松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

卒業する子どもたちと最後の授業

2012-02-27 20:57:21 | Weblog


 前回のブログ「本年度最後の授業参観・保護者会」で授業について記したが、私が卒業を迎える子どもたちによくした授業の一つは百田宗治の詩「怒っている海」である。
 詩の内容からいっても卒業していく子どもたちにうってつけと言えよう。特に「ぼくは海にまけない人間になって海から帰った」がいい。あんなにも心弱かった少年(ぼく)が、海にまけない人間の姿を目にして強い心に変わっていったのだ。
 卒業する子どもたちが、こころ折れそうなとき、この詩を思い出してくれたら望外の喜びと言えよう。


         怒っている海  百田宗治

ある日、ぼくは海を見に行った。
海はひどく怒って
ぼくをめがけて白い大きい波をたたきこんだ。
波はぼくよりも背が高かった。
しぶきがぼくの顔や肩にかかった。
ぼくは怒っている海のしぶきのなかで、
しばらくじっとようすを見ていた。
海の怒りは、遠い灰色にくもった沖の方から
はじまり、今にもこの陸地を呑みこんでしまい
そうだ。
小舟が一そう波のあいだにもまれていて、
とおい半島のさきに白い灯台が見えた。
あの中に人がいて仕事をしているのだなと思うと、ぼくは、海にまけない人間の力を感じた。
怒れ、怒れ。
腹のすむまで怒れ。
ぼくは海にむかってそう言った。
ぼくは海にまけない人間になって海から帰った。 ぼくをおっかけるように、
海がまだ松林のなかでがなっていた。


本年度最後の授業参観会、保護者会

2012-02-23 11:34:54 | Weblog


 本年度最後の参観会、保護者会を子どもも保護者も教師もよい思い出に残るようなものにしたいです。どんな授業を、どんな保護者会をすればよいか考えてみます。

○授業参観
私がよくした授業では
1国語の物語文や詩教材が多かったようです。なかでもこれからの子どもたちの生き方につながるような教材を投げ込みで行いました。
2自分の得意教科をしました。これは特に教材研究を深めてしました。
3一年間の学校の思い出をビデオやCDで映したり、劇や合唱などで表現しました。これはも保護者も喜んでくれました。
※授業をするにあたっての一般的な留意点
1子どもが動く(発言、創作、操作など)授業
2何を学んでいるのか保護者でもよくもわかる授業
3保護者も参加する授業
4教師のエネルギーが伝わる授業

○保護者会では
1 教師の説明が理解しやすいこと
2 教師の人間性(温かさ、ユーモアなど)が出ること
3 保護者もお話しできること
4 おみやげのある話し合い
5 座席も工夫すること、教師が黒板を背負わない。
事例
1教師の話 ・・・ 明るい声で、ユーモアもまじえて、ちょっと工夫して
2学級経営の説明 ・・・ 短めに、はっきりと、熱を込めて、わかりやすく
3保護者から一言 ・・・ なんでもよい、全員に一言でもよいから話してもらう。
※最後の保護者会である。一年間のお礼、感謝を忘れないようにしたい。

教師の学びと実践

2012-02-21 11:39:27 | Weblog
春浅き 木立の上の 空のいろ  
柴田白葉女 
 


 研究会、書物、自分の実践から多くのものを学んできた。これらを信じて、まずは実践することが何よりも大切である。実践により事実が出てくれば、子どもも教師も自信や喜びを得ることができる。
 以下教師の実践として大切なことをあげてみる。
○実践しなければ事実は出てこない。
○実践は継続しなければならない。
○「我流」はダメ、よいと思うことは疑うことなくやってみる。
○実践を他の先生に見てもらう。他に広げていく。
○文章や映像により、記録をとっておく

学年末です。授業評価をもう一度

2012-02-18 17:37:42 | Weblog



 学年末です。今教えている子どもたちのためにも、次年度の自分の授業づくりのためにも、今一度自分の授業を振り、さらに改善をしていきたいものです。そうして、子どもたちに満足してもらえるように、よい思い出となってもらえるようにしてから、担任を離れたいものです。
 下記に授業評価の視点の一例を示しました。参考にしてください。

         「授業評価」の視点

1 教師は、子どもの発言を注意深く丁寧に聴こうとしているか。
2 教師は、言葉を一つひとつ丁寧に選んで、じっくり話しかけているか
3 子どもの朗読は、課題を持って、気持ちを込めて読んでいるか
4 子どもは、友だちや先生の話を耳をすまして聴こうとしているか
5 子どもは、話し手を見て、反応して聴こうとしているか
6 教師は、自分の解釈をしっかり持っているか
7 子どもは、自分の考えを持ち、それを表明しようとしているか
8 教師は、子ども間の相互作用を促すように配慮しているか
9 対立問題をつくり、複数の考えを整理分類(選択肢AとB)ができたか
10 学級内に対立が生じ、緊張感ができたか
11 文や言葉のイメージを変えることができたか
※ これらは、国語指導をイメージしたものですが、全ての教科の指導に生かされるものです。

教育メモ~「話すことは」教師の仕事

2012-02-14 10:37:06 | Weblog


 教師は子どもや親に向かって「話すこと」がたいへん多いものです。特に子どもに対しては、「話すこと」が毎日の大事な仕事であるといってもよいようです。また、年間にわたって、学校行事や各種集会などでは、その時々にまとまった話しをしなければなりません。 
話をすることで、教師は子どもや親に自分を知ってもらい、教師という自分の影響力を子や親に与えることもできるのです。
話は、その内容により子どもや親の心に深く刻み込まれます。教師の人生観や教育観は親たちの共感を呼び起こし、説得の力となるであろうし、子どもたちは、先生の話を大人になっても時に思い出し、人生の難しい課題を解決することができるのです。
 話は、内容と共に「話し方」も大事です。保護者会でのあいさつ、懇談会での話しぶりによって、担任への印象や信頼度がずいぶん異なってきます。
 話し方と内容が一体となって聞き手に迫るとき、担任の気迫、責任感、自信は、子どもや親の心をぐっとひきつけて離しません。それは、学級経営を一層効果的に、円滑に進めるためにも大きく役立ちます。

○ 「話」は学んで上達する
このように教師の話は、とても重要ですが、実際の教育現場では、まだまだそれほどの関心をもたれてはいないのです。
 たとえば、国語科学習で、「ことばづかい」や「話ことばの速さ」を教えているのに、その先生の話し方がたいへん耳ざわりであることも少なくありません。
 「話をする」とういうことは、なかなか難しいものなのです。特にタイミングの合った話、快く聞かせる話し方というのは、そう簡単にできるものではありません。
やはり、日常の教育活動の中で、あらゆる機会、場を生かして何をどう話すかを学び、経験を積んでいかなくてはなりません。
私の経験では、自分の話をテープに録音しておいて聞く、これが一番よい方法だと思います。ぜひ、実行してみてください。自分の言葉が不明確、長すぎる、内容がない、相手を意識せずに勝手に話している。等々気づくはずですよ。

第20回 授業研究の会(浜松の会)の研修報告

2012-02-11 17:24:28 | Weblog



第20回 授業研究の会(浜松の会)の研修報告

研究会テーマ:~「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」~

1 開催場所 天竜壬生ホール第2会議室

2 開催日時
  平成24年 2月11日(土)9:00~12:00

3 研修内容
(1) 近況報告

(2) 実践発表と実技研修

◎ 国 語
  1年 物語文「だって だっての おばあさん」
  教材解釈と授業づくり

◎ 体 育
実践発表 5年「柔軟体操」
・横開脚・立て開脚横回り、えび、後ろ回り、補助倒立他

◎ 図工 
実践発表 1年「自画像」
目、鼻、口、耳、首、髪の毛の描き方、色のぬり方、、どこから描くのか

◎ 音楽
実践発表 4、5,6年「金管楽器演奏」
実践発表 4年「合唱」
実 技 発声の練習

◎ 本の紹介
  大野晋著「日本語練習帳」


4 次回の予定
(1) 日 時 平成24年 4月14日(土) 9:00~12:00
(2) 場 所 浜松天竜壬生ホール第1会議室

5 その他
この会の研修内容や実践の証、考え方は下記のブログをご覧になれば、おおよそ理解できると思います。検索してください。
○totoroの小道
○藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践が掲載されています)
○松明光明
○浜松授業研究の会


第20回 授業研究の会(浜松の会)の御案内

2012-02-07 19:05:23 | Weblog


第20回 授業研究の会(浜松の会)の御案内

~「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」そんな研究会です~

 一つの授業にじっくり時間をかけて取り組んでいない。何をしても中途半端な授業になってしまっている。やっつけ仕事になってしまっている。おそらく大半の学校の教育の実態でしょう。
 それがあまり問題視されず、改善されないのは、子どものほんとの力の凄さを知らないからです。子どものほんとうの力を引き出すような授業の経験が少ないからです。だから子どもを見くびって「これでよし!」と思っているのでしょう。または、そう感じていても、どうしたらよいのかその方法を知らないからでしょう。これらの解決は、校内研修ではなかなか困難です。同僚や先輩教師に教えを請うても難しいことです。私の今までの長い経験で感じていることです。
この浜松の会では「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」をテーマとして研修しています。ここでの学びは、具体的であり、実際的であり、実質的なものです。それだけに確実に得るものがあり、上記のテーマの実現が可能です。
この会は、偏向的な教育や思想はしていませんので、安心して学ぶことができます。どなたでも自由に参加できます。まだ、参加されたことのない方は、是非覗いてみてください。
 多くの皆さんの参加をお待ちしています。


1 開催日時
平成24年 2月11日(土)9:00~12:00

2 開催場所
浜松市天竜壬生ホール第2会議室

 ※時間厳守ではありませんので参加できる時間で結構です。
 ※駐車場はあります。

3 研修内容
○ 国語、算数を中心とした各教科
○ 音楽、図工、体育などの実技教科
○ 学級づくり
○ その他
 本研究会の学びの特徴
・具体的な教材とか写真とかDVD、テープとかの事実を対象にして考える。
・参加者からの実践があればそれをもとにして考える。
・音楽、体育、図工、その他の実技をする。

4 準 備 物
○ 実践したもの(ある人)
○ 教材研究をしてほしい教材がある人(10部印刷持参)
○ 筆記用具
○ 国語辞典
○ 会費 300円
○ 服装は自由

5 この会の研修内容や実践の証、考え方は下記のブログをご覧になれば、おおよそ理解できると思います。検索してください。
○ 浜松授業研究の会
○  totoroの小道
○ 藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践が掲載されています)
○ 松明光明

下手に音楽専科の教師よりも

2012-02-05 11:51:26 | Weblog



 斎藤喜博は、「授業をつくる仕事」の著書の中で次のように述べている。
 
 ピアノがよく弾けるだけで合唱指導ができるものではない。教育がよくわかり、ふだんの授業の質を高いものにすることができないかぎり、合唱などもすぐれたものをつくり出すことはできないのである。授業がわからず、教育がわからない教師に、合唱指導がきるはずがない。

 わたしのようなものでも何となくこれが理解できる。例えば中学校の校内合唱大会などでは、音楽専科のクラスよりも、音楽がよくわからない担任の教師のクラスがよい賞をとることがある。これは、担任教師が学級づくりが上手く、授業もよく、生徒の心を解放させ、エネルギッシュでのびのびとした生徒を育んだ結果の表れとも言えよう。

  これとは、別に全国合唱コンクールに出場する子どもたちの合唱をテレビで見聞きするときがあるが、素人のわたしには少しも感動しないのが不思議である。おそらく、私の見方が悪いからであろう。しかし、どうしてもつくられた合唱で人間的なものが感じられないのは拭えないのである。
 もちろん音楽専科の教師であり、その教師が人間的であり、斎藤喜博が言うように、教育がよくわかり、ふだんの授業の質が高いものであればそんなことはない。それこそ鬼に金棒の指導ができるであろう。

 わたしの授業研究の仲間に、音楽専科ではないが、教育がよくわかり、授業も上手く、研究熱心な先生がいる。その先生の合唱指導のブログがあるのでご覧いただきたい。「totoroの小道」で検索ください。
 音楽専科の教師がこのブログの子どもたちの合唱を聴くと、声がどうの、音程がどうのと言われるかもしれない。しかし、それらを超えた子どもたちの学びの姿がここにある。これが教育がよくわかる教師の合唱指導の一例だと言えよう。子どもたちの写真や動画を見ると授業の充実が子どもの顔の表情や手足の動きなど全身の姿となって表れている。確かな教育である。

※ 「第20回浜松授業研究の会」開催のお知らせ
○ 日 時  平成24年2月11日(土)9:00~12:00
○ 場 所  天竜壬生ホール第2会議室
多くの参加者をお待ちしています。

ほんとうの学問とは

2012-02-03 10:20:18 | Weblog



小学校、いや校種の違いがあろうとその教材の内容や指導法について、危惧するものを感じていた。そんなとき金沢嘉市著「ある小学校長の回想」を読んだ。学問について以下の文があり、参考になったので掲載してみる。

 人間をかえていくことが教育であるとするなら、その教育の中枢は学問である。われわれは学問の尊さを徹底的に教育しなくてはならない。知った喜び、そしてみずから考えてわかった喜び・・・・それが教育である。しかもその過程には安易にはわからない学問へのきびしさも経験しなければならない。(中略)
 小学校の子どもだからと言って甘えさせてはならない。小学校のうちから学問の尊さ、きびしさを体得する教育こそ必要である。生活教育、経験主義教育のみで、そのうわべだけをはいずり回っているよりも、学問としての体系を尊重する基礎的な学習をきびしくしかも徹底させなくてはならない。