松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

通信票を渡したよ、2学期もしっかりね。

2008-07-31 12:46:02 | Weblog
1学期の終業式の日は、子どもたちは通信票をもらいます。子どもたちは顔には出しませんが、通信票の成績はどうなのか、胸の内はドキドキハラハラなのです。
ちょうど私が通りかかった教室では、子どもたち一人ひとりに先生が通信票を渡していました。1学期の学習や生活、健康等のことで子どもを褒めながら、励ましながら、また、努力や頑張りをうながしながら、でるだけ明るい顔で温かい言葉を掛けながら手渡していました。通信票をいただいた子どもたちも、にこっと笑ったり、ちょっと戸惑った顔をしたりして自席に戻り、そうして再びゆっくりと通信票を見るのでした。
通信票の目的は、1学期の学習や生活等の様子を受けとる子どもたちや親の気持ちを考えながら、その状況をきちんと伝えなければなりません。それだけに先生は、通信票をつけるときにも、子どもたちに手渡すときにも大変苦心しています。

1学期の打ち上げ、先生大活躍、子どもたちよ2学期も頑張ろうね

2008-07-25 21:17:06 | Weblog
 学級づくりは授業の中でつくることが原則であるが、たまにはパーッと思いっきり子どもたちを愉快にさせようということで「お楽しみ会」の時間を設定した。
 そして、お楽しみ会は、担任の先生が手品により子どもたちをびっくりさせ楽しませた。
 子どもたちは、普段では見られない担任の先生の手品と話術に驚いた。
 お楽しみ会の終了後には、子どもたちは先生に駆け寄り、目を丸くして「楽しかった」「不思議だった」「どのようにやったの?」「またやってね」等々語りかけた。先生もうれしそうであった。
 子どもたちとの関係がまた一段と深くなったようであった。
 子どもたちが家の人にもこの出来事を話したようで「また、今度もやってください」という手紙もいただいた。
 2学期も子どもたちは弾んで登校してくるだろう。

初任者の授業 3年国語科「三年とうげ」

2008-07-24 14:29:48 | Weblog
 初任者の教師でも「追求方式の授業」を意識してやれば、かなりよい授業ができることが分かってきた。例えば、「自分の考えを持つ」「自分の考えを発言する」「全員が意見を持つ」「友だちの考えを聴く」「グループで話し合う」などの学習の基本ができてきたこと。加えて、国語科でいうならば「文章や言葉に着目する」「文を分ける」「考えを選択する」「証拠をあげる」などの学習活動ができるようになってきたことなどである。
今、多くの学校の教室では、およそ次のような国語の授業が展開されている。
 教 師  しばらくいくと、○○は何がおこりましたか。
 子ども  ○○になりました。
 教 師  そのとき○○はどうしたのでしょうか。
 子ども  ○○をしました。
 教 師  では、そのときの○○の気持は、どんなでしょうか
 子ども  ○○だったと思います。
 と、いうように、事柄的であったり、イメージや感覚にたよるような授業である。しかし、このような授業では、少しも子どもたちは頭を働かせない。子ども同士のコミュニケーションや交流もない。新しい考えも出てこない。辞書も使わない。ただ教師は、子どもの発言を黒板に並べるだけですませる。だから教師の教材解釈もいらない。
 追求方式の授業はそうではない。例えば、3年生国語「三年とうげ」の授業では、次のように課題を設定して授業がされた。
 病気のおじいさんが長生きできるかもしれないと思いついたのはいつだろう。
 教科書の文章は次のようになっている。
  そんなある日のこと、水車屋のトルトリが、みまいに来ました。
  「おいらの言うとおりにすれば、おじいさんの病気はきっとなおるよ。」
  「どうすればなおるんじゃ。」
  おじいさんは、ふとんから顔を出しました。
  「なおるとも。三年とうげで、もう一度転ぶんだよ。」
  「ばかな。わしに、もっと早く死ねと言うのか。」
  「そうじゃないんだよ。一度転ぶと、三年生きるんだろ。
二度転べば六年、三度転べば九年、四度転べば十二年。このように、
何度も転べば、ううんと長生きできるはずだよ。」
   おじいさんは、しばらく考えていましたが、うなずきました。
「うん、なるほど、なるほど。」
   そして、ふとんからはね起きると、三年とうげに行き、
わざとひっくりかえり、転びました。
  そして、ここの場面での授業はおよそ次のように展開した。
  教 師 おじいさんが長生きできるかもしれないと思いついたのはいつ
だろう。
子ども ①おじいさんはふとんから顔をだしました。のところです。
子ども ②おじいさんは、しばらく考えていましたが、うなずきましたの
ところです。
子ども ③「うん、なるほと、なるほど。」のところです。
子ども ④ふとんからはね起きると、三年とうげに行き、わざとひっくり
かえり、転びましたのところです。
教 師 ①②③④のうち、どれだろうか、選んでください人数を数えて
②③が多いと確認する
  教 師  文章から②③の証拠を出してください
  子ども  うなずきましたはまだ迷っている。
  子ども  命にかかわることである。簡単に信じない。だから、うなずく
ところではない。
  子ども  しばらく考えている、それから、うなずいた。
  教 師 「うなずく」を辞書で調べてみよう。
  子ども 「うなずく」は首をたてにふる。
子ども 首を下に動かす。
  子ども  声に出していない。まだ、はっきりと決めていない。
  子ども  「なるほど」を調べたら、確かにとか本当にという意味でした。
  子ども  「なるほど」は本当にです。
  子ども  「なるほど」は確かにという意味だから、「うん、なるほど
 なるほど」のところで、おじいさんは、長生きできるかもしれな
いと思った。
  子ども  「なるほど、なるほど」と2回も続けて言っているからここだと
思います。
教 師  それでは、おじいさんはどこで長生きするかもしれないと思
ったのですか。
①おじいさんは、うなずきました②「うん、なるほど なるほど」 ①か②かどちらですか。
  子ども ③もつくってください。③の考えは、①と②の両方です。
  教 師  それでは、どれですか。
  子ども ③を多くの子どもが選ぶ
                    ・
                    ・
                    ・
 このような話し合いがなされた。教師は、子どもの③の意見に従って、ここのところは終えた。「おじいさんは、ふとんから顔を出しました」の意見も、おじいさんの「ばかな。わしに、もっと早く死ねと言うのか。」の文章を関連させて考えさせたかったし、「しばらく考えていましたが」の「しばらく」の意味も辞書で子どもたちが積極的に調べたので、もう少し、はっきりさせたかった。また、「うなずきました」から「うん、なるほど なるほど」の間の時間はどのくらいなのか、また、何を考えていたのか。「うん」は何に対して「うん」なのかも取り上げるとよかった。このように、課題はたくさん残ったが、最初に紹介したような多くの授業と違って子どもたちは、深く授業の中に入り、一つ一つの言葉に着目して考えた。そして、発言し、聞き合い、うなずき合い、新しい考えを見つけていくことができた。参観していた同じ学校の先生方も興味深く、そして授業の中に入り込んでいるようであった。授業者も授業後、手応えのある授業ができたと喜んでいた。
 これらは、教師の力量もあるかもしれないが、多くは、追求方式の授業の効果であると思われる。
 これまでの国語科の読解のイメージや感覚にたよりがちだった読みの方法を追求方式の授業を取り入れていくことにより、「どうしてこのようになったのか」「なぜこのように考えられるのか」という文章における原理・原則を理解し、話し合うことにより、授業自体が大きく変わることを改めて知ることができた。
 追求方式の授業とは
○“教え込み”と“放任”の授業
  長く行われてきた“教え込み”での教育は、知識を詰め込むことで成果を上げてきた。 しかし、知識偏重が叫ばれ、考える力をつけなければとゆとり教育として“放任”での教育が広がった。
 しかし、日本の学力低下が叫ばれだし、少人数や習熟度別、小学校でも教科担任制を掲げだしたが、一番のよさであった学級経営力が生かされなくなり、全国的に苦しくなっているのが現状である。それを打破する授業。それが追求方式である。
 追求方式のよさには、以下のようなものが挙げられる。
  ①全員が集中する
  ②お互いの発言をよく聞くようになる
  ③思考力がつく
  ④ていねいな子どもになる
  ⑤子ども同士が仲良くなる
  ⑥内容のある価値あるものを求めるようになる
  ⑦子どものすごさを見いだすことができる 

初任研修、光明小の授業を参観しての感想

2008-07-14 17:53:25 | Weblog
 光明小学校で国語の授業を参観させていただきました。まさに児童によってつくられている授業だなと感じました。児童が自分の考えや思いを言いたくなるような課題、言葉を細かくきって細部まで文章を読み取るといった姿にとても感動しました。すばらしい意見がどんどん出てきて、見ている側も授業の中に引き込まれるようでした。
 そんな中でも教師はしっかり目標がぶれることなく児童を最低限の助言等よって導いていく技術はすごいものがあると感じました。そのためには、教師が児童の何倍、何十倍も教材を理解していなければと思いました。
 児童がどうしてこういう考えを言ったのか、またそれまでに至った課題を理解するには、やはり教材解釈を正確に行い、自分にしっかりとした柱を気付くことが大切だと思いました。この研修を生かして、今後の授業づくりや生徒指導を向上させていきたいと思います。(初任者研修 実践記録より)

マコクイズ100ポイント、おめでとう

2008-07-11 14:32:00 | Weblog
 マコクイズ100ポイント合格者が出てよかったね。継続は力なりです。
 さて、ひでちゃんの大好きなセミの季節になりました。何と昨日は北浜小でクマゼミの鳴き声を聞きました。これは珍しいことです。まず、平地ではセミが鳴き出すのは、梅雨開けが多く、例年では7月16~7日前後が多いのです。しかもニイニイゼミが一番先に鳴き出し、次にアブラゼミ、そして、クマゼミが鳴き出すのです。セミの鳴き出す時期も早く、クマゼミでしたので本当におかしいなと思いました。セミのことでわからないことがありましたら相談してください。
 夏の風物詩であるホタルは、すでにゲンジボタルは終わりにちかく、今はヒメボタルの出番になっています。私の住んでいる船明では、夜散歩に出掛けたときには、50匹ほど確認しました。まだ自然が残っていることにほっとしました。

森島先生すごいね!

2008-07-10 14:31:09 | Weblog
 あの質の高い教育誌「事実と創造」7月号に森島先生の国語の授業「サーカスのライオン」(3年)の授業記録が掲載されました。うれしいですね。光明小の国語の授業、教師や子どもたちを代表しているのです。
 森島先生の授業記録を読むと教師や子どもたちが生き生きと教材文を追求している様子が分かります。加えてこの授業記録のよさは、授業展開の手順が小見出しによって分かりやすく示されているところです。どのように授業をつくっていったかが誰にも分かるように書かれているところがいいと思います。よかったね森島先生、光明小学校。

ありがとう、「光明小の思い出を語る会」

2008-07-07 15:29:44 | Weblog
「光明小学校の思い出を語る会」に多数の先生方が参加されたことを本当に嬉しく思いました。会を企画していただいた現光明小の先生方に感謝します。
 楽しく、また、苦しかった日々の思い出を語り合ったり、現況報告をし合ったりして、旧交を温めることができました。
 私は、この3月に退職し、初任者指導教員として、浜北の3つの小学校に勤務しておりますが、授業づくりや学級づくり、教師としてのあり方等の指導の難しさを改めて痛感しています。それだけに、光明小学校のよさをしみじみ感じています。同時に、それをつくり出してくれた、先生方の偉大さを強く思っています。今でもときどき、光明小のホームページやブログを見たりすると、ほんとうによい仕事をしているな、よい子どもたちをつくっているなと羨ましく思ったりしています。
 追求方式の授業については賛否がおありでしょうが、私の37年間の体験や経験では、これを上回る授業や、子どもたちを知り得ません。是非、自信を持って実践の継続をし、子どもたちの幸せと教職人生の充実をつかんでいただきたいと思います。

何をはなすかより、どう聞かせるか

2008-07-03 14:04:17 | Weblog
 「土曜日であるにもかかわらず、大講堂で600人もの学生が熱心に聞き入る授業がある。座席がなく立ち見もめずらしいことではない。」こんな授業を展開するのは、「聞かせる技術」の著者、立教大学 山口義行教授である。
 今時の学生が私語もなく、静かに聞き入る授業とはどんな内容の授業なのか、また、どのように聞かせているのか興味があったので読んでみた。
 山口教授は、「何を話すかより、どう聞かせるか」がポイントだと言う。確かに何を話すかの内容も大切であるが、それをどう聞かせるか、については、あまり工夫したり、努力したりはしてこなかった。
 授業を生業とする私たちの必見の書だと思う。一読を勧めます。