ずいぶん昔(昭和50年代)の本を読んでの紹介であるので、現代とはマッチしないところがあるが、それにしても私は同感するところが多々あるので記載した。
国語科では基礎工事として言語教育の確立が必要である。それは「言語科」を特設しろと言うことではない。「とりたてておこなう国語指導」の時間をはっきりと意識的に教育計画に入れるということである。
現在の国語科が、特に低学年の「こくご」が、国語教育であるとは思れわない。
低学年の理科や社会科の賛成者は。いや反対者も、低学年の国語科では、もっぱら国語の形式的な面だけをやると見ているようだが、私の考えは違う。
形式的な面だけと言うのはどんな意味かよく分からないが、4年生になって、「ソレ、アノ」などの指示語さえきちんと教えようとしていないものが、形式的にでも国語教育といえるだろうか。国分氏によると国語教育の目的を
①日本の文字、日本語の発音・単語・文法・文・文章の部分・文章などについての意識的自覚をたかめ、それらの知識を確実に子どもたちのものにすること。
② コトバと、コトバのはたらきにむすびつけて、感覚・知覚・想記・表象・思考・想像などの認識諸能力をのばしてやること。能力を主体とすること。
③ 自然や社会や人間や文化の事物=実在に対する見方・考え方・感じ方を正しくゆたかにすること。
の3つにおき、しかもこの①②③は相互に関連し、統一するように指導するのだそうである。この考えに異議はない。けれども一般の「こくご」は、国語教育の素地を養い、特に道徳教育のためのものであって、「りか」や「しゃかいか」とたいした違いはない。「たいようが東からでます」と言えば「りか」で、「お日さまが西に」というと「こくご」で、これにフシがつくと「おんがく」になる。
理科の教科書と国語の教科書の違いは、前者のほうが文章がまずくて、工作活動(体験学習)が多い点だけであろう。
国分氏の主張は正しいには違いないが、現実の国語科がこの状態では、良心的な教師でも、②の目的のための教材を足場に、もっぱら③の目的だけを志向して、①の目的がほとんど無視される授業になっているのではないか。少なくとも地方にいる耳目に入る国語の授業の大半はそうである。
こういうと「それはおまえが知らないだけだ。おれたちは③もやるが①もやっている。決して無視していない」という教師が多い。「①もやっている」ではこまるのだ。まず「①をしっかりやってから、②、③を考えて」ほしいのである。教科書の「解説通りに」教えてもらってはこまるのである。
だから国語教育の現代化のためには、国語科の時間の一部(全部ではない)をさいて、教師と子どもが意識的に「日本語の知識を確実に身につける時間」を設定し、道徳教育や社会認識に鉄のカーテンをおろす必要があるのである。
「学校の仕事 教師のしごと」高橋金三郎著より
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