とは、食物連鎖とはどういうことなのか

追求課題
岩かげには小さな魚は何匹いるだろうか。そうとうな数である。根拠としては、マグロよりも大きくなること。
 マグロは辞書で調べると、体長3メートル、体重400キログラム以上に達するとある。太平洋のクロマグロは体長4,5メートル、体重680キログラムに達すると言われている。黒板にマグロの絵を描かせてもよい。(※ 宮沢賢治著の「注文の多い料理店」での皿にのった2人の人間の絵を黒板に描くのと共通している。)
海でいちばん大きな 魚のふりとはどういうことかを考える。

大切な言葉
・スイミーのと・大きな魚に食べられる ・だけど・いつまでも・じっとしている・うんと・とつぜん・そうだ・いちばん大きな・ふり・なった


※下記のブログも検索しご覧ください。
①totoroの小道
②藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践事例が掲載されています)


敬老会で手品をしてきました

2010-09-12 14:50:10 | Weblog



 豊岡の上神増地区の敬老会で手品・ジャグリングをしてきました。
 お年寄りや子どもたちが大勢いました。
 演目は、
①バランス芸
②松竹梅カード
③ジャンボカードモンテ
④新聞紙を使ったカードの予言
⑤皿回し
 お年寄りや子どもたちが喜んでくれてとてもうれしかったです。
 今後は、19,20日と2回、磐田市の敬老会でも楽しんでもらうことになっているので、お年寄りが喜んでいただけるようにがんばりたいです。

アルファ読みからベータ読みへ

2010-09-09 10:01:39 | Weblog
        

「わたしの知的生産の技術」(講談社)を読んでいたら、私たちが学んでいる「課題追求型授業」に深く関係するような記事を見つけた。タイトルは「アルファ読みからベータ読みへ」外山滋比古著である。
 特に「文を読む」とはどういうことかである。課題追求型の国語の授業の教材解釈や授業をすすめるに当たっての強い味方になると考え、少し長くなるが以下紹介する。

 「読む」という言葉が簡単に使われていますが、「読む」ということはどういうことか、基本的なことはほとんど考えられていません。実はこれは非常に複雑なことであって、「書く」ことよりもひょっとすると、いっそう面倒なことではないかと思います。(中略)
 読みには2つの種類があります。前の晩にテレビで見たプロ野球のナイターの経過を翌朝、スポーツ新聞で読むのは、既に分かっているものを読むのです。仮にこれをアルファ読みとします。もう1つは、自分の経験を越えた未知のものを読む場合で、これをベータ読みとします。ベータ読みはたとえば禅の公案のように自分を越えたものの意味を読み取るのです。
 初めて字をおぼえ、読み方を習う子どもが、日常生活でよく知っているもの、たとえば、ハナ、ハト、マメというようなところから始めれば、ハトって何だろうと考える子どもはまずいませんから、声が出たとたんに意味が分かる。これはアルファ読みですが、問題はいつから未知を読むベータ読みへ移るかということです。今の学校教育では既知のものは音読、未知のものは黙読ということにきまっています。しかし、読みの方法論が教育の上で確立してるとはいい難い。そのため、多くの人が一生の間、アルファ読みに終始しています。難しい字も読め、理屈も言えるのに、自分の経験の範囲からちょっぴり出たところぐらいしか読めない。遠く離れたものは、おもしろくない、わからない、と放り出してしまいます。(中略)
読むほうもわかったという気持ちをもちやすい。ところが本当は何も分かっていないのです。新聞記事などは既知のような格好をしているから、アルファ読みですましてしまうのです。(中略)
 未知を読むのが実は大変面白く、クリエイティブな活動などだということを教えられることがなかったからです。
 書いてある通りを読めばいいというのはアルファ読みで、これは誰にでもできるのですが、未知のものを読む場合には、書いてあるとおりに読めるはずがないのです。結局は自分の思っているようにしか読めない。その思い方が非常に貧しければ、文章も貧しくしか読めないのです。(中略)
 アルファ読みからベータ読みへの移行、音読から黙読への移行はどうするかというと具体的に方法は一つしかありません。文学作品を読むことです。(中略)
 ではなぜ文学作品が必要かというと、文学作品はアルファ読みでも、ベータ読みでも、ある程度読めるからです。文学作品は一見、身近で分かりやすい形をとっていますから、アルファ読みしかできない人にもいくらかは分かったような気持ちを与えます。しかも同時に読んでいくうちに、それは作者の極めて孤独な精神の記録である場合が多いので、どうもアルファ読みだけではいけないというところがありそうな気がする。自分の知っていることをもとにした理解だけでは不十分だということが分かってきて、しだいにベータ読み、未知の読みに入っていく。こういうことをくり返していきますと、アルファ読みからベータ読みに切り換えができるようになっていきます。(中略)
 ところで、言葉の読み方を教えている国語の先生が不幸にして多くかつて文学青年だった人たちですから、この橋を渡って向こう岸のベータ読みに達するように教えなければならないのに、文学を目標にして橋の向こうへは行こうとしない。(中略)
本当の意味で未知を読むならば、数学的思考と文章の理解はかなり近い関係になります。読みは哲学的であり、論理的であり、あるいは高度に宗教的であり、極めて芸術的であり得る。ところが自分の経験をちょっとはみ出た程度のところで文学作品の読みが完了したように思い込む。先生がそう思っているのですから、子どももそう思うようになるのは当然です。そういう人が大きくなるとアルファ読みしかできない読者になってしまいます。せいぜい週刊誌のゴッシプ記事程度しかおもしろくない。理解は日常性の段階でとどまってしまいます。哲学や思想や自然科学の本を読んでも、自分の知っている分野のところは分かるが、その外へ出るともう分からない。理解の想像力が育っていないのですから、自分のやっていることは知っているが、知らないことは知らないというように截然(せつぜん)としている。知らないことはよく分からないけれども、こうではないかと思い、そのうち分かるようになっていくためには必ずしも読むことだけでなく、他に方法がありますが、こういう未知を読む訓練が学校教育ではほとんどなされていないというのは重大な問題です。
引用は以上である。

やはり文を読むときには、
○「変だ、おかしい、わからない、どういうことなのだろう」などの疑問を もって読む。
○ 辞書で意味を調べ、文に当てはめて考える
○ 文を切って調べてみる
○ 根拠はどこにあるのか見つける
○ 言葉や文から深いイメージをもつ
○ ひとりでなく他者と話し合ってみる
これらの学習作業がここでいうアルファ読みからベータ読みへとなるのだと考える。課題追求型の国語の授業では、既にベータ読みに近い読みをしているのであるのではないかと思う。

授業研究の会(浜松の会)のご案内

2010-09-05 09:30:32 | Weblog


皆さんお元気ですか。学級づくりは上手くいっていますか。授業が惰性に流れていませんか、形式化していませんか。これでよしとしていませんか。子どもたちのために、よりよい学級づくりや授業づくりをしていきたいですね。
さて、第5回授業研究の会(浜松の会)が下記のように開催されます。おそらく近隣では学べない、質の高い勉強ができる会だと思います。この会は、偏向的な教育や思想はしていませんので、安心して学ぶことができます。どなたでも自由に参加できます。忙しい時代だからこそ、それに負けず、一緒に学びましょう。 多くの皆さんの参加をお待ちしています。


1 開催日時  
平成22年 9月12日(日)9:00~12:00
2 会  場
なゆた・浜北第1会議室
3 研修内容
① 国語を中心とした各教科
② 音楽、図工、体育などの実技教科
③ 学級づくり
④ その他
4 準 備 物
○ 実践したもの(ある人)
○ 筆記用具
○ 国語辞典
○ 会費 300円
○ 服装は自由
5 連 絡 先
酒 井 哲 生
光明小学校 TEL053-925-3032
河 島 秀 夫
自 宅 053-926-2366
携 帯 080-1565-8320
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