松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

「読書、読み聞かせ」の効用、本の選び方

2009-07-30 08:57:19 | Weblog
 
数年前、「読書」「読み聞かせ」について、小林竜哉先生(福音館書店絵本研究室)の話を伺った。読書の効用等について、大変参考になる話でしたので紹介する。

1 読書の効用
○ 想像力、集中力、追求力などがつく
○テレビとは違い、画面がない、画面が動かないというところから、話の筋や登場人物等の表情を想像する力がつく。                           
○じっと考え込んだリ、予想したりして楽しむことができるので集中力がつく。
○学習吸収力が高まるので、教科学習に大いに役立つ。
これらの効用は、子どもの心や頭の中のありようであるので、目に見えにくいし、点数化できないものである。しかし、とても大切なことある。

2 本の選び方   
本を選ぶには大人が選ぶこと。選び方には、下記の4点が大切である。
① 絵本の場合は、しっかりした絵で描かれている。
  地味でもリアリティのある絵、あまり漫画化されているものはよくない。
② しっかりした日本語で書かれているものや訳されているのものがよい。        
  ガ~ン、イテテ、ビュヒャー、バキ~ンなど漫画に出てくるような言葉が多いものはよくない。
③ 表紙、作者名、本の歴史があるもの
④ 図書館のガイドブックを利用する。

3 本の与え方
○ 毎日10分でよい。「読み聞かせ」を続けること
イギリスで1992年から1998年の6年間、本を読んでやった子どもと読んでやらなかった子どもの能力テストをした。すると、すべてのジャンル、例えば、言語能力だけでなく、計算能力においても、本を読んでやった子どものほうが、ずっと優ったという結果が出ている。

※ 子どもたちは夏休みである。大いに読書させたり、読み聞かせをしてやりたい。

教師の仕事

2009-07-26 09:53:14 | Weblog
写真「歌う子どもたち」
 
 この「歌う子どもたち」の写真を見て、何と上品で清潔で美しい顔なのか、何と力強くパワーのある子どもたちなのかと思う。どこの学校でも見られるような顔ではない。前記事「すぐれたものから学ぶ」のような教師の学びがあってこそ、この写真にあるような子どもたちが育まれたのである。
 教師が指揮の勉強をして、呼吸や発声方法を学び、歌の解釈をして、子どもの前に立つ、こういう準備万端が必要である。また、指導の中でも刻々と変わる子どもたちの変化に応じて、指導の方法を変えていく。
高いものを目指すには、どうしてもこのような教師の仕事が必要である。

すぐれたものから学ぶ

2009-07-23 20:25:26 | Weblog
                      写真「指揮の指導を学ぶ教師」

 自らの中に偉大なるものすぐれたものを認める力さえないくせに、ことごとに不遜な言動をなし、価値を否定して恥じない徒輩は、一生かかってもこういう気持ちは味わうことができないであろう。そしてそんな奴は一生かかっても小さな真実さえつかみとることができないであろう。
  ぼくは、すぐれたもの偉大なものであったら、たとえそれが自分の主義主張とちがっているものであっても率直に頭を下げようと思う。価値を認めないなどということはぼくにはできない。 
                                       「表現と人生」斎藤喜博著より

  どうも私も含めて教師というのは、観念的であり、形式的である。いままでの自分の経験の中で生きていくことになれすぎている。仕事もそうである。目の前にどんなにすぐれたものを見てもなかなか認めようとしない。学校や授業や子どもが変わらないのはそこに大きな原因があるといってよいだろう。上記にあげた文章に通じるものがある。
 写真は、合唱指導で指揮の指導を受けている教師である。講師がすぐ横にいて、一緒に踊るようにして指揮の指導を受けている。
 多くの子どもの前である。他の先生方も多数見ている。この教師は恥をかきながらも何回も何回も指揮の指導を受けている。汗は飛び散る、呼吸も荒々しくなる、顔も紅潮してくる。この教師はこのようにして指揮の技術を身に付けようとして必死である。ああ!なんと美しい姿であろうか。
 歌っている子どもたちもこの教師の要求に応えようとして懸命に歌っている。見ている周りの教師もここから多くのことを学んでいる。
  今の学校現場では、こういう体験をすることはほとんどないであろう。教師は「教える人」であり「教わる人」でないと勘違いしているからである。または、よほど自信があるからであろう。しかし、そのように思っている教師は確実に教師としての成長は終わる。

机間指導を考える

2009-07-20 08:47:44 | Weblog
 
 以前には「机間指導」のことを「机間巡視」と言っていた。今ではこのように言う人は少なくなった。教育の用語?であり、一般的には使われていない言葉であるので、どちらが正しいのか定かでないが、巡視とは「警戒や監督のために見回ること(広辞苑)」とある。そうであるならば、机間指導と言った方が良いのではないかと考える。
 机間指導についていくつか記してみる。
1 机間指導の意義
○ 机間指導は、平板な授業を立体的にし、リズムを生み出す。
○ 机間指導は、個別指導をする機会を増やす。
○ 机間指導は、教師の一方的な指導から個々の学びに移すことができる。
○ 机間指導は、個々の考えを拾い上げることができる。
○ 机間指導は、子どもの学習意欲を向上させる。
2 机間指導をするときの留意点
○ 机間指導は、目的を持ってやる。形式的にやらない。
○ 机間指導は、1時間に1回はやりたい。しかし、どうしてもということではない。
○ 机間指導では、教師は赤ペンと補助簿を持つこと。個々の子どもの学習点検や考えを拾うためである。
○ 机間指導で得た子どもの考えを一斉指導に生かすようにする。
○ 机間指導は、学力の劣る子どもからする。
○ 机間指導の途中に、ある子どもから参考になるものが出たら、全体の子どもに紹介し、学びの理解や質的向上を図る。
○ その他

子どもの意見をみんなのものにする仕事

2009-07-15 16:21:46 | Weblog

1 教師が子どもの意見を真剣に聴く
まず、教師が子どもの発言をしっかりと聞くことが大切である。どんなに小さな声の子どもでも、言葉が足りず意味不明なことを言う子どもの発言も真剣に聞いてやることであ る。そのことにより、子どもは自分の考えを教師は大切にしてくれるのだという思いになり、発言してくれるようになる。また、そういう教師の姿を見て他の子どもも、人の発言をしっかり聞かなければならないことを知る。
2 つながりをつくる
一問一答の授業では、その子どもと教師だけのものになりがち、子どもの意見を横に広げていきたい。
○「今の○○のさんの考えを、もう一度だれか言ってくれませんか」
○「今の○○のさんの考えは、どう思いますか」
○「同じ考えの人は、その考えを聞かせてください」
○「ちょっとでも考えがちがう人がいたら、どんな考えか教えてほしいな」
○「グループで考えを出し合ってください」
   等他の子どもの発言を求める対応をする。

初任の先生に伝えたいこと③~教師の発問や指示について~

2009-07-12 10:25:14 | Weblog

 初任者の授業を見ていて感じることは、教師から出された発問や指示を子どもたちがはっきりと理解していないのに、「さあ、考えてみましょう」「ノートに書いてください」「始めてください」などとすることがある。そんなときに、子どもから、「先生、よくわからないのでもう一度言ってください」と言ってくれるといいのだが、学習意欲がない子どもたちの場合は、そんなことを言う子どもはいない。そのうち教室が騒がしくなり集中を欠いていく。そういうことがないように教師はいつも次のことに留意したい。
○ 子どもの反応をみること
教師は子どもに発問や指示を出したら、子どもの顔と心を読みとらなければならない。自分が発した言葉が子どもに届き、内容が伝わり、子どもが理解できたか、そして、子どもが何をすればよいか、何を考えればよいかがわかっているかを子どもの姿から読みとらなければならない。もし、子どもの理解が不十分だったら、次の手を打っていきたい。
1 言葉を選び具体的に話す。
教師の発問や指示は、子どもたちが考える基盤をつくってやるための言葉である。したがって教師は、発問や指示などには、特に気をつけて、的確に言葉を選んで発していかなければならない。子どもの中にしっかりと入っていくように話さなければならない。
2 音読をして確かめる
教科書や資料に書かれていることを問題とした場合など、一部の子どもしか理解ができていない場合は、もう一度教科書や資料を読ませるようにしたい。
3 板書して明確にする
  言葉だけでは理解ができない場合には、板書すること、それも子どもが視覚によって問題が明確になるように工夫をして書いたり描いたりすることが大切である。
4 他のものと対比させることによって、子どもたちに考えやすくさせる。
5 子どもが考えあぐねているとき、子どもの生活経験のなかにある事例を具体的に出して考えやすくさせる。
6 子どもの発言を整理し限定し、学級全体のはっきりとした問題にしてやる。

               ※4,5,6は「授業の可能性」斎藤喜博著より

進化する国語の授業

2009-07-06 14:11:15 | Weblog

  赤佐小学校の平野先生の授業を参観する機会があった。教材は、5年生の国語「千年の釘にいどむ」であった。授業は、 第1時で、「題名読み」であった。授業記録のあらましを書いてみる。
T 今日、みんなで読み深めるのは、この一行です。
「千年の釘にいどむ」これは、これから学習するお話の題名です。このたった8文字を1時間で読み深めて、本文を読み取っていくための問題をつくりたいと思います。
C (たった8文字とうことで)子どもたちはどよめく。
T でも、これだけを読み深めるって、難しいよね。難しいときはどうするの?
C 切る
C 文を分けて考える。
T そうですね、じゃあ、切ってみよう。今回は8文字しかないから、細かく切ってみようか。どこで切れるかな
C (子どもたちが、てんでに発言して切る場所を言う。)
 千年/の/釘/に/いどむ
   ①   ②  ③  ④   ⑤
T 5つに切ることができたね。この5つの言葉の中で、みんなが気になるのはどれですか
C (それぞれに、ぶつぶつ言いながら考える。)②「の」、④「に」、⑤「いどむ」の声が聞こえる。
T 挙手をさせて人数を調べる。(複数挙手を認める)
C ①10人 ②23人 ③0人 ④24人 ⑤19人
T 多かったのを考えよう。②の「の」は、何だっけ。
C 助詞です。
T そうですね。これは、言葉と言葉をつなぎ、新しい意味を生み出す言葉でしたね。助詞の「の」には5つの意味があったね。(1~5の意味を示した小黒板を提示して考えさせる。)今回の「の」はどれだろう。
C ④です。時を示すものです。
T そうですね。千年「の」釘だね。千年だから時ですね。でも何かもの足りなくないですか。
C 千年「前」の釘、前が入るとわかりやすいです。
T そうですね「前」が省かれている。
T 他に気になる言葉はありますか。
C 「に」です。
T これは、初めてですね。意味を調べてみようか。
C 各自が辞書で調べる。
① 場所を示す 
② 時を示す
③ 相手を示す
④ 比べる 
T これだけだとわかりにくいので、例文をつくろう。
C ①は場所を示すのだから、「川に行く」「塾に行く」などです。
C ②は時を示すのだから、「8時に起きる」「6時に集合」です。
C ③は相手を示す。「お年寄りにゆずる」「友達に貸す」など。
C ④は相手があるのだから、「妹にそっくり」です。
T そうすると、この千年の釘にいどむの「に」の助詞は①から④のどれになるだろう。
C (子どもが選択問題として挙手数を調べる)「用意はいいですか」「いっせいのはい」
③相手を示すを多数が選ぶ
C いどむ相手は千年の釘である。
T そうですね。それでは「いどむ」って何
C 辞書で調べる。
C 辞書の意味を発表する。
① 闘いや争いをしかける。
② 立ち向かう。
T この場合の意味は①か②かどちらですか。
C ②です。
T では、その「立ち向かう」の意味を調べてみよう。
C 「立ち向かう」の意味は、困難な物事に正面から取り組んで処理しようとすることです。
T それでは、「千年の釘にいどむ」の言葉にあてはめてみると、
C 千年の釘の困難な物事に、正面から取り組んで処理しようとすることです。
T そうすると「困難な物事」が問題になっていくね。千年の釘にある困難な物事とは何だろう。本文を読み取る必要があるね。何だか楽しみだね。・・・・・

 以上は、私の記憶している授業の記録である。この授業よさを書き出してみる。
○ 1時間かけて、「題名読み」だけをするのは、教師の指導力がなければできない。よい授業は、教師がどれだけ教材に対して、子どもたちに値打ちのある注文をかけることができるかで決まる。
○ 子どもたちが問題を追求していく意欲とその方法を知っている。また、その方法を使うことができるようになっている。
○ 「の」や「に」の助詞にも注目して読み取っていた。おそらく、普通の教師ならば、できないであろう。その重要性がわからないからである。
○ わからない場合は「分けて」考える。これが大切である。こんなに細かく分けて、ちまちまやるのはダメだといく教師がいる。そういう教師は実際にやってみないからその効果 がわからない。
○ 子どもたちが文章を読み取る手法をよく身に付けている。「辞書を引く」、「文章を切って考える」「助詞にもこだわる」「選択して考える」「例文に置き換えて考える」「友だちや先生の発言に反応する」などである。
○ 「聞く」「話す」などの「伝え合う」学習ができている。これもこの授業記録だけでは理解してもらえないだろうが・・・。
○ 子どもたちは終始、集中して問題を追求していた。
○ 子どもたちが素直で誠実である。よい授業はこういう子どもを育てる。
○ このような追求的な学習は、他教科にも転移している。とくに、教室に掲示された全員の「タケノコ」や「アジサイ」の絵は追求的で素晴らしい。
○ この授業は「進化する国語の授業」と考えてもよい。これが進化すると呼んだらよいのかよくわからないが、少なくとも従来の国語の授業とは異にしたものである。従来の国語の授業の多くは、子どもたちに登場人物の心情を語らせたり、情景を考えさせたりして、教師は黒板にそれを書き並べるだけというものが多かった。子どもたちは、発言はするが1つの問題についてディスカッションして、新しい考えを生み出すということはあまりないからである。


※ 課題はないとも言えないが、少なくとも1学期で子どもたちをここまで育てたんだから、「凄い!」と言わざる得ない。

教育メモ⑤~教材と指導時間について~

2009-07-01 15:19:43 | Weblog
教育メモ④の続き

Q こんなに時間をかけていては教科書は終わらないのではないか
A こういうたぐいの意見はつねに出てくる。こういう意見はつねに一定の「栄養」のバランスと分量を第一にすえる発想だから、話がうまくかみあわない。しかし、授業を受けた子どもの方が私の意図に共感してくれることが多いので救われるのである。
○ 一つの短い俳句から、45分間の授業ができるということに驚きました。
○ ひとつの俳句について深いところまで考えたり、またみんなの感想を聞けてとてもよかったと思う。
○ ひとつの俳句を1時間かけてやるって、すごいやりがいがある。
 などの子どもたちの感想文がそのことを示してくれる。
  子どもは「甘いものが好き」なのではなく「うまいものが好き」なのだ。「味」さえわかればあとは、子どもが自分で意欲的に他の俳句にも取り組んでいけると考える。
深く追求していく学習は、「上位生」だの「下位生」だのということは問題になってこないことが多い。むしろ日ごろ国語が「不得意」な子どもの方が、おもしろい、よい意見を出してくれることも珍しくない。
「ひとつの俳句を1時間かけて」みんで力をあわせて攻め落とすような学習作業自体が、今日の学校においては「非日常的」になっていることである。だが、毎日はおろか、週に1回でさえむずかしいかもしれないが、こうした「非日常的」授業がときおり入ることによって、「日常の授業」もよりよく生きるのではないだろうか。

A 教科書が薄くなるほど、授業での教師の努力は大変になるはずである。たとえば俳句1句だけを教材として、1時間の授業を構成してみるばあいを考えてみるとよい。少なくも百句くらいの研究をしたうえでなければとても授業がもたないであろう。(それは1句に対して百句を引き合いに出すのではなく、百句の素養を1句に凝縮して授業を展開する、ということである。)ところが1時間に十句とりあげれば、その十句につてひととおりのことを調べておけばそれでなんとか授業の表面だけはつくろえる。つまり、教材は精選すればするほど教師がその本質を深くとらえていることを要求されるのである。つまり教材や教材の核を絞れるということは、逆に言えば、かぎられた部分に十分時間をかけられるということは、その教師の力量が大きいからこそ可能なはずである。だが、一般には教材が減れば、それに要する授業時間が減り、あるいは単位時間当たりの教材量(授業密度)が小さくなるかのように誤解されているのではなかろうか。
教材は与えられるものという考え方は教師には根強い。それがこれまでの教育課程行政のしからしむところである。教材は教師が作り出すものだ、だから教師が成長する。
よい教科書はもとより必要であるが、それを生み出す場が実は授業なのだとまで考えられることこそが、いまほど必要なときはないであろう。