・・・国語は、科学というよりみなが使っている日本語なんだよ。なんでもないんだ。
とはいえ、日常、たいていの家庭では、首尾一貫した論理で会話がかわされているわけではない。
また気のきいた修辞をつかう両親というのはすくなく、ふつう、4,5百語の生活単語で間に合わせている。水、めし、疲れた、寒い、暑い、ふろ、おなかがすいた。あるいは、あすは雨だろうか、という範囲で、つまるところ、古代穴居人とかわらない。それを少しでも高度にしようというのが、国語科の目的のひとつである。
言語が、一つの国が千年以上かけた最大の文化遺産であることはいうまでもない。これによって人は、森羅万象を知的に、あるいは情緒的にとらえることができる。そういう言語の教育は、学校の国語科の教室でしかとりあつかわれないのである。・・・
司馬遼太郎著「風塵抄」より
私も司馬遼太郎氏が言われていることがよくわかります。それだけに学校での国語指導の在り方を変えていかねばと思う。
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①totoroの小道
②藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践事例が掲載されています)