松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

アルファ読みからベータ読みへ

2021-06-27 19:31:20 | Weblog
                         子どもの作品より        

「わたしの知的生産の技術」(講談社)を読んでいたら、私たちが学んでいる「課題追求型授業」に深く関係するような記事を見つけた。タイトルは「アルファ読みからベータ読みへ」外山滋比古著である。
 特に「文を読む」とはどういうことかである。課題追求型の国語の授業の教材解釈や授業をすすめるに当たっての強い味方になると考え、少し長くなるが以下紹介する。

 「読む」という言葉が簡単に使われていますが、「読む」ということはどういうことか、基本的なことはほとんど考えられていません。実はこれは非常に複雑なことであって、「書く」ことよりもひょっとすると、いっそう面倒なことではないかと思います。(中略)
 読みには2つの種類があります。前の晩にテレビで見たプロ野球のナイターの経過を翌朝、スポーツ新聞で読むのは、既に分かっているものを読むのです。仮にこれをアルファ読みとします。もう1つは、自分の経験を越えた未知のものを読む場合で、これをベータ読みとします。ベータ読みはたとえば禅の公案のように自分を越えたものの意味を読み取るのです。
 初めて字をおぼえ、読み方を習う子どもが、日常生活でよく知っているもの、たとえば、ハナ、ハト、マメというようなところから始めれば、ハトって何だろうと考える子どもはまずいませんから、声が出たとたんに意味が分かる。これはアルファ読みですが、問題はいつから未知を読むベータ読みへ移るかということです。今の学校教育では既知のものは音読、未知のものは黙読ということにきまっています。しかし、読みの方法論が教育の上で確立してるとはいい難い。そのため、多くの人が一生の間、アルファ読みに終始しています。難しい字も読め、理屈も言えるのに、自分の経験の範囲からちょっぴり出たところぐらいしか読めない。遠く離れたものは、おもしろくない、わからない、と放り出してしまいます。(中略)
読むほうもわかったという気持ちをもちやすい。ところが本当は何も分かっていないのです。新聞記事などは既知のような格好をしているから、アルファ読みですましてしまうのです。(中略)
 未知を読むのが実は大変面白く、クリエイティブな活動などだということを教えられることがなかったからです。
 書いてある通りを読めばいいというのはアルファ読みで、これは誰にでもできるのですが、未知のものを読む場合には、書いてあるとおりに読めるはずがないのです。結局は自分の思っているようにしか読めない。その思い方が非常に貧しければ、文章も貧しくしか読めないのです。(中略)
 アルファ読みからベータ読みへの移行、音読から黙読への移行はどうするかというと具体的に方法は一つしかありません。文学作品を読むことです。(中略)
 ではなぜ文学作品が必要かというと、文学作品はアルファ読みでも、ベータ読みでも、ある程度読めるからです。文学作品は一見、身近で分かりやすい形をとっていますから、アルファ読みしかできない人にもいくらかは分かったような気持ちを与えます。しかも同時に読んでいくうちに、それは作者の極めて孤独な精神の記録である場合が多いので、どうもアルファ読みだけではいけないというところがありそうな気がする。自分の知っていることをもとにした理解だけでは不十分だということが分かってきて、しだいにベータ読み、未知の読みに入っていく。こういうことをくり返していきますと、アルファ読みからベータ読みに切り換えができるようになっていきます。(中略)
 ところで、言葉の読み方を教えている国語の先生が不幸にして多くかつて文学青年だった人たちですから、この橋を渡って向こう岸のベータ読みに達するように教えなければならないのに、文学を目標にして橋の向こうへは行こうとしない。(中略)
本当の意味で未知を読むならば、数学的思考と文章の理解はかなり近い関係になります。読みは哲学的であり、論理的であり、あるいは高度に宗教的であり、極めて芸術的であり得る。ところが自分の経験をちょっとはみ出た程度のところで文学作品の読みが完了したように思い込む。先生がそう思っているのですから、子どももそう思うようになるのは当然です。そういう人が大きくなるとアルファ読みしかできない読者になってしまいます。せいぜい週刊誌のゴッシプ記事程度しかおもしろくない。理解は日常性の段階でとどまってしまいます。哲学や思想や自然科学の本を読んでも、自分の知っている分野のところは分かるが、その外へ出るともう分からない。理解の想像力が育っていないのですから、自分のやっていることは知っているが、知らないことは知らないというように截然(せつぜん)としている。知らないことはよく分からないけれども、こうではないかと思い、そのうち分かるようになっていくためには必ずしも読むことだけでなく、他に方法がありますが、こういう未知を読む訓練が学校教育ではほとんどなされていないというのは重大な問題です。
引用は以上である。

やはり文を読むときには、
○「変だ、おかしい、わからない、どういうことなのだろう」などの疑問を もって読む。
○ 辞書で意味を調べ、文に当てはめて考える
○ 文を切って調べてみる
○ 根拠はどこにあるのか見つける
○ 言葉や文から深いイメージをもつ
○ ひとりでなく他者と話し合ってみる
これらの学習作業がここでいうアルファ読みからベータ読みへとなるのだと考える。課題追求型の国語の授業では、既にベータ読みに近い読みをしているのであるのではないかと思う。



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自覚と随意が必要6年生「台上頭支持前方転回」の指導

2021-06-04 10:59:50 | Weblog

 次の文章は私が光明小学校に勤務していたときに書いたものである。6年生の先生方が運動会に向けて跳び箱運動である「台上頭支持前方転回」の指導をしていたときのものである。今振り返ってみると、この指導の中に「自覚と随意」に関することが入っていることに気づく。紹介しよう。

 6年生は学年全体で、体育の器械運動である「台上頭支持前方転回」に挑戦している。運動会での発表演技に向けてである。この種目はけして簡単にできるものではない。私は6年の先生が、この種目を選定したことに大きな意義を感じている。簡単にできる種目をたくさんやらせても子どもの教育にはならない。「できないもの」を工夫を重ねて「できるようになる」そのことが子どもにとって大きな自信や喜びになるからである。また、教師としては、指導技術の向上につながるからである。
  何回か授業の様子を見せてもらった。まず、教師の「台上頭支持前方転回」の勉強から始まった。教師がこの技を教えることができなければダメである。次に教師は、子どもの演技を見て「できる子」「できない子」から、なぜできるのか、なぜできないのかの原則を見つける。だから、学級集団の中に「できる子」「できない子」がいることはとても大切なことである。特に「できない子」がかかえている問題の解決こそが、みんなができるようになっていくすじ道がある。
 子どもたちには、それぞれの教科で得意不得意がある。お互いに「できない子」の切実な問題を子どもたちの集団の問題としてとらえることによって、教え合い・学び合う学習ができていく。         
  今ではかなりの子どもがこの技ができるようになってきた。もちろん、まだできない子も多い。しかし、全員の子どもたちが、この技のイメージを持ち、集中して学習に取り組んでいる姿を見ると、単に「できる」「できない」の問題ではないように思える。この「台上頭支持前方転回」の学習は、子どもの心と体の成長に大いに役立っているのは確かである。


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