松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

1年生の子どもたち

2009-05-28 21:18:14 | Weblog
 今、多くの学校の1年生は、学校探検をしています。学校の施設や先生方を覚えるためです。目をまん丸にして、輝かせ、興味深く校舎内を探検しています。楽しそうです。わくわくわくしています。
 さて、この1年生の学校探検の写真を見て、みなさんはどんなことを感じますか。私は、「ああ!1年生というのは、なんと頭(脳)も身体もやわらかいなー」と思います。見たこと感じたことが吸い取り紙のように頭(脳)に入る。何の構えや固さのない開放された身体・・・・こんなままで成長していってほしいなと思います。また、いつまでもこんな子どもであるように教師は育てたいと思います。

masaさんへ
 いつも研究会へ参加していてすごいなーと感心します。実践も持参して立派です。若いのに実直に勉強しています。
 masa先生に教わる子どもたちは幸せです。ということはmasa先生も教師一生の仕事として幸せなのですね。
 お互いにぶれないで努力し、進んでいこうね。

教師の忙しさ

2009-05-24 11:01:48 | Weblog

 経験を積んだ教師でも、どんどん教育実践をしてるようには思われません。初任の教師の模範になるような、よい授業をしている教師はそんなにたくさんはいません。どうも授業のよしあしは教職歴にはあまり関係ないようです。その原因は、いくつかあります。
 ①現場が忙しいこと
 ②教師が勉強しないこと
 ③文科省や教育委員会の指示だけに従っていること
 ④努力しなくても給与と身分が保障されていること
などだと思います。
 これらのなかで「忙しさ」に焦点をあてて考えてみます。現場の教師が「忙しくて、忙しくて、落ち着いて授業もできない」と言われることを耳にします。しかし、それが事実ならば、大部分の教師が実践と言えるほどの授業をしていないということになります。そうなると子どもは不幸です。
 もちろん、学校は忙しいです。しかし忙しくない労働なんてほんとうにつまらないと思います。考えてみればわかるはずです。手持無沙汰はなんともやりきれません。
問題は忙しいの内容だと思います。
 教師が授業に真に打ち込み、教科書の赤本や指導書だけで授業をするのでなく、自分で教材を研究したり、資料を集めたり、授業展開を考えたりするならば、ひまななんて言っておれません。ですから、どうしても他の忙しさを克服するしかないのです。
 忙しさの克服は、教師一人では限度があります。学校全体で考えなければなりません。教師は誰も「授業で勝負」とよく言われます。そのためには、教師の仕事に本質的でないものを厳しく吟味し、排除するしかありません。それをするのは、その学校の職員です。とりわけ学校の経営者である校長です。その勇断、果断が待たれます。

教育に関わる「発達」とは・・・

2009-05-20 19:06:42 | Weblog

  「発達の現在領域」というのは、子どもが自力でできることを指す。これ

に対して「発達の最近接領域」とは、子どもが、自分一人だけではできないけ

れども、誰か(普通は大人)の助けを借りればできることを指す。発達という

のは、まず「最近接領域」を経て、「現在領域」へと進んでいく。つまり発達

というのは他者の助けを得てはじめて成立する。

 教育というのは、この「発達の最近接領域」を設定する仕事だ。子どもが自

力では経験できないこと、おこなえないことを大人が一緒にやることで経験さ

せる。
 
大人が積極的に質の高い課題を子どもに与え、一緒にそれを考えていくことで

「発達の最近接領域」を設定する。それによってはじめて子どもは学習し、発

達していける。
 
 子どもの主体的な学習と教師の積極的な介入は対立矛盾する行為ではない。

後者があって、はじめて前者が成立する。二つは切り離せない、というのが、

この理論の考え方である。

そういう意味で、教育とか授業とかにおいては、いつでもそのときどきに、

新しい質の高い課題を与えていかなければならない。子どもが一つのものを獲

得したら、さらにその上の厳しい課題を与え、それに立ち向かわせるようにし

ていかなければならない。子どもたちが一つの質の高いものを獲得するのと同

時につぎの高いものが目の前に見えるようにしていかなければならない。

斎藤喜博「教育学のすすめ」他より

学校はどうして変わらないのか

2009-05-16 13:59:20 | Weblog

 学校は十年一日のごとく変わらない。つまり、進化していない。他の業種から比べるとそれが顕著である。なぜ、学校が変わらないのか、考えてみる。  

① 学校は上を向いて仕事をしている。文科省・教育委員会からくる指令と指示 とかによって動かされている。

② 自分の意志とか自分の責任とかで仕事をしていくということが少ない。

③ どこまでも自分のあずかっている子どもを中心にし、自分たちの実践をするということに欠ける。

④ 校長であるならば、学校教育法では、校長の職務として、「校長は校務をつかさどり、所属職員を監督する」とある。そのために、どうしても管理的な仕事に追われ、本来の仕事である子どもの教育が疎かになりがちになる。

⑤ 学校は変わらなくても給料は入る。身分の保障もある職業である。    

  では、どうしたら学校を変えることができるか

① 自校の子どもたちの理想の姿を全職員が共通認識する。

② その理想を達成するために校内の研修はどうする、どんな教科でどんな授業をつくるのか。そのためにはどんな勉強をするのか、どんなところに研修に行くのか、どんな人を講師として招くのかをはっきりさせる。

③ 授業以外の生活習慣をどうするのかも考える。

④ PLAN(計画)ーDO(実践)ーCHECK(評価)ーACTION(行動)の中で、特にDO(実践)を大切にする。

本を読まない教員

2009-05-13 10:17:43 | Weblog

 本を読まない教員が実に多い。多いと言うよりもほとんどのように感じる。これは私の37年間の教職経験と退職後の初任者指導の経験から見て感じることである。これはどこの学校の教員にも共通していることである。ここ数十年は特に感じることである。
 教員は、研究者であり、実践者でなければならないのに本を読まない。自分の研究課題に関係する書物ならば、身銭を切ってでも本を求めて学ぼうとするのは誰でもすることでありながら、それを専門職とする教員がしないということである。 
 私の見ている限りでは、本とは言えない「○○教育技術」をちらちら見ているくらいのものである。先生方の机上を見ても教育書は見あたらない。そればかりではない。教員の拠り所である「学習指導要領」すら読まないようでもある。
 学校を経営する校長も同様である。校長室は教育法令集、県史や市史、校長会から出されている書物などが飾り物のように置かれている。その校長の信念とするような教育書なども見あたらないし、子どもや授業の実践に直接結びつくような本もないのが実状である。
  若い教員には、確かに今は勉強しずらい環境にある。私の若い頃は、村上芳夫・上田 薫・林 竹二・芦田恵之助・遠井義雄・斎藤喜博・無着成恭・大村はまなどの実践者が世に輩出していた。書物もたくさん出されていた。私はそれらをむさぼり読んだ。今の若い人たちはこれらの名前さえも知らない。
 現在国の教育改革の右往左往の状態や教育内容のレベルの低さに振り回されるなら、これらの先人の功績に学ぶ方がよほど意義があるように思うのであるがどうだろうか。

教育メモ③

2009-05-10 08:24:53 | Weblog

国語科
○国語科において、子どもが話をする、交流することは難しいので、それに逃げている教師がいる。
○辞典を引く前に、自分たちで予想すること
○指をぴったりつけて→ぴったりを辞典で引く→自分で手を合わせる→朗読する
○2年生では、教師がいつも辞典を机上に置いておく。子どもから要求があったら引いてやる。このようにしていくと子どもたちは辞典に興味を持ち、辞典を引くようになる。
○「知識・技能」だけを取り出し、独立させて教え込まないこと
○読んでも読んでもわからない問題はやらなくてもよい。

表 現
○息は膝を使って吸う、息を十分に吸って声を出す。膝はポンプである。
○全身を使わなければ開放にならない。
○対応関係を使う、特に対角線上にすること
○互いに子どもたちが見合うことが大切である。
○一人が演技をしていても、まわりの子どもは仕事をしているのです。Aは何かを表現する。そのときBやCは何をしているか

図 工
○自画像は顔をパーツに分けて下絵を描くようにしたい。分からないときは分けるの原則である。そうすると、一つ一つの部分が詳しく描くことができる。
○補助線が大切である。

生徒指導
○教師の持っている基準が大切である。 
○評価の必要、いいね今の声、いいね今の顔、いいね今のおじぎの仕方・・・ ほめられると子どもはそれがよいという基準になる。どんどん評価してやること。チェクだけは教育ではない。
○特に困っている子ども、言うことをきかない子どもに対して先手の指導をしてほめる。
例「○○さん、○○を手伝って。」「○○さん、今○○をしようとしてるのね、すごい!」
○T先生の書いた文を読んでくれている。うれしいなあ。
 Tこの後、何を書くと思う
T君も読んでくれている
 T最後まで、見ていてくれたね。それが集中というんだ。
 C○○って何だ?
 Tすごい!もう問題を作った。すごい!
 T今日の1時間で発見したことは何?
 T何をやったのか?
 Tこれで、分からないところない?
※子どもが何気なくやったことを、取り上げてほめる。
 例 先生の顔を見ていたね。集中していたんだ。すごい!
 例 並ぶために、(人との間隔を開く)こういう力を使ったんだね。
○ほめる・・・結果ではなくて、どんな力を使って、そのことを行ったか。
 例 静かにしていたね。周りに気を遣うという力を使ったんだね。

その他
○覚え書きノート・・・子どもが学びの原則を書く、特に技術的なことを書かせる。
例 歌うときの口の形、分からないときは切るなど。
○自分自身が開放する、ヘソを出すことができれば学びは入ってくる。
○本物は主流にならない。それは大変だからである。
○物事は、理解は2割、付和雷同は6割、反対は2割
○見えないことを見えるようにする。
例 木の葉から、根っこを。川の下流から、上流を
○人間は思うような人間にしかなれない。だから人間は高いものをめざさなければならない。
○常にその研修にふれていないと、さびる、使えなくなる。本を読む、研修記録を読む、ビデオやDVDを見る。

学校教育は子どもの心を育てているか

2009-05-07 13:01:21 | Weblog

 この歪んだ社会の中で、その影響を受ける家庭の中で、子どもをまっとうに育てるということは大変な困難を必要とする。
 
 残念であるが希望とするのは学校教育しかない。その学校も「受験競争」「全国学力テスト」の中にあってはなかなか子どもの心を育てるところまで行きにくい。 教師がこのことに相当意識して教育をしなきかぎりできない。
 静かに、確実に、地道に子どもの心を耕し、子どもの心を高めていくことが大切である。知識の注入にやっきになっているような教師にはできないことである。

 学校教育において、子どもの心を育てるとはどういうことなのか、それは授業を通して、子どもの心を清めること、誠実に努力すること、人のためにもなり、自分のためにもなること、創造していくこと、協力できることなどを養育することである。

授業以前の問題

2009-05-03 09:42:16 | Weblog
 初任者の「授業」や「生徒指導」「生活指導」を見ていて、共通して言えることがある。ここでは、課題となる面について記してみる。当然、初任者に多いということであるので仕方ないことであるが、1日も早くこれらのことから抜け出すことが大切である。
なお、これらのことは、初任者としたが、若い教師や経験の浅い教師にも言えることである。

◎ 授業、その他の指導において
 ○ 始まる時刻に子どもは自席につけない。
 ○ 次の時間の学習用具が机上に出ていない。
 ○ 授業終始のあいさつに時間をかけすぎる。
 ○ 配布物に時間がかかる。
 ○ 全員を対象にして授業ができない
 ○ いつも教師と子どもの関係で授業が進む
 ○ 個人指導をしていると他の子どもが騒ぎ始める
 ○ 教室に長い列ができる。(ノート点検やテスト直し)
 ○ 次の学習の指示ができていない。(やり終えた子どもが遊んでいる)
 ○ ノートに書く日付やめあてなど時間をかけすぎる
 ○ 子どもから出た意見で学習が展開できない
 ○ 「はい」と言って挙手をさせている
 ○ 手を挙げるとすぐに指名する。(他の子どもは思考停止する)
 ○ 発問や指示がすぐに変わる。(教師の言っていることが理解できない)
 ○ 教師は室内を動き回る。余分な動きが多い。
 ○ 時間をかけて、読み、書く、グループ学習などができない
 ○ 課題や発問が具体的でない。
 ○ 机間指導に補助簿を持っていかない。(子どものよい考えを拾って授業に生かせない)
 ○ 静かな授業のよさがわからない。(わいわい活発な授業がよいと勘違いしている)
 ○ 単元計画がしっかりされていない、場当たり的な指導である。
 ○ 学習中でも安易にトイレに行かす。(どんどん自席を立つ子どもが増える)
 ○ 教師の話
   ・子どもをしっかり見ていないで話す
   ・聞いていないのに話し出す
   ・一度に多くの指示を出す
   ・メリハリのない話し方
  ○ よい意見や行為をタイムリーに言葉にしてほめない(声に出さないと子どもはわからないし、他の子どもにもよさが伝わらない)
 ○ 余分な音(机や椅子、本や筆記用具が床に落ちる音、子どものざわざわした声など)が気にならない
 ○ 細かなことまで世話をやいている。


上記の課題を解決するために

1 基本中の基本として ・・・ 授業の中で学級づくりをすること
 よく、仲間づくりと銘打ってイベントをやる学級がありますが、どれだけ効果があり、 それがどのように学校生活の中心になる授業に活かせるのか見えません。やはり、学級づくりは、授業という営みのなかで進むと考えます。授業と切り離された学級づくりはありません。(※授業から離れた学級づくりは管理的になりがちになるからである。)
  上記のような課題を解決するためには、どうしても子どもが集中したくなる授業、どうしても意見を言わなければならない必然性のある授業、どうしても友だちの意見や助けがほしくなる授業を意図的に仕組んでいくことが必要です。よい授業は子どもに学力をつけるだけでなく、心も育てるからです。
2 教師の価値観を高くもちたい
 子どもづくり、学級づくりは教師の価値観に支えられて、確かなもになります。教師の価値観が低く甘いものであれば、それなりの子どもや学級になってしまいます。よく私が感じることは、初任の先生が子どもの問題点をそのままにしていることや許容していることが、不思議でならないのです。
  授業中に勝手に無駄話をしている子どもがいても、机や椅子を動かす音、学習用具が床に落ちる音がしても、床にゴミがいっぱい落ちていても気にならないで授業を進めることなどです。私なら絶対に許しません。こんなことを許していては、子どもが不幸になります。教師の指導力もつきません。
3 子どもの側にべったりつかない
  掃除でも朝礼でも授業中でも、教師はあまり子どもの側にいかないほうがよい。そのほうが子どもの主体性が育つからである。そのことは、教師は子どもを放任しているのではない、子どものことを忘れているのでもない。教師は子どもから離れていても、常に心は子どもにそそがれていからである。つまり、指導が行われているのである。
例えば、「子どもが廊下に2列に並ぶ場合」では、次のような手順で指導する。
   ① 教師の指導により並ぶ(教え込み)
  ② 自分たちの力で並ぶ 、 号令(集合、気をつけ、前へならへ)などかけない。できたらほめる。
  ③ いつでも教師は子どもを見届ける
  ④ 子どもたちが自らできるようになるまで継続指導する。