松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

この1本のラインが子どもの運動を促す

2009-09-30 13:11:14 | Weblog

 グランドに引いた1本の線が、トラックのラインが子どもたちの走りを促す。何でもないことのようであるが、効果は大である。教師は忙しい、指導できない。しかし、子どもたちには主体的に運動させたい。そんなときがある。この1本のラインにより、子どもたちは自分で、自分たちで走り出す。これも教育技術の1つである。
 朝登校すると多くの子どもたちがこのライン上を走っていた。それも歓声を上げ、競い合って走っていた。そこには教師の姿はなかった。

よい教師になるための基礎訓練

2009-09-25 20:43:36 | Weblog

      


1 自分の実践に学べ(失敗の体験から多くのものを引き出し、次につなげよということである。)
2 他人の実践に学べ。(他人の経験をそのまま真似てみる。模写授業をする。)
3 先人に直接手を取って教われ(授業に介入されることは恥ずかしいことでない。教師や子どもが開かれていないとできないことである)
4 難物から学べ(難物だと言われる子どもから多くのものを学べ)
5 絶えず学び続けよ(授業もそうだが、この世にあるもので、もう学ばずに完成というものはない。学ぶということが習慣になっていなくてはならない)
6 共に学べ(学びの共同体としての学校をつくる)
7 事実につき、事実をつくり出せ(事実を見ないし、事実をつくり出せない教師は本当に学んだことにはならない)

※ 教師は何より精神の飢えを感じなくてはならない。



二宮金次郎像と学校教育

2009-09-22 11:38:01 | Weblog

 二宮金次郎は昭和の初めのころ、日本政府が、彼の姿勢を戦争に利用するため銅像として全国に建てたといわれている。小学校に多いのは彼の勤勉さが理想・手本としてふさわしいと考えられたからだろう。
 現在の小学校、または中学校の義務教育では、この二宮金次郎の銅像はふさわしいと感じなくなった。あまりにも教育の目的が変わってしまったからである。
 わが国の伝統的な教育である全人教育が失われ、学力向上だけを目指した教育になってしまったのが大きな原因である。受験戦争、学歴主義、全国一斉学力テストなどである。しかし、これでだけで育った人間は決して、世のため人のためになるとは思われない。昨今の日本の教育改革の間違いだといえるのではないだろうか。

詩の朗読の実践5「菜畑」

2009-09-19 21:27:57 | Weblog


 部屋の整理をしていたら、詩集が2冊出てきた。私が30代半ばの頃(昭和55~56年)子どもたちに詩の朗読をさせようとしてつくった詩集である。
 4月から3月までの年間計画を立て、毎日「朝の会」などに朗読の指導をした。その時の子どもたちは6年生であった。
 子どもたちは、喜んで詩の朗読をした。1人で、2、3人で、群読で、立ち位置を考えたり、身体で表現したりして朗読した。今でも子どもたちの素晴らしい読みと、その動きが鮮やかに蘇ってくる。
 この昭和55,56年と2回 斎藤喜博作「利根川」の総合表現も指導した。


9月にはこんな詩の朗読をしている。
土(三好達治)・菜畑(野長瀬正夫)・おかあさん(野長瀬正夫)・熊の子(田中冬二)次郎(大木実)


菜 畑
                      野長瀬正夫
少年は
道でお嫁さんの行列にあった
お嫁さんは19だと人がうわさをしている
少年は
ふと、姉のことをかんがえた 
姉はことし25
少年は
石ころをけりながら家に帰った

姉はうらの菜畑で
菜の葉についた虫をとっていた
────── ねえさん
姉ははならびのよい歯をのぞかせて
にこっとわたった
────── ねえさん────── どうしたのよ

少年は
べつにいうことがなかったので
ぼくも虫をとってやろうと
姉とならんで畑にしゃがんだ
きょうは
紀州の山がよく見える

「自問」を大切にした清掃

2009-09-17 11:44:22 | Weblog

【無言で清掃に汗を流す子どもたち】


 自問とは、自分に問うということです。「~しなさい」と言うとやらされることから、自分の考えで「~する」「~したい」ということを自分で決めることです。
 清掃の始まりの音楽がなったら、自分の仕事をする場所に行って、一生懸命清掃をする。他の人が話しかけても清掃に心を向けて努力する。まわりを見て友だちの手伝いをする。時間いっぱいまでがんばる。このことがよくできるようになることです。
 自問は自問清掃から自問学習、そして自問する人間へと発展していくものだと考えます。自問清掃は人生にもつながっていくわけです。
 子どもたちには、「自問」という言葉は教えていませんが、教科学習・学校行事・清掃などすべての教育活動において培っていくものです。そうすると少しずつ子どもたちは変わっていきます



廊下、階段の歩行

2009-09-14 11:28:49 | Weblog


 子どもたちの廊下や階段の歩行は、「走る」「足音を立てる」「大きな声でしゃべる」のどれかに入る。いや、これらの幾つかを含めた歩行が多い。指導してもなかなかよくならない。だから、どこの学校でも永遠の課題だと言われている。しかし、このような歩行を永遠の課題だとしてすませるわけにはいかない。他人に迷惑をかけている以上、子どもだといえそのままにしておくわけにはいかない。
 どうしたらよいのか。まず、授業等で教室から特別教室や体育館への出入りの移動を指導する必要がある。
① 話をしないで歩く
② 並んで歩く
③ 走らないで歩く
④ 胸を張って歩く
⑤ 目的を持って歩く
である。全員の教師の指導(ここが大切である)と子どもたちの努力により、これはかなりよくできるようになる。
 特に目的を持って歩くことは大切である。体育館で校長先生の話を聞く、音楽室で歌や器楽の学習をする。図工室で絵を描いたり、工作をしたりする。それらの学びの目的を持たせて歩かせたい。特別教室から学級の教室へのもどりも大切である。学んだことやその雰囲気を逃がさないように教室にもどらせたい。
 私たちは、主活動ばかりに目を向けてしまいがちだが、その前後の子どもの言動にも配慮しなければならない。それは主活動にも大きな影響を与えるからである。

詩の朗読の実践4「熊の子」

2009-09-11 15:30:24 | Weblog


部屋の整理をしていたら、詩集が2冊出てきた。私が30代半ばの頃(昭和55~56年)子どもたちに詩の朗読をさせようとしてつくった詩集である。
 4月から3月までの年間計画を立て、毎日「朝の会」などに朗読の指導をした。その時の子どもたちは6年生であった。
 子どもたちは、喜んで詩の朗読をした。1人で、2、3人で、群読で、立ち位置を考えたり、身体で表現したりして朗読した。今でも子どもたちの素晴らしい読みと、その動きが鮮やかに蘇ってくる。
 9月にはこんな詩の朗読を指導している。
熊の子(田中冬二)・菜畑(野長瀬正夫)・おかあさん(野長瀬正夫)・次郎(大木実)


熊の子

              田中冬二

熊の湯の温泉では熊の子を飼っていました
熊の子は生まれてまだ百日くらい
まるまるとしてかわいく 
やぎの乳のかかったおかゆを食べていました
私は食膳にのこりのトマトをやりました
熊の子は鉄砲でうたれた母熊のまわりをぐるぐるまわっていました
熊の湯の佐藤さん
秋になったら熊の大好物の山ぶどうをたくさんやってください

指導と評価の一体化

2009-09-07 20:22:09 | Weblog

 指導と評価は表と裏の関係にあり、2つは同時的に進むものである。例えば、努力している子どもに対して「よくがんばっているね」と声をかけることは、評価であると同時に指導でもある。努力を認めたのは評価であり、それによって学習の動機づけを行ったのは指導である。
 全員に対する画一的な基準で評価するのではなく、一人一人の中に基準を求めるとう個人内評価の立場を重視して、指導の中の評価は行うべきであろう。例えば、やや不満足であっても、その子において進歩であり、努力の現れであれば、「それでいいよ」と声をかけるべきである。画一的な到達目標だけを基準にしていると、遅れがちな子を指導の中で生かすことはできない。この子なりの基準を持つことによって、支援的な指導につながる評価となるのである。
 斎藤喜博は「教室愛」という著書の中で、「努力を評価する」ということで次のような文章を書いている。参考になるので引用してみよう。
 今ここに学級でいちばん書き方の上手なAという子どもと、学級でいちばん書き方の下手なBという子どもがいたとする。
 ある時間のBは非常な努力をして5の進歩をとげた。ところがAはその時間なまけていて2しか進歩しなかった。けれどもやはり結果においては、天賦的に上手なAは依然として学級でいちばんうまく、Bは学級でいちばん下手であった。このとき指導者が、迂闊にAをほめ、Bに向かって「お前のように下手では困る」などと言ってしまってはどうであろうか。
 それはたしかに、学級全体の横の関係だけを見て、機械的に子どもの成績をならべていけばそうなるであろうが、そういう指導者は、個人の縦の進歩ということを少しも認めないのである。このばあいでは、AよりもむしろBの方が3も努力しているのだから、Bこそ賞せられるべきである。すなわちAに向かっては「君はこの前までは毎時間5ずつ進歩していたのに、きょうは2きり進歩しなかった。原因がどこにあるかよく反省してごらん」、Bに向かっては「君はこの前は2の進歩だったのに、きょうは5の進歩をした。えらいね、この前と合わせると7の進歩をしているのだよ」というように、その発展を示してやるべきである。それを、あべこべにAを賞しBの進歩を認めないようであれば、それはAをもBをも殺してしまうのである。
 こういうことはささいなことであるかもしれない。けれども、こういう微妙なところから学級が生きもし、死にもするのである。個人が生きもし死にもするのである。そして、学級のなかにかわいそうな劣生というものがつくられ、また能力がすぐれているからといって生意気になり、他を軽視し、そして自分の成長をとめてしまうような者がつくられるのである。

詩の朗読の実践3「土」

2009-09-04 11:52:20 | Weblog
 

  部屋の整理をしていたら、詩集が2冊出てきた。私が30代半ばの頃(昭和55~58年)子どもたちに詩の朗読を指導しようとしてつくった詩集である。
 4月から3月までの年間計画を立て、毎日「朝の会」などに朗読を指導した。その時の子どもたちは6年生であった。
 子どもたちは、喜んで詩の朗読をした。1人で、2、3人で、群読で、立ち位置を考えたり、身体で表現したりして朗読した。今でも子どもたちの素晴らしい読みと、その動きが鮮やかに蘇ってくる。
7月には3つの詩の朗読を指導している。
夕だち(村野四郎)・虹いろの魚(村野四郎)・土(三好達治)である。


    土     
          三好達治
蟻 が

蝶の羽をひいて行く

ああ

ヨットのようだ


※ 私は、このような情景もよく見かける。ヨットの帆が蝶の羽のときもあれば、コオロギやバッタの羽のときもある。または、植物の種のようなときもある。蟻は身体が小さくて黒くて見えにくいが、このような場合にはかなり離れたところからでも見ることができる。見ると言うよりも、あれ!何だと近づくと「ああー、何だ」となる。そしてしばらく蟻の行方を追う。そして蟻の力の凄さを感じたりもする。

2学期を迎えた初任の先生方へー②授業づくり

2009-09-01 14:24:37 | Weblog
始 業 式


 2学期の始まりも、子どもの指導を強化する大きなチャンスである。初任の先生方が2学期の課題としているものはほぼ共通している。授業づくりにおいては、次の4点である。対策も考えてみる。

1 話を聞ける子どもにする
そのためにはどうする
① 話し手を見させる
② 反応させる(うなずく・声を出す・感心する・首をかしげるなど)

2 考えを持つことができる子どもにする
そのためにどうする
① 問題を分析させる(分ける)
② 選択させる
③ 人数を数えさせる 
④ 証拠をあげさせる

3 考えを表明できる子どもにする
そのためにどうする
① 安心して話せる学級にする
② 間違いも大切にする

4 考えが交流できる子どもにする
そのためにどうする
① 考えを横に広げる
② グループでの学習をする

※ 以上の1~4の指導を徹底する。しかし、子どもに要求するだけではダメである。次の仕事は教師がどうしても努力しなければならないものである。

1 教材研究(解釈・分析)国語指導を例にして示す
① 発問や課題の工夫
「○○の気持ちを言いましょう」では、何とでも言える。だいたい似たり寄ったりの思いがでるだけで話し合いにはなりにくく、子どもたちはだんだんつまらなくなる。
「○○はいつから○○のような考えを持つようになったのでしょう」なら、子どもたちは文を読むようになる。その証拠も見つけるようになり、話し合いになりやすい。みんなで考える勉強の楽しさを知るようになる。
教師の発問や学習課題は、子どもたちがどうしても考えてみたくなるような身に迫るようなものでなければならない。そのことによって、はじめて子どもの思考は動き出す。そういった意味でも発問や課題は大切である。

2 固まっている思考を動かす、広げる、深める工夫
① 考えを横に広げる
「今の考えはどうですか」
「今の○○のさんの考えを、もう一度だれか言ってくれませんか」
「同じ考えの人は、その考えを聞かせてください」
「ちょっとでも考えのちがう人がいたら、どんな考えか教えてくれない」
  話し合いといいながら、教師の一方的な教え込みや、子どもと教師との一問一答方式の授業になりやすい。これを少しでも集団思考をさせることによって新しい考えを生み出していきたい。

② 比喩や例を出す
「登場人物は誰が出てきましたか、お化けですか?」
「『しかし』を使って、短文をつくりましょう」
「役割演技をしましょう」
「黒板に絵を描いてください」

③ グループでの学習
考えが固まってしまったり、難しくて動きがとれなくなることがある。これらを打破して、学びをわかりやすくするためにも必要なことである。