松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

小さな学校の閉校式に参加して

2017-03-19 15:03:10 | Weblog


今日は山間にある小学校と幼稚園の閉校、閉園式があった。小学校は143年、幼稚園は60年の歴史を刻んできた。閉校、閉園は、少子化のため子どもの数が減り仕方がないことであるが、何とも寂しいものである。現在ここに通学する子どもたち、ここを卒業した多くの人々、ここの集落の人々、そして、この学校や園に勤務した多くの先生方にとってはなおさらの寂しさであろう。
小さな学校であるが、先生方は、すばらしい子どもを育ててくれた。最後にこの学校への思いや前を見つめて生きていくという内容の子どもたちの発表の声や姿は立派であった。また、心を洗われるような美しい歌声など実に感動的であった。
山間の小さな学校の子どもたちではあるが、教育の内容や質が高ければここまでできることを証明していた。このことは、多くの教育関係者にはぜひ理解してもらいたいことである。



※学級づくり、授業づくりに協力します。お声を掛けてください。研修での講話や体験型研修をボランティアで行います。ホームページ「浜松授業研究の会」のお問合せ、ご連絡に記入してください。または、このブログのコメントに記入していただいても結構です。

授業では、「思うこと」より「考えること」

2017-03-03 09:49:27 | Weblog


 作家の沢木耕太郎さんは、「右か、左か」の日本文学秀作選編のあとがきの中で、
 〈最も単純に考えるなら、人が遭遇する典型的な「右か、左か」の局面とは、どこかを歩いていてどちらの道をいけばよいのかわからなくなってしまいす。頂きに登るために、あるいは麓に下りるためには、左右のどちらの道を行けばいいのか。そこで、人は知識や、記憶や、感覚や、勘といったものまで総動員してさまざまに考え、決断を下すことになる。〉と記している。
 私たち教師は、国語の文学作品の授業の中で「そのときの登場人物の気持ちはどうですか?」などと子どもに働きかけることが多い。しかし、これは、想像したり、思ってみたりすることであり、論理的な思考を養うものではない。 この発問では、子どもがどう答えようと正解になってしまうからである。これでは、考えることも、討論する必要ない。
これからのアクティブ・ラーニングを目指す授業においては、「どう思うか」でなく「どう考えるか」を子どもに要求することが大切である。
 「考える」というのは、物事を比較することである。AなのかBなのかを選ぶことでもある。そのときはじめて、子どもの脳は働き出し、討論の必要性も生じてくる。
例えば、簡単な例を2つ挙げてみると、
○たぬきの糸車(光村図書1年下)
〈まいばんまいばん〉と〈まいばん〉の違いは何?
○お手紙(光村図書2年下)
〈こしを下ろしていました〉と〈こしを下ろしました〉の違いは何?
これ1つだけでも授業は変わってくる。「わなにかかったたぬきを見たおかみさんは、どんな気持ちになったのでしょう。思ったのでしょう」などの発問よりも、よほど子どもたちは言葉に着目して考えるのである。
先に挙げた、 作家の沢木耕太郎さんの「右か、左か」のあとがきの文章にも通じるものがある。


※学級づくり、授業づくりに協力します。お声を掛けてください。研修での講話や体験型研修をボランティアで行います。ホームページ「浜松授業研究の会」のお問合せ、ご連絡に記入してください。または、このブログのコメントに記入していただいても結構です。