松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

2学期を迎える初任の先生方へー①学級づくり

2009-08-29 16:39:48 | Weblog
    

 ドッジボール大会等のイベントをやって、仲間づくりをすることが学級づくりと考えている先生がいないだろうか。しかし、そんなことで学級づくりなどできるものではない。学級づくりは授業の中でするものだからである。
 学級づくりの原則には次の3つの柱があると考える。1つは「学級の雰囲気づくり」2つは「子どもの価値観を変える」3つは「子どもの学習能力の形成」をするである。以下、述べてみる。

1学級の雰囲気づくりをする
重要なことは、安心してものが言える学級の雰囲気をつくることである。分からないことがあたりまえ、まちがっても大丈夫をしっかりと子どもにわからせたい。

2子どもの価値観を変える
子どもの価値観は、授業とはこういうものだとうことを変えることである。つまり、授業とは先生が教えてくれるものだ。ということから、授業とは僕たちが進めていくものであると。学級とはみんなで何か一つのものをつくっていくところだと。友達とは自分たちの価値観を高めるものだと。自分観とは自分としては、こんなことしかできない限界があるのだというようなものから、やればできるものだと変えていくことである。

3子どもの学習能力の形成をする 
1つは自分の考えを持つ、そして自分の考えを言う、そして、人の考えを聞く、これが基本である。そうして、コミュニケーション能力を育てる。あとは、問題をつくる能力だとか、証拠を見つける能力だとか、イメージを持つ能力だとかである。
とりあえず自分の考えを持つ、①か②か全員手を挙げる、これが全員参加になる。あと、意見を持つ、友達の考えを聞く、この3つを4月(1学期ができなかったら9月の始め)最初に徹底してやり続けることが大切である。大事なことは教師が妥協しないことと徹底してやる姿勢である。徹底とは2つあって、子どもにやり切らせること(つまり,教師がやりきること)と一人の子どもも残さないことである。

 私たちはよく体育などをやっていて、跳び箱など5,6人ができなければ、このままできなくてもいいや、となる。もし、そこでできない子どもをつくってしまうことになると他のことでもできない子どもをつくってしまうことになる。必ず全員ができるようにすること、それが原則である。本当に体の肉体的なことでできない場合はしかたがないけれどもできることはやらせることである。だから意見を持たせるというのは、必ずできるのでやらせなければならない。

 もう一つは価値観の徹底である。「教室は間違うところだよ」と言っておきながら、子どもがガラスを割ると「だれがやった!」「どうして割った!」と叱る。「友達の間違いから学ぶ」と言っておきながら、指導が一貫していない。いつも「自分で課題を求めて行動してね」と言っておきながら、「はい、一列に並びましょう」などと指示命令をやっている。これでは子どもは先生の価値観で生きていくことになる。先生の言うことでしか動かない人間になってしまう。だから、指導の徹底とか一貫とかは大切である。

 ただ、学級づくりというのは、生徒指導と同じように授業の中でやることが大切である。よく学級経営は授業とは別のところでと考える先生がいる。ドッチボールをして楽しくやろうとか、仲間づくりをしようとか、イベントを打つ、それは本物にならない。授業の中で追求していく子どもをつくることによって学級づくりをすることである。

川は学校だった

2009-08-28 08:46:55 | Weblog

 夏休みでもあり、本を読む時間が普段よりもある。図書館から何冊かの本を借りてきて緑陰で読書をした。
 「一人旅は人生みたいだ」立松和平著の中で次のような文章が目にとまった。短い文なので紹介する。

          川は学校だった

 大きい小さいや、有名無名に関わりなく、誰にも自分の川というものがあるのではないだろうか。子どもの頃に遊んだ川だ。
 夏などは、いつも川に呼ばれている気がしたものだ。学校から帰ると、ランドセルを家の中にほうり投げ、自転車をとばして川にいった。私の近所の川は、姿川や田川で、地域の人ならよく知っているが、少し離れれば誰も知らない。少し頑張って自転車をこいでいけば、鬼怒川があった。これらの川は、私にとってかけがえのないものだ。
 私は川ガキだった。泳ぎは基本的にはプールで習ったものの、応用したのは川でである。川は流れが複雑だし、深いところと浅いところがあって、そのつど考えた泳ぎ方をしていかねばならない。もし世界のどこかで乗っていた船が転覆した時、あの時習った川の泳ぎが少しは役に立つかもしれない。川で泳ぎを覚えるということは、川に生きる力をもらったということである。
 川で泳いでいて、水面が目の上にいったり下にいったりしたことが、何度となくある。溺れかけたのだ。もがいているうち、なんとか川底の砂に足がつく。もし世界のどこかで
溺れかけたとき、私はあのことを思い出し、せめて楽観的になれるかもしれない。案外助かるかもしれず、そうすれば川に助けられたということになる。 
 川底の石を裏返しにして川虫をとり、釣り針にかけ、魚を釣る。箱眼鏡を流れにあて川底にいるカジカをヤスで突いてとる。魚とりが川遊びで一番おもしろかった。大漁の時は河原で焼いて食べた。この遊びは自然の中で生きる力を習得するということで、私は世界のどこで釣りをしようと原点は鬼怒川にある。
 川は学校と同じだった。男の子ばかりでいるので、時には喧嘩になる。たとえ暴力沙汰になっても、石で殴るなどは最低のその下で、ナックルパンチもいけない。猫パンチで殴りあったから、音ばかりがすごくて怪我もせず、結果はきちんとでた。大人になってもこんな気持ちで闘えば、相手も自分も傷つけないであろう。
 川ではたくさんのことを学んだのである。あんな川はなくなってしまった。もちろん水が汚れてしまったためである。 


 ※ この文を読んでいて、私は自分の体験と重なる部分がたくさんあるように感  じた。「誰にも自分の川がある」「川は、私にとってかけがえのないもの」 「川はそのつど考えた泳ぎ方をしていかねばならない」「川に生きる力をもらった」「箱眼鏡を流れにあて魚をヤスで突く」「川は学校と同じだった」・・・などである。
また、この文を読んでいるうちに、私の過去記事である「砂場の教育『人生に必要な知恵は、すべて幼稚園の砂場で学んだ』ロバート・フルガム」を思い出した。

合唱の指揮

2009-08-25 11:40:01 | Weblog
              【子どもの声を引き出す教師の指揮】


 私は合唱の指揮は、子どもの前に立ち三拍子は三角に、四拍子は四拍が分かるように指揮をすればよいと思っていた。しかし、あるとき講師の先生から次のような指摘を受けた「そんな指揮では、子どもは指揮者を見ないで、窓から外の景色を眺めていても歌えます。それは、その曲自体が三拍子なり、四拍子でできているからです」と、私はドキッとした。言われてみればまったくそのとおりだからであった。
 合唱の指揮というものは、子どもの声を引き出さなければならない。そのためには、「子どもが発声しやすいように」「歌うときに身体が自由に使えるように」「歌詞の内容や曲のイメージを子どもに伝わるように」することである。そのためには指揮は、腕だけでなく全身を使ってやらなければいけない。場合によっては指揮者は、前後左右にも移動しなければならない。指揮者は、曲の構想をしっかり持って、何回も練習をし、子どもの前に立たなければならないと教えを受けた。
 私を含めて多くの教師、音楽専科の教師さえも「これは、何拍子の歌だから腕をこのように振ればいいよね。」と形式的に考えていなかったであろうか。

学校と塾

2009-08-21 08:23:27 | Weblog


 世界的指揮者の小沢征爾さんは、『「塾」は独特のきずな』というタイトルで次のように記している。
 「学校の規模を大きくしたり校舎を立派にしても、音楽をきちんと教えられないなら、どうしようもないじゃないですか」と疑問を示す小沢さんは、本当に大事な音楽の心や志は「個人から個人への手渡し」でしか伝えられない、その場が塾だと言う。
 音楽学校より音楽塾の方が「何か悪いことができる気がした」と世界の小沢。確かに塾の字の中には「丸」があっていろいろ許される気がするが、特に昔の学校の「學」にはカンムリに2つも「×」が付いていて、あれこれしかられそうである。
                                  静岡新聞「語異夢中」より

 
 公教育の中で、生きている私などは、ときどき小沢さんの言われるように「何か悪いことができる気がした」というような学びの内容がほしいような気がする。

詩の朗読の実践2「虹いろの魚」

2009-08-16 11:14:19 | Weblog


 部屋の整理をしていたら、詩集が2冊出てきた。私が30代半ばの頃(昭和55~58年)子どもたちに詩の朗読を指導しようとしてつくった詩集である。
 4月から3月までの年間計画を立て、毎日「朝の会」などに朗読を指導した。その時の子どもたちは6年生であった。
 子どもたちは、喜んで詩の朗読をした。1人で、2、3人で、群読で、立ち位置を考えたり、身体で表現したりして朗読した。今でも子どもたちの素晴らしい読みと、その動きが鮮やかに蘇ってくる。
7月には3つの詩の朗読を指導している。
夕だち(村野四郎)・虹いろの魚(村野四郎)・土(三好達治)である。

虹いろの魚
村野四郎
ことしも夏がきたら
また 母の里の田舎へいこう
大きい麦わら帽子をかぶり
ひぐらしの鳴く森かげをとおって
あの川へ
あの魚をとりにいこう

なんという魚なのか
その名はしらない
はらも ひれも きれいな虹いろ
わたしの思い出のなかを
いつも ゆらゆらおよいでいた魚

ことしも夏がきたら
また ひとりで取りにいこう
あの川へ
あの虹いろの夢の魚を

※ここに出ている「虹いろの魚」というのは、「オイカワ」という魚ではないだろうか。この魚は川に棲息しており、産卵期になるとオスは非常に美しい婚姻色になる。つまり虹色になるのである。この魚は、私の住んでいる近くの川にもいた。私の子どもの頃は、この詩に出てくる子どものように、よくこの魚をとりに行った。小さな川であり、銛で突いたり、魚網でとったりしたものである。今でも楽しい思い出となって瑞々しく蘇ってくる。
 この詩を書いた村野四郎さんもこの詩と同じような体験をしたのであろう。現在の子どもたちは、電子ゲームによって精神的な安定を保っており、気の毒でさえある。村野四郎さんが書かれたような詩の世界へ子どもたちを引き連れていってやりたい、子どもたちに大きな自然と向き合わせてやりたい。こんな思いもあってこの詩を選定した。

「質」より「量」の教育改革は如何なるものか?

2009-08-11 20:44:13 | Weblog
    質の高い版画の作品

  スナック菓子などの袋に、「10%増量」などと書かれているのをよく見掛ける。菓子に限らず、洗剤や歯磨き粉などでも増量サービスが行われている。
 最近、教育界でも増量サービスが行われるようになった。学力低下への対応からである。新学習指導要領も授業時数と教育内容の増量を図ったところである。
 このように、近年の教育改革は「質」よりも「量」にこだわっている。そこには授業時数増が学力向上につながるという単純な図式がある。
 授業時数が増えても、中味の薄い授業なら意味がない。大切なのは「質」である。スナック菓子は、増量されてもおいしくなければ誰も買ってくれない。たとえ少量でもおいしい方が好まれるのではないか。今後の教育改革は「量」より「質」を大切にしてもらいたい。
                                            内外教育ラウンジ」より抜粋
 
 まったく同感である。こういう教育は、教師の「教え込みの指導」、「一問一答的な指導」に陥る危険性がある。考えない子どもをつくるようになってしまうだけである。
 教育では、質の高い教材や課題を与えて、子どもを伸ばさなくてはならない。分かっているようなことを繰り返したり、らくらくできるようなことをやらせたりしていただけではだめである。子どもが少し努力をし、背伸びをして、到達できるような課題を与えることによって、課題を克服していく喜びを知ったり、問題を追求していく力などを子どものなかに培うことができるからである。

 私の過去記事である「教育メモ⑤~教材と指導時間」「進化する国語の授業」にも関連する。

詩の朗読の実践 1「夕だち」

2009-08-08 08:36:31 | Weblog
 部屋の整理をしていたら、詩集が2冊出てきた。私が30代半ばの頃(昭和55~58年)子どもたちに詩の朗読を指導しようとしてつくった詩集である。
4月から3月までの年間計画を立て、毎日「朝の会」などに朗読を指導した。その時の子どもたちは6年生であった。
 子どもたちは、喜んで詩の朗読をした。1人で、2、3人で、群読で、立ち位置を考えたり、身体で表現したりして朗読した。今でも子どもたちの素晴らしい読みと、その動きが鮮やかに蘇ってくる。
 7月には2つの詩の朗読を指導している。
 夕だち(村野四郎)・虹いろの魚(村野四郎)である。

     夕 だ ち
              村野四郎
ヨシキリが
大さわぎして にげまわる
むこうから かけてくる村の人
こちらから かけていく町の人
みんな ひさしへ とびこんだ
夕だちだ 夕だちだ
空のおさらを ひっくかえしたようだ

雨はどうどう
ぼくの顔から せなかのほうへ
滝のように流れおちた
けれども ぼくはおどろかない へいきだ
 
ぼくは水泳の帰りみち
帽子もかぶらず まるはだかだ
あわてる人々をながめながら
ゆうゆうと 道を歩いてきた
そして ときどき 天のほうをむいて
夕だちを飲んでやった

ああ!いい話だ~子どもたちの機転

2009-08-05 13:44:57 | Weblog

 これは、ある新聞の投書欄、日々の暮らしの中で見聞きした、「ちょっといい話や心温まるニュース」のコーナーから拾ったものです。

 七月七日の七夕の日、一緒に暮らしている小学3年生の孫が通う岐阜県関市の小学校で起きた出来事を、あとから学級通信で知りました。
 給食に「星形のコロッケ」が出ました。しかし、児童たちが配膳の準備中にトレーをひっくり返してしまいました。
 廊下にいた担任の先生が児童に呼ばれて教室に行くと、半分ほどが床にちらばっていました。先生は職員室に向かい、欠席者の余分がないかを聞くと、他の先生たちが「どうぞ」と差し出してくれたそうです。
 先生は安心して教室に戻ると、児童たちは無事だったコロッケをそれぞれ半分に切り分けて、全員に行き渡らせていました。
先生たちからもらったコロッケを「ぼくたちは半分でいいから」「うん、半分でいい」と、もう一度、職員室へ返しにいったとのこと。情景が目に浮かび、みんなの思いやりの気持ちが伝わりました。
 担任の先生に尋ねました。先生は、児童たちがどんな対応をするのか気掛かりでしたが、短時間で解決していたことに驚いていました。トレーをひっくり返した失敗を誰も責めず、半分に分けたアイデアに「えらいなあ」と率直に感動し、児童を大いに褒めたそうです。

  「ああ!ほんとうにいい話ですね。」でも、こういうことは私が勤めている学校でも時々あります。マスコミ等には、あまり取り上げられないので、一般の方や保護者の方には知られていません。学校では、このような子どもたちや教師のあたたかな思いやりが結構あるのですよ。

表現活動って何?

2009-08-02 17:07:05 | Weblog
        
 表現活動は、朗読、作文、美術(図工)、音楽、体育等さまざまありますが、ここでは総合表現(オペレッタ)について記す。
  この総合表現の意義としては、次のようなことが言える。
   
○声と身体のすべてを総動員して、自分の心にあるものを表現する。そのことにより、表現する楽しさや喜びを味わう。
   
○大勢の人の前で発表することにより、自信や勇気を持つ。そして、この自信や勇気は、他の教科の学習や生活に影響し、そこでも自分を出し切るようになる。
   
○くずれつつある現代の子どもたちの心身を、息を吸う、しっかりと声を出す、体をつかう、リズムをつくる、気持ちを合わせるなどを十分に体験させて、メリハリのある心身に再生する。
   
○表現をつくり出すことによって、クラスや学校全体がいっそう強くまとまり、連帯感を深め、勢いを増す。
   
○低俗文化の多い中で、質の高い文化を身につける。
    
  このように、総合表現のよさがたくさんある。実際に私が経験した学校では、この総合表現により、大きな教育効果を得ることができた。