松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

斎藤喜博著「授業小言(しょうげん)」視写より~8~

2013-08-31 09:43:29 | Weblog


 教育という仕事は、教師の具体的な発問とか説明とか動作によって、子どもたちのなかにもともとある、よいものを引き出していく仕事である。したがって教師の発問とか説明とか動作とかは、目の前にいる子どもたちの発言とか動作とかの事実に即して、具体的に直接的に出されていくものでなければならない。
 しかし、教師の発言とか説明とか動作とかにはそうでないものもある。子どもたちが朗読をしたり、合唱をしたり、跳び箱運動をしたりしてるとき、「よく読めました」とか、「上手に歌えたね」とか、「もう少し」などと言っているのがそれである。
 これでは子どもたちは、「どうよく読めた」のか、「どう上手に歌えた」のか少しもわからない。どこが足りなかったのかわからないからなおしようもない。子どもたちは自分の力の出しようがないわけである。授業のなかで子どもたちが鮮明に変化していかないのもとうぜんのことである。


※「よく読めました」とか、「上手に歌えたね」とか、「もう少し」などは、教師でなくても、普通のお父さんやお母さんでも言えることである。専門職としての教師としては、子どもたちの言動を分析し、的確で具体的な指導をしなければならないと思う。 


※お知らせ
 第35回 浜松授業研究の会 
 日時 9月14日(土)9:00より 
 場所 天竜壬生ホール第2会議室

大畑誠也先生・・・・・挨拶が大切

2013-08-28 14:40:42 | Weblog

 
 静岡労政会館にて大畑誠也先生(九州ルーテル学院大学客員教授)のお話を聴講した。

日本の高校生は世界で一番夢を持たない、自信がない。
 青少年が夢を持たない国は滅びる。誰が悪いかそれは、大人が悪い。大人は悪口と批判ばかりを言っている。これを聞く高校生は夢を持つことができない。指導者は夢を語るべきである。学校の先生は特に夢を持たなければならない。
 今は、情報公開の時代である。どんなに立派な役職をもつ人間でも、その言動はすぐに広報され、悪いことがあれば、それを隠すことができずに、すべてがあばかれてしまう。そのために権威が失墜する。
 21世紀は本物の時代である。学校の成績ではなく人間性が大切になる。
 これから大切な生き方は、まずは挨拶がよくできることである。
 ネット社会は人間関係の希薄化を促している。人間が仲良くできるのはまずは挨拶である。挨拶はコミュニケーションのスタートラインである。人間関係で一番大切なのは信頼である。これは会話の中から生まれる。挨拶は信頼ある人間関係をつくる。

ああ!今年も昆虫採集をする子どもを・・・

2013-08-26 09:02:11 | Weblog


ああ!今年の夏も子どもたちの昆虫採集の姿を見ることができなかった。
 今の子どもたちは何をしているのであろうか。家の中でテレビを見たり、ゲームでもしているのだろうか。それともサッカーや野球などのスポーツ、ピアノやダンスなどの習いもの、それとも学習塾などに行っているのだろうか。
 トンボやチョウチョが飛び、セミがシャーシャー鳴いているのに捕虫網を持った子どもの姿はぜんぜん見られない。
 自分の子どもの頃を思い出すと毎日セミ採りや魚採りに明け暮れた。自然の樹木や竹藪の中で蚊に刺され、顔に蜘蛛の巣を掛け、蛇に驚き、セミが鳴く木に忍び寄る。どちらから網をセミにかぶせれば採れるのか、意気を潜めて網を上げていく・・・すべてが直接体験であった。
 今でもそれらが鮮やかに思い出される。そして、サッカーもピアノもできなかったが、それよりも尊い経験をしたように感じたりする。
私の近くには大きなグランドがある。そこからは、サッカーや野球をしている子どもたちの元気な声が聞こえてくる。しかし、いつでも大人のコーチの指導により、子どもたちが右に左に動いている。いや、動かされてるといったらよいだろう。自分の意思で考え行動するという姿が見えない。これでいいのだろうか。・・・ときどき思ったりする。

斎藤喜博著「授業小言(しょうげん)」視写より~7~

2013-08-22 09:58:31 | Weblog




 子どもが清潔になり美しくなってきたということは、さまざまなものを雑多に持っていたものが、余分なものを整理しとり除き、よいものだけを拡大し集中して表に出してきたことである。だから清潔感を持ち輝きを持っているのである。
 そういう仕事は、学校教育においては、追求的で創造的な授業とか行事とかによってつくり出されるものである。単に雑多に知識を詰め込んだり、形式的な訓練をしたりすることによってできるものではない。それは子どもを一つの型にはめ込むだけであり、無気力な人間にしてしまうだけである。


※こういう考え方も斎藤喜博の独特なものと言えよう。数多い教師や教育研究者の中にあってもここまでは考えていないと思う。
 価値あるもの本質的な教えが、子どもの命を浄化していく。
考えてみれば、よい授業が展開されたときに子どもは素直になり、誠実になり子どもの生活が安定していくことは私も感じている。

斎藤喜博著「授業小言(しょうげん)」視写より~6~

2013-08-18 19:14:29 | Weblog

教師は、実践をし、実践での事実をつくり出せばつくり出すほど孤独になっていくはずである。それは、実践によってつくり出した事実が創造的であればあるほど、他の事実や、他の事実のない人たちの抵抗を受けるようになるからである。また、新しくつくり出された事実が、事実をつくり出した当人をも否定していくようになるからである。

※これは、よほど高い実践をし、事実を出している教師でなければ、その教師本人もこのような経験はしないし、他人も理解しにくいことかもしれない。
 人が羨むような、人の常識を超えるような、人の真似できないような事実というものが出された場合は、どんなに優れたものでも、意外に拒否反応を得たり、反発をかったりするものである。よい意味での競争の少ない学校現場では、とりわけこのようなことが言えるのではないかと思う。こういうことが学校の改革を止めているのではないだろか。私がいつも感じていることである。


よくぞ男と生まれけり・・・

2013-08-16 13:39:42 | Weblog


夕涼み よくぞ男と 生まれけり
      宝井其角
    
この俳句が
夏の少し涼しくなった夕暮れに風呂上りで上半身裸だったり浴衣の胸元やら足下やらをだらしなくはだけさせたりして、パタパタと団扇であおぎながら、ちょっとお酒を入れたりして、「こんな格好でリラックス出来る男って最高ー」
「よくぞ男に生まれけり」とあるが、けして「男尊女卑」を意味しているのではありません。

斎藤喜博著「授業小言(しょうげん)」視写より~5~

2013-08-12 10:34:53 | Weblog

授業中、子どもたちが活発に発言するということを教師は強く願っている。またそのためのさまざまな工夫もされている。しかし、授業での子ども発言には、授業の質によってさまざまなちがいがある。ただ単に、子どもたちがたくさん発言したからその授業がよいなどというものではない。

ア全員が発言したが、それは形式的で常識的なものであり、実質的には学習としての発言は少しもされていない。
イ全員が1時間中一言も発言していないが、実質的には全員がよく活動していたもの。
ウ全員が1時間一言も発言しなかったし、また実質的な活動もしていなかったもの。
エ2,3人の子どもだけが発言していたが、それをもとにして全員が活動していたもの。
オ2,3人の子どもだけが、形式的で常識的な発言をしており、他の全員も少しも活動していないもの。

授業中の子どもの発言には以上のようなものがある。授業中の子どもの表情や発言の内容をよくみて、授業の実質を考えるということをしないで、発言の多い少ないだけでその授業の実質を云々してはならないことである。

※ここでは授業の質のことを問題にしてるようである。こういうことは、教師のみならず保護者も知っておくことが大切であると私は思う。でなければほんとうによい授業は生まれにくいからである。


さて、私の老後を考えると・・・

2013-08-09 09:51:15 | Weblog
    

  現在は、自治会の仕事の他にボランティアの仕事を三つばかり持っているが、それでも自由時間の大きさは感じている。
 一昨年は全く仕事なしの一年間を経験し、自由時間の大きさにおびえていたといってもいいだろう。
 城山三郎著『無所属の時間に生きる』の本では、「1日4分割法」というタイトルで次のように記述されていた。
 <1日という単位は、まるごと相手にするには大きすぎる。空白の1日という白い巨体が、行き先々まで立ち並び、立ちはだかっていると思えば、やはり気重になり、気鬱になる。・・・1日という単位も4分割してしまえば相手にしやすいのではないか。それぞれに濃く淡く色をつければ、さらに親しみやすくなる>
さて、そこで私は考えた。1日をどのよう4分割して、どんなことをすればよいのかである。
 家の仕事、読書やパソコン、体力づくりやスポーツ、習いものや趣味いろいろ考えられる。これらをどのように位置づけていくかである。
 数年後にはまったくの無所属の時間になり「毎日が日曜日」の身になる。充実した一生にするためにも今からでも考えておきたい。
何かよい案があったら教えていただきたい。
 

斎藤喜博著「授業小言(しょうげん)」視写より~4~

2013-08-06 08:11:36 | Weblog



教師はへんな理屈屋になることより、まず人間にならなくてはならない。人が生きるということのみずみずしい感覚をよみがえらせなくてはならない。
子どもの心をどこかに残している人間にならなくてはならない。幼児のようにつねに新鮮に驚き、ういういしく感動する心をよみがえらせなくてはならない。
 それは、その人がほんとうによく知ろうとしていることによってできる。いつも希望を持ち夢を持って生きていることによってできる。そういう教師だけが、子どもと一緒になり、子どもと一緒に学ぶことができ、子どもに何がほんとうであるかを学ばせることができる。



※これは教師以前の問題であろう。教師になろうとする人間としての資質であろう。こういう教師のもとでなら、少しくらい授業が下手であってもよい子どもたちが育つであろう。

斎藤喜博著「授業小言(しょうげん)」視写より~3~

2013-08-03 10:21:12 | Weblog



 子どもたちの絵をみたとき、上手な絵に感心する必要はない。それらの絵の多くは、単にでき上がっており、上手なだけであって、生きたその子の顔とか人間とかを感じることができない。それどころか、妙にこましゃくれていたり、どこかにあるものを真似していたりすることが多い。
 そういうものより、少しは下手でもよいから、子どもが自分を出し、全力をあげてぶつかっている絵のほうが、どれだけその子を感じ、ほほえましくなったり楽しくなったりするかわからない。教師は、そういう子どもの絵をこそ見いだし励まし育てなければならない。
 そういう目で子どもたちの絵をみた場合、どんなに下手だと思う子どもの絵でも、どこかに必ずよいところがあるものである。ある子どもの絵は、画用紙のまん中に、まったく小さくかいてあるのだが、まだ大きくはかく力を持っていないその子どもが、全力をつくして表現していることに感動するし、ある子どもの絵は、一部分だけに力をつくしてしまい、あとの部分はおおざっぱにかいたり、少し乱暴にかいてあったりするのだが、全力をつくした一部分のみごとさに心打たれる。
 教師は子どもの絵をみる場合、そういう見方をしなければならない。そういう人間的な目を持たなくてはならない。そういう一人一人の子どものよさを認め感動することによって、画用紙のまん中に小さくかいた子どもは、だんだん大きくかけるだけの力を持つようになるのであり、一部分だけに力をつくした子どもは、だんだんと力をつくす部分をひろげていくことができるようになるのである。そういう目を教師が持たないで、上手にでき上がった、その子のいないような絵だけをほめていると、その子どもを変えることができないばかりか、他の子どもをみなつぶしてしまうことになる。
 これは単に絵の指導の場合だけではない。他のすべての教科の指導にもいえることである。

※これは斎藤喜博の一番根底にある教育に対する考え方のひとつあると思う。
・誰にでも可能性がある。それを教育で引き出してやることが大切である。
・一人一人を大切にするということはこういうことである。
・教科指導の中に生徒指導がある。人間形成があるということもわかる。