松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

形式から抜け出せない、学校教育

2017-04-30 08:45:50 | Weblog
                        主体的に学ぶ子どもたち

 学校教育の中では、形式から抜け出せないことがいっぱいある。
 一例を出してみよう。私がまだ現役の頃である。あるクラスでの国語の授業であった。子どもたちの話し合いがよくできるように、机を箱形に近づけて、互いに顔が見えるようにして行った。その授業はよく子どもたちが発言し、深い対話によって一つの学習問題を話し合っていた。また、教師が的確に指導し、子どもの全部を組織し、よい授業であった。
 この授業は教育委員会の指導主事に参観していただき、指導を受ける授業でもあった。授業後、指導主事から次のような話が合った。
〈子どもたちの机は、もっと離したほうがよい。地震や火災があったときには、避難しにくいから〉ということであった。確かに子どもの命が一番大切なのは百も承知、千も合点である。しかし、しかしですよ。あれだけ子どもたちが凄い授業をしているのに、その感想を述べないのはどういうことであろうかと私は愕然とした。私が指導主事であれば、まず、この授業について大いに賞賛するであろと思った。
私はこのような授業によって鍛えられた子どもたちは、たとえ地震や火災が発生しても、対応よく避難できるとも感じた。
この指導主事は、自分の経験知から外れた授業は認めることができなかったのかもしれない。こんなに素晴らしい授業を目の前にしたのに!
こういうことは、指導主事の先生以外でも多くの教師が持っている考えかも知れない。これはほんの一例を示したが、学校が変わっていかない原因の一つと思われる。


※学級づくり、授業づくりに協力します。お声を掛けてください。研修での講話や体験型研修をボランティアで行います。ホームページ「浜松授業研究の会」のお問合せ、ご連絡に記入してください。または、このブログのコメントに記入していただいても結構です。

今でこそ斎藤喜博の授業から学ぶ

2017-04-16 07:19:16 | Weblog
                        斎藤喜博写真集から


斎藤喜博は、著書「教育学のすすめ」の中で次のように記している。〈すぐれた個性的な授業によってだけ、生き生きとした授業はつくられ、生き生した子どもはつくられていくのである。のっぺらとした平均的な一般的な子どもとか学級とかでなく、それぞれの可能性を豊かに引き出された、自分の顔を持った、子どもとか学級とか学級全体とかがつくられていくのである。〉

このような子どもたちや学級は、私がかつて見た斎藤喜博の流れを汲む教育でしか知らない。
 「個性的」とか「のっぺら」とか「平均的」とか「自分の顔を持った」とかは今の学校での授業づくりや学級づくりでは語られないものである。語られないと言うよりも、こんなことを思いもしないであろう。
 今の教育は、教えること、学ぶことが多くて、子どもを真に人間として変えていくことができないといってよいであろう。
 私たちはこのようなことに気づかなければならない。そしてほんとうによい授業とはどういうものか、教育とはどういうものかを考え、実践していかなければならないと強く思う。


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新規採用教員のみなさん

2017-04-02 20:01:39 | Weblog


           ランドセル 手足が生えて 入学す   
                                和泉清一


新規採用教員のみなさん、希望に満ちて張り切っていることでしょう。しかし、馴れないために、上手くいかず、ストレスを抱えることもあります。そんなときは、是非、先輩の先生方に相談してください。教師は教えることが仕事だから、あなた方にも喜んで教えてくれるはずです。相談にのってっくれるはずです。大事なことは、慌てることなく、じっくりと子どもたちと向き合って一人ひとりとコミュニケーションとっていくことです。

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