松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

嬉しかったよ、泣けてきたよ、すてきな送別式

2008-03-26 17:34:44 | Weblog
 今日は「送別式」がありました。子どもたちも多数出席して、感動的なお別れの式をしてくれました。
 教頭先生からは、私を含めて7人の転退職の職員への暖かなお言葉をいただきました。引き続いて、6年生の長吏穂さんが全校児童を代表して、7人の先生方一人一人に、お礼の言葉を発表してくれました。吏穂さんは、先生方の日頃の仕事ぶりをよく見ていて、ほんとうにその先生に合った言葉を掛けてくれました。それも原稿も見ずに、きちんと先生の顔を見ての発表でした。私は嬉しくて涙が込み上げてきました。ほんとうにありがたかったです。
 その後は、代表の子どもたちから素敵なデンドロビウムの花の鉢をいただきました。子どもとしっかりと握手をしてありがたくいただきました。最後に子どもたちと歌った校歌は、今までで一番よい歌でした。私たちに光明小の校歌をしっかりと印象づけてくれるよな歌声でした。きちんと前方を見つめ、息をしっかりと吸い、やわらかく体を揺らし、何か思いを込めるような美しい顔で歌ってくれました。さわやかな声と空気が体育館いっぱいに広がりました。
 退場の際には、子どもたちと感謝や励ましの言葉を交わしながら、握手し、ハイタッチして体育館を後にしました。素敵な子どもたちでした。見事な子どもたちでした。暖かでやさしい子どもたちでした。ほんとうに嬉しかったです。よかったです。ありがたかったです。
 子どもたちの様子から保護者の方々の学校や私たちに対するありがたい思いが伝わってきました。光明小万歳!

子どもの可能性が引き出された卒業式でした

2008-03-22 21:00:23 | Weblog
 私は卒業式は最後の授業であると考えている。6年生は、6年間に学んだ全てのものをこの卒業式に出し切ってほしいと願っている。在校生を代表して参加する5年生も同じである。5年間で学んだ全てを出し切ってほしいと願っている。
 力を出し切るものは、呼びかけの言葉の内容や声であり、歌声であり、返事の仕方であり、礼の仕方であり、歩行の仕方であり、集団での統一であり、一人一人の個性的な声であり、動き等である。従って、卒業式はその年度の子どもたちの学びの深さや豊かさによって毎年変化する。それは、子どもたちの持っている力をできるだけ引き出すために会場の形態や子どもたちの別れの言葉や歌を工夫するからである。
 今年は、授業や表現活動の充実が例年になく図られたこともあり、5,6年生の「別れの言葉」は、授業の内容にかかわるものが多くなった。また、それを表現するために、一人一人を前方に出して、身体表現を加えながら呼びかけをしたり、歌をうたったりした。子どもは教師の予想を超えた素晴らしい力を発揮した。ほんとうに嬉しいことである。

やったね!感動した「6年生を送る会」

2008-03-12 09:02:25 | Weblog
 7日(金)に5年生が中心となって運営する「6年生を送る会」が開催されました。お世話になった6年生に感謝するということで、1年生から5年生が趣向を凝らした出し物やプレゼントで感謝の意を表しました。
 最初に、5年生のフレンズ委員会の進行で、ドリーム委員会がオープニングの寸劇や○×クイズをやりました。マイクを使わずによい声で楽しく劇ができました。○×クイズも6年生に関係するもので、みんながどっと笑うような楽しく暖かなものでした。次に1年生から順に6年生へのお礼の言葉が発表されました。
 1年生の発表・・・まだ小さな体ですが、ほんとうに大きな声でお礼の言葉が言えました。歌もよかったです。
 2年生の発表・・・「スイカの名産地」の替え歌で、ジェスチャーをつけながら、とってもユーモラスに6年生への感謝の歌がうたえました。
 3年生の発表・・・リコーダーによる「あの雲に乗って」を演奏しました。心にしみるような素敵な演奏でした。
 4年生の発表・・・6年生の一人一人の名前を呼んで、お世話になった内容を発表しました。6年生の嬉しそうな顔が印象的でした。
 5年生の発表・・・「広い世界へ」の歌をうたいました。子どもたちの声が体育館に豊かに響き、感動的でした。
 6年生の子どもたちも目に涙をためて聞き入りました。6年生の発表・・・下級生へのお礼と励ましの言葉がしっかりと言えました。歌「蕾」を心を込めて歌えました。委員会活動の引き継ぎも力強くやってくれました。
 ○こんなに素晴らしく感動的な「6年生を送る会」ができたのも、6年生がいろいろなところで大活躍してくれたこと、誠実でやさしい子どもたちであったからこそだと思います。また、授業、部活、表現活動、運動会、清掃などで下級生が憧れる姿をたくさん 示してくれたからではないかと思います。
 ○この集会が成功したのは、日常の授業で鍛えられた聴く態度や話し方。表現活動で身に付けた歌や朗読や身体表現がしっかりと発揮されたものと考えます。
 ○教師の指示を待つことなく、自分たちで進んでできたことも成功の大きな要因であったと思います。
 ※保護者の皆様にもご覧になっていただければよかったと思っています。来年はそんな企画をしたいと思います。

本校の研修を振り返る「国語授業」~3~

2008-03-10 17:02:39 | Weblog
 本年度も終わろうとしています。浜松市教育委員会指定研究発表会と、全国に向けての自主研究発表会と1年に2回もの研究発表会を開催しました。研究発表会は、①子どもたちを伸ばす、教師も伸びる②本校の教育を世に問うの2つの目的をもって開催しました。子どもたちや教師の努力によって大きな成果を上げることができました。そのいくつかの成果や課題、確認しておかなければならない大切なことについて連載したいと思います。
○ 子どもを変える授業とは
 教師であれば、誰しもがよい授業を創りたいと念願する。よい授業とは、結果としてその教科における能力技能の達成が目指されるが、何よりもその1時間が子どもにとって充実感に溢れたものでなければならない。もちろん授業には、教師の説明によって理解し記憶するという部分がある。また技能を身に付けるために練習をする、という部分もある。これらはどちらも、そのときどきの子どもの能力によって、自分のものにしてゆく度合いや速度が異なる。したがって個々の指導が必要になる。
 これに対して、教師側から、考え抜かれた本質的・根源的な問いが投げ込まれたとき、子どもはそれに立ち向かい、困惑し、葛藤し、自らの答えを生み出そうと苦悶する。誰かが一つの答えを示せば、それに対立し、共鳴し、あるいはまた新たな混乱をかかえこむ。教師の助力によって、いくつかの考えが整理され、また吟味される。あるものは捨象され、あるもの承認され、またあるものは止揚される。これが授業の中心となる部分である。
 さまざまな考えを求める場では、すべての子どもを授業に参加させることができる。ここでは「わかったか、わからないか」「できるか、できないか」が問題ではなくて「どう思うか、そう考えるか」が問題だからである。
 実は、授業の中核に、この部分を据えることによって、子どもの主体性が獲得され、「理解」や「技能」の側面も飛躍的に伸張し、「態度」や「関心」もおのずと形成されていくのだが、いまは「理解させるー覚えさせる」ことに終始する授業が、あまりにも一般的であるように思われる。
 授業が、考えの深化に方向づけられ、積み重ねられていくにつれて、子どもは、教師や他の子どもたちに心を開き、こだわりを捨てて、他を受け入れるようになっていく。自信をもって自己を表出できるようになると共に、周りの意見に耳を傾けようとする。こうして、よい授業は、子どもの性格をも変えていくものである。
                          岩手県元校長 渡辺皓介

本校の研修を振り返る「国語授業」~その2~

2008-03-07 09:02:15 | Weblog
本年度も終わろうとしています。浜松市教育委員会指定研究発表会と、全国に向けての自主研究発表会と1年に2回もの研究発表会を開催しました。研究発表会は、①子どもたちを伸ばす、教師も伸びる② 本校の教育を世に問う の2つの目的をもって開催しました。子どもたちや教師の努力によって大きな成果を上げることができました。そのいくつかの成果や課題、確認しておかなければならない大切なことについて連載したいと思います。
国語授業について~その2~
○教材の解釈につて従来から言われている「教材研究」と「教材解釈」とはどのような違いがあるのだろうか。私の考えは、「教材研究」とは、「教材解釈」よりも教材を広義に捉えて研究することのように思う。
例えば、その教材の周辺、作者の生い立ちとか時代背景、同じ作者の作品にはどんなものがあるか等であり、これらは教師が子どもに教えたり、紹介するというような指導になりがちになる。また、その文の主題はどうなのか、登場人物の性格はどうなのか、物語の筋はどうなのか、どんな課題が考えられるか等であり、これらは、読み手の一読でおおかた決まってしまうようにも思われる。
一方、教材解釈となるとその教材文そのものに着目し、文や言葉をきびしく吟味し、その作業をとおして、文を読み取っていくというように考える。従って、最初に読み取った内容が解釈を経ることにより、変わってくるということが多くある。教師は教材解釈をしっかりやらないと子どもたちに正確で豊かな読み取りの指導はできない。
教材文4年 物語文「ひとつの花」を例として説明する。
「ひとつの花」という教材の中で、お父さんが「ぷいといなくなってしまった」という文がでてくる。子どもたちは、「ぷいっといなくなってしまった」という文を読めば、「ああ、お父さんがいなくなったんだ」と読み取る。普通に読めばそれで終わりである。いなくなったのは、お父さんだと子どもはわかるのである。しかし、子どもたちが「あれ!」と、いうように感じる力をつけたい。あれ、ホームに汽車が入ってくる。目の前に汽車が入ってくる。何でお父さんは、こんな切羽詰まったときにいなくなるんだ。そしたら、その「ぷいっといなくなってしまった」と書いてある文は、ものすごいドラマがあるのではないかということに気づくのである。それを子どもたちと一緒に、1人ではわからない。2人、3人、クラス全員で意見を述べ合う。そして、ああ、これはこういう理由でお父さんはいなくなったのだと発見する。そのために授業はある。
そうすると「ぷいといなくなってしまった」という、最初に得た知識、つまり、単に「お父さんはいなくなった」という知識が「お母さんを助けるために」お父さんはぷいっといなくなったんだ。と、深く読み取ることになる。
子どもたちの一般的な知識をさらに発展させるのが授業である。

本校の研修を振り返る「国語の授業」~その1~

2008-03-04 11:02:59 | Weblog
 本年度も終わろうとしています。浜松市教育委員会指定研究発表会と、全国に向けての自主研究発表会と1年に2回もの研究発表会を開催しました。
研究発表会は、①子どもたちを伸ばす、教師も伸びる②本校の教育を世に問うの2つの目的をもって開催しました。
子どもたちや教師の努力によって大きな成果を上げることができました。そのいくつかの成果と今後の課題等について連載したいと思います。
国語授業について ~その1~
本校の子どもの実態として、子どものコミュニケーション能力の不足が問題となっていましたが、「国語の追求の方式の授業」を導入することと、講師の宮坂義彦先生のご指導をいただくなかで、子どもたちは見違えるように、話し合いが上手になりました。
今では、自由発言や選択問題によって、全員参加の授業が可能になりました。話し合いの質も「追求に値する課題」・「文や言葉に注目する」・「証拠を上げる」というような学習を通して向上しました。いま一度、追求方式の授業のよさを再認識して、今後継続していきたいと思います。
○「自由発言について」考えてみる
①学校は勉強を教えてもらうところなのだという考えから、勉強は友だちみんなで、分からないところを自由に話し合って分かろうとするところである。そのためには、子どもの本音が言えるようにしなくてはならない。また、友だちのたどたどしい発言であっても「うん、うん」「えーっ?!」「ほー」のようなざわめきが自然に出てくるようでなければならない。
②教師の発問に反応し、指名されて発言する子どもがいいのか。教師を介さないで子どもたちが主体的に授業をつくることのほうがよいのか考えてみればわかる。教師はいつでも子どもの主体性を願っているのであるから、当然後者のほうがよい。
③教師の指名による発言では、子どもが受身になる。本音が出にくい、聴いている子どもたちの反応も少ない。④挙手をし、起立しての発言では、指名される → 椅子を引く→ 立つ → 椅子を入れるの一連の動きになる。それは、発言そのものとは関係なく行われます。同時に、起立することによって緊張を強いられることにもなります。もちろんこういう発言の仕方が要求されることもあるのは確かです。しかし、授業の場合は、そういうことよりも少しでも気楽に、どんどん自分の意見を出させ、教師と子ども、子どもと子どもが自然につながり、協働して学習を織りなしていくほうが、より学びが広がり、深まっていきます。私たちはそのことを大切に考えたいと思います。