〈教師の世界では、自分へ矢を向け、自分の仕事で追求し、自分を専門家にし、教育の分野での可能性に向かって、ぎりぎりまで追求し実現することへの志向と努力の不足があった。教師が自分の専門での追求をせず、いたずらに政治経済のみを論じたり、へんな一般論のみやったり、皮相的なムード的な危機感や絶望感のみを持ったりして、専門の自分の仕事への貪欲なほどの執着とか執念とか追求とかがなかった。それによって突破口を見出すというようなことがなかった。したがって教師は、何を専門にしているのかわからないような人種になり、ぬえ的な存在になり、専門家としての重さも、迫力も、自身も、発言力も持たないものになっていた。〉斎藤喜博著『私の教師論』より
これは斎藤喜博が生きた時代だからといってはならない。いつの時代でも教師は要求されることである。教師が教師としての専門家を軽んじたり、それを捨てるとき保護者からのクレームを招き、そのクレームが理不尽であろうと、学校や教師は何も言えなくなってしまうのである。また、政治家や経済界から何を言われても反論することもできなくなってしまうのである。
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